第8章 旅立ち(4)

 グラント王が朝駆けに出かけたまま昼近くになっても帰城しないと気づいた王妃は、王の寝室にある卓上に「しばらくカリヤ公と旅に出る」と書いた紙を見つけて、微かに自嘲的な笑みを浮かべた。

(そういうことですか。やられたわ……私を欺くなんてひどい方)

 紙片を持って居間に戻ると、マリウスから聞いたというエンリ王子が入ってきた。見慣れぬ表情の母を怪訝そうに見守りながら、

「父上が裏切られるわけはありませんよ、母上。しばらく休暇を取られただけですから」と慰めて顔を覗き込む。

「私が側にいるではありませんか」

「エンリの言うとおりでしょう。でも何となく心配なのですよ。エンリには判らないでしょうけれど……」

 しかし王妃は、エンリ王子の瞳が異様に輝いているのに気づいていなかった。

    父王がしばらく不在だ。面白いじゃないか。私の力がどのくらいのものか、ちょっと試してやろうか。

 あのカムラ将軍一族の者も、従っているように見えるが本心は判らない。忠誠心がどの程度あるのだろう? 特にダイトの見下すような顔付きと態度は気に食わないな。何か、へこませてやれることはないか?

 カリヤへも、青い軍隊をどかっと連れて行ったらアン姫はどんな顔をするだろう?何か口実が見つからないかな。青い軍隊がキラ湖の周りを取り囲む情景を想像するだけでぞくぞくするじゃないか。まあ急ぐことはない。私が王になれば思うようにやってやる。偉大な王になって世界を驚かせてやるぞ  

「何を考えているの? エンリ。楽しそうね」

「いえ、母上に喜んでいただけることがないかと考えているのですよ」

「エンリは優しいのね。私は幸せですよ」

「アムランから歌劇団でも呼び寄せましょうか? 国情も落ち着いたようですから」

「それも良いでしょうけれど、私は早くエンリが良いと思う姫を決めて結婚してほしいと願っていますよ。まだ見当たりませんか?」

「私はまだけっこうですよ。母上が気に入られた姫なら決めますが。父上がお戻りになるまで母上はお寂しいでしょうから、ご一緒に演劇や歌舞団を見て楽しみましょう」

「エンリがいるのですから寂しいとは思いませんよ。国王が不在のあいだ、何事もなく穏やかに過ごしたいと思うだけです」

「ダイゼンは安泰ですよ、ご心配なく」

 エンリ王子の笑顔を見て、王妃も微笑んだ。

 クロード王子は親の期待を裏切って、勝ち気であまり可愛げのないアン姫の許へ行ってしまったけれど、エンリ王子は側に優しく寄り添っていてくれる。あとはエンリにふさわしい良い妃がみつかれば……さあ? カザクラの兄上にも頼んでみましょう。王妃は気持ちを切り替えて明るい表情になった。

 王妃の顔を見て、エンリ王子は尋ねた。

「母上、今日の予定は何かありますか?」

「そうですね。アガタ女官長がカザクラへ帰りますから、その引退式と宴に……長いあいだ私を支えて真摯に勤めてくれました」

「母上は故郷に戻りたいとは思われませんか?」

「私はダイゼンの王妃です。ダイゼンを誇りに思っていますよ。明日は長年リード公妃やアキノ夫人が力を注いだ『子どもの園』で、アゼラから引き取って育て上げた最後の子どもたちが巣立ちます。そのお祝いと、アキノ夫人の功労を称える表彰式、そのあと祝宴にも臨席します。もう引き取る孤児も少なくなって安心ですね。平和がつついている証拠でしょう」

「アキノ夫人はカリヤ公の母君ですね。アキノ邸でもお祝いがあるでしょうに、息子は不在ということですか」

「あの方はグラント王を最優先されますから」

「母上にとっては恋敵のような存在なのに、憎むこともなく、広いお心の母上は立派です」

 エンリ王子の言葉に王妃は沈黙した。ふと昔を思いだせば、憎らしくて刺客を向けたこともある。彼は知っているのだ。(王妃にもご安心を)などとしらじらしい文を寄越した。それでも互いに心に秘めたままの年月が経ったのだ。

 今はクロード王子が選んだ妃の父であり、息子を護る強力な後ろ盾として、粗末に扱うことはできないし、夫が全幅の信頼を置いている男では下手な行動もできない。

 本心は隠して、鷹揚で慈愛深いダイゼンの王妃として、国民の尊敬と信頼を得る努力を続けながら、何かの機会を待っていればいい。

「母上、そろそろ外出の時間ですよ」

 侍女の姿を見てエンリ王子が促した。

「私は母上の息子です。母上のようになりたいと願っていますよ。ご立派な母上のように」

 王妃は優雅な微笑みを見せて立ち上がった。

(私の複雑な思いなどエンリには判らないわ)

 エンリ王子も明るい笑顔で母を見た。

(母上をだますことなど私には簡単なんだよ)


行く手の山々がかすんで見えるのは、雨が降っているからだろうが、進むにつれて陽が昇り、明るくなった雨上がりの青空に、くっきりと大きな虹が弧を描いた。

「見事だ。美しい虹に向かって進むのは爽快だな」とグラント王は笑顔でカリヤ公を見る。

「夢と希望に満ちているようだ。人生は虹色だがタクマにとって思い出深いのは何色だ? 紅い色も良いが碧い色もすばらしい」

「黄や緑も思い出しますが、いま心にあるのはキラ湖の青い輝きでしょうか。もっともいちばん印象深いのは、王子の朱い軍服姿です。世界の頂点に立ったような、恐れを知らない立派なお姿でした」

「もう軍服は着たくないが、余はいつも頂上で明るく輝いていたいぞ」

「これからも太陽のごとき存在でいてください」

「前途は明るい。すこし駛らせようか」

 早くなった駿馬の後を追うような人影が現れた。その二騎は男性のようだったが、また少し後ろから追っていくのは兄妹らしい。男装でもさっそうとした女性が混じっている。そして最後にのっそりと現れたのは、見るからに大物と思われる軍人らしき男だ。

 極秘の旅を望んでいても、どうなることやら、行く方向には花も嵐も待ち受けているようだ。みんなは虹に向かって進んで行った。

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