最終話 終わりと始まり

 春も深まり、新萌しんもえだった木々の若い緑も一気に力強くなってきた。俺は、サニーと二人でダンシードの森に来ている。俺が手にしているのはセラが封止されているガラス球だ。

 昨秋谷にかかったストーンオークを伐り払った時に、封止を解くことはできた。でも、サニーが止めたんだ。まだその時は来ていないと。妖精が森の精気を取り入れる意味は、季節によって変わるのだそうだ。夏の精気は活力を、秋の精気は癒しと慰めを、冬の精気は休息を、そして……春の精気は誕生と再生を司る。今じゃないとだめなの。サニーはそう言って、ガラス球をまだ柔らかい木漏れ日にかざした。


「さあ。封止を解こうか」

「うん」


 ガラス球を割れば封止は解ける。岩に叩きつけて割ろうが、ハンマーで打ち砕こうが、封止解除の結果は同じだ。だけど俺は、鍵のかかっていた扉を開けるように封止を解きたかった。封止されているものが汚い心じゃなく、妖精のセラだからだ。

 やすりで球の上側に丸く窓を象り、木槌で慎重にこんこんと叩く。ぴしっという小さな破砕音とともに窓が開いた。球の中を覗き込んだサニーが、膝を抱えて眠っていた小さなエフェンティを起こした。


「起きなさい。春よ」


 ゆっくり顔を上げたエフェンティは、立ち上がって伸びをすると、ふわっとガラス球から羽ばたき出た。風をまとうように舞い上がったエフェンティが、サニーが頭上に掲げていた右手のひら上にゆっくり降り立つ。

 クレアが再生した時と同じだ。気ままに差し掛かっていた柔らかな木漏れ日が、エフェンティのところに渦を巻いて集まる。小さな蝶ほどの大きさしかなかったエフェンティは、瞬く間に元のセラの姿を取り戻していった。


 サニーの頭上に舞い上がったセラは、久しぶりの森を全身で味わうようにゆったり羽ばたき、サニーの前に降り立った。


「ありがとう。戻れたわ」

「よかったわね」

「……あなたは?」

「わたしはサニーよ。セラとはもう違うの。エーリスと契ったから、一緒にはなれない」

「そうね」


 サニーが両腕を伸ばし、切なそうに俯いたセラをぎゅっと抱きしめる。セラもそっとサニーを抱き返す。サニーが、セラの耳元に惜別の言葉を置いた。


「わたしはね、一つだけ後悔してる」

「後悔?」

「そう。わたしは……サニーは、セラがそうなりたかった願望の姿よ。運命に流されるだけの弱い自分でいたくない。自力で新しい道を切り拓きたい。その強い想いがわたし、サニーになったの」

「……ええ」

「わたしはセラの願望通りになってしまった。言いたいことは溜めず隠さずに口に出し、したいことはなんでもすぐに試みる。真っ直ぐな恋をして、想いを受け入れてくれたエーリスと一緒になれた。でも、本当はセラ自身がそうしたかったんでしょ?」

「……」

「わたしたちは分離しちゃいけなかったんだ。ダンシードを守る役目をセラにだけ押し付けちゃった。ごめんね」


 サニーが、セラの両肩を持ってゆっくり押し返す。


「でもね、セラにはまだチャンスがある。次は……次こそは、自分の運命を自分で決めてね」


 サニーの激励には何も答えず、セラが微笑みを浮かべたままふわっと舞い上がった。それから……春風に溶けるようにして姿を消した。

 セラがサニーとの統合を主張できなかったのは俺のせいかもしれない。罪悪感に駆られて、こっそりサニーに確かめる。


「セラは大丈夫なのか?」

「大丈夫よ。妖精は基本お気楽なの。今は春だし、しばらく浮かれてるはずよ。さあ、帰りましょ。わたしたちに大事な話があるんでしょ?」

「ああ」


 せせらぎの音を縫うようにして、小さな歌声が響いている。セラが歌っているのだろう。俺は、その調べにこっそりと謝罪を紛れ込ませた。


「済まんな、セラ。下手くそな封止で本当に申し訳ない」


◇ ◇ ◇


 帰り道、サニーは馬車の手綱を操りながらずっとしゃべり続けていた。


「わたしね、思うんだ」

「うん?」

「妖精は自分が消えたくないからじゃなく、恋をするから人間になるっていう能力を身につけたんじゃないかな。それって、試金石なんだよね」

「ふうん。試金石、か」

「そう。恋をした相手が、自分の全存在を捧げるにふさわしいか。妖精と人間との二択を迫られるの。人間として生きるのは楽しいことばかりじゃない。永続を捨ててまで人間になる必要が、本当にあるのかって」

