第1章 揺れる想い(2)
王太子はカリヤへはあまり行けないが、 行けばカリヤ公夫妻はもちろん、みんなが歓迎してくれるし、アン姫とキラ湖周辺を駛りながら自由に会話もできる。隊士たちが従いてくるのはうるさいけれど、王太子を護る任務があるのだから仕方がない。馬を止めると少し離れていてくれるので、内緒話も交わせるし、たまには城内の居間でもアン姫と二人きりになれる。王太子にとっては貴重な時間だ。
しかし、堂々巡りの状態にアン姫は焦れていた。
「どうしてクロードは王太子に生まれたのかしら。エンリが上だったら何の障害もなく、結婚できるのに。私たちはどうなるの?」
「私はダイゼンを護っていく責任があるけれど、王太子の座をエンリに譲ってもかまわないと思っている。しかし父王が許してくださるかどうかが問題だ。考えると頭が痛くなる。アンこそなぜ長女に生まれたのか、悔しいよ」
「私はカリヤに必要なの。サラは弱いし、父上は私を女王にと望んでいらっしゃるのですもの。私は美しいカリヤを愛していますわ」
「それは私も同じだよ。ダイゼンを誇りに思っているけれど、それでも国王の座を捨てる覚悟はある。だからジョンやアンリと親しくするのはやめてほしい。私を苦しめるだけだ」
「カリヤに来てくださるなら、クロードの言う通りにするから、しっかり私を護ってカリヤに来て頂戴」
「アン、既成事実を作ってしまおうよ。私たちの子どもが産まれるとなったら、父王ももう反対はされないだろうから」
「私は嫌。みんなに祝福されて挙式しないと安心できないわ。父上は私が少し早く生まれたとか噂されたらしいのよ、変でしょう? 几帳面な父上らしくないと思うけれど」
「だからアンもかまわないじゃないか。それに父上はアンが好きだから、いざとなれば賛成してくださると思う」
「でも、ダイゼンに来いと言われそうよ」 二人は顔を見合わせてため息を洩らした。
(クロードは王太子だ。それを忘れてはならぬ)父王の顔と言葉が重くのしかかる。
しかし、いつまでたっても進展がなくて苦しい。アン姫の意思が固ければ、自分がカリヤへ行くしかない。だれにも告げず、一人でカリヤへ行ったら、父王はどんな手段に出るだろう? それは恐ろしい半面、自由と自分の希望を得るためには避けられないことだと思われた。
初夏の数日をカリヤで過ごすことになった王太子とエンリ王子は、ロバートやケントなどの護衛隊士数人と、小舟でキラ湖を周遊した。小島では祈祷を終えたイラヤ高僧と、五歳になる男児イクマに会い、軽い接待を受けながら雑談を交わす。イクマはまだあどけないがしっかりした美しい男児だ。他愛ない会話は心を和ませ、幸せな気分にしてくれる。
船まで見送りに来た高僧は、イクマに何か言われたらしい。自分は少し離れて立ち止まり、イクマが大太子に近づくのを見ている。
「王太子」とイクマが後ろから小さく声をかけた。「クロード王太子、船から落ちないように…」振り向いた王太子に、イクマは少し心配げにエンリ王子をちらっと見て、また、「気を付けて…」と、ささやいた。
王太子は微笑してイクマの肩に軽く手を置いてから小舟に乗り込んだ。主船が見えている。風が吹いて湖面の小波はゆれていたが、主船に近づくにつれ、風の勢いは増していく。小舟から主船への渡しに乗り移ろうとしたとき、横波を受けた小舟が大きく揺れた。王太子は風ではない何かに押されたように感じてよろめいた。横にいたエンリ王子が、「危ない!」と言ったが、支えるどころか突き飛ばすように見えたのは気のせいか? ロバートが手を伸ばしたときはすでに遅く、王太子は湖面に投げ出されていた。
「兄上、大丈夫?」と呼ぶ弟の声が空々しい。すぐ飛び込んだロバートとケントに助けられて主船に上がり、濡れた衣服を着替えながら、王太子はなぜイクマが自分に注意を促したのかと疑問に思った。(まるで、こうなることを知っていたようじゃないか?)
妙な男の子イクマに関心を持った王太子は翌日ロバートとケントだけを連れ、イクマがいると言うイラヤ僧院を訪れた。
イクマはうれしそうに王太子を迎えたが、王太子の質問に首を傾げた。
「私には判りません。ただ、何となく感じたり、見えたりしてしまうのです」
側にいたアダ司祭が代わって言葉を添えた。
「時々、思わぬことを申しますが、しばらくすると意味が判りますの。先日も、カリヤにとって大切な方がいらっしゃると申しまして次の日、カリヤ公から、クロード王太子が来訪されると伺いました」
「カリヤにとって大切な?」
王太子はちょっと考えてから微笑んだ。
「私を大切に思ってくれるのはうれしいが、イクマにとって一番大切な人はだれ?」
イクマはまた首を傾げ、少し迷ってから、「アン公女さま」と答え、つづけて「カリヤ公と司祭長さま、そしてアダ司祭さまも、みんな私の大切な方たちです」と言う。
「大切なひとたちと一緒に居られてイクマは幸せだね」
「王太子さまは一緒に居られないのですね」
イクマの言葉に王太子は沈黙した。まだ五歳の幼い男の子なのに、心の中を見透かされているようで落ち着けない。接待を受けて帰途についても、何か心に引っかかった。
(あの子はどうも普通の子ではないようだ。神に通じる力を与えられているのかもしれない。それに私のことを心配してくれる)
澄んだ美しい瞳の中に、王太子を労り、包み込むような温かさを感じるのはなぜだろう?(この子と何かの縁があるのだろうか?)
アン姫はまるで実の弟のようにかわいがっているし、カリヤ正教大寺院の中で、アダ司祭や世話役のリノ婦人などと暮らしているイクマは、様々な教育を受けている。
将来はイラヤ高僧の後を継いで、カリヤを護る力強い存在になりそうだ、と王太子は考える。超能力というものを信じるわけではないが、イクマを見ていると、特殊な力を持っているように感じられるのだ。
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