「なるほどな。そこで諦める妖精もいるってことか」

「どうかしら」


 サニーが、思い出したようにくすっと笑った。


「ほっとんどの妖精は陥落しちゃうと思うわ。恋の魔法にね」

「うーん、俺にそんな魅力があるとはとても思えんけどなあ」


 首を傾げたら、突然真顔になったサニーがきゅっと口を結んだ。手綱を引いて馬車を止め、俺の顔を覗き込む。しっかり聞いてほしいということなんだろう。


「エーリスの体はお師匠さん。わたしの体はセラよ。どっちも自分のものじゃない。わたしたちは、存在できないはずの不完全体だったの」

「……ああ」

「不完全だから強く惹かれ合ったのかもしれない。でも不完全ゆえに、どちらも滅びの運命をまとっていた。違っていたのは破滅の危機が来るタイミングだけね。わたしは最初。エーリスは最後」

「……」

「エーリスは、自分の運命にお師匠さんを巻き込んだことをものすごく悔やんでた。だから、わたしとセラの分離の時にわたしを必死に抱き止めてくれたの。エーリスが自分の全存在を懸けて守ってくれたことで、セラという入れ物にわたしが宿った。わたしは……サニーは、エーリスの強い想いがあったから生まれ出ることができたの」

「知らなかった」

「わたしだって知らなかったわ。あの日、エーリスの悲しい告白を聞くまでは」

「……そうか」


 背筋を伸ばしたサニーが手綱を叩いた。ぶるぶるっと頭を振って、馬がゆっくり歩き始める。


「でもね、エーリスからもらってばかりなら結局わたしは弱いままよ。それじゃ人間の身を受ける意味がない。だからリーパーとの決戦の時にはなけなしの勇気をありったけかき集めて、自分の限界に挑んだつもり。エーリスが挑んだのは最初……セラの封止の時。わたしの挑戦は最後の最後だったってことね」

「すごいな」

「あはは。それくらいの覚悟がないと、破滅の運命を変えられないんでしょ」


 目を細めたサニーは、淡い春の青空を気持ちよさそうに見上げた。


「全力で挑んだから、今のわたしが在る。望んだわたしが在る。そしてね」

「うん」

「わたしは、まだ望んだものを全部手にしたわけじゃないの。封止工としてはまだ駆け出しもいいとこだし、エーリスと歩く人生も始まったばかりよ。わたしの挑戦は、これからが本番ね」

「あーあ、かなわんな。どっちが師匠だかわかったもんじゃない」

「えへん!」


 偉そうに胸を張ったサニーの肩を抱き寄せ、唇を奪う。泣くつもりなんかなかったんだが……涙の粒がいくつも頬にこぼれ落ちてしまった。


「どうしたの?」


 不思議そうに俺の顔を覗き込むサニーを見て、涙腺がまた緩んだ。


「日差しが……眩しかったんだよ」


◇ ◇ ◇


 春は再生の時、か。その通りだな。俺は一度終わっているんだ。セラがサニーとして新たな人生を歩み始めたように、俺も抱え込んでいた業から離れ、新生エーリスとしての一歩を踏み出すことにしよう。新生の中には工房の再始動も含まれている。


 セラをダンシードの森に還したあと、工房に戻った俺はみんなを面会室に集め、大きな方針転換を告げた。


「みんな、よく聞いてくれ。この工房はガラス工房ではなく、封止を営む工房だ。だが、これまでは封止を俺とバンスだけでこなし、トレス、マックス、セインには補助だけを頼んできた。腕前の違いでそうしたわけじゃないよ。封止が精神的にすごくしんどい仕事だからだ」


 隣に立っていたバンスの背をぽんと叩く。


「俺は……バンスにも封止に関わらせるつもりはなかったんだ。でも、バンスがどうしてもやりたいって言ったのさ。だから、封止のしんどさは全部バンスに伝えてきた。封止にどんな苦労があるのかはバンスに聞いてほしい」


 きりっと表情を引き締めたバンスが大きく頷いた。


「だが封止がしんどいのは、しんどい封止ばかりを引き受けてきたからってのもある。サニーに聞かれたんだよ。どうしてそんなしんどいことばかりやりたがるのって。目から鱗だったな」


 バンスと顔を見合わせて苦笑いする。サニーは俺たちとは逆で、おもしろそうにくすくす笑っている。


「封止で厄介なゴミを作らなくていいなら、俺たちはもっと前向きに封止に向き合える。楽しい思い出や忘れたくない感動をちょっぴり封止すれば、得難い宝物を作れるだろ? 封止がもっと稼ぎになるんだ」


 おおっ! みんなの表情がぱっと輝いた。


「その封止なら、これまでサポートをしてくれたマックスやセイン、トレスにもこなせるはずだ。封止を学び始めたサニーと一緒に、新しい封止のアイデアをいろいろ考えてみてくれ」


 仕事の水準や内容をできるだけ揃え、職工の間で優劣や上下を意識させないこと。一筋縄では行かないだろうが、工房のレベルを上げていくにはどうしても必要だ。サニーだけではなく、俺も挑戦しなければならない。


「もちろん、これまでのようなしんどい封止を全部断ることはできない。そいつは長付きの責務として、俺とバンスとで担う。ただ、これからは封止されたゴミを工房に残さん」

「親方、それをどうやって実現するんすか?」


 トレスが真剣な表情で確認する。トレスが扱うのは金属。ガラスと違って壊れないから心配するのは当然だ。


「封止したものを必ず依頼人に引き取ってもらう。それと封止の有効期間を一年に限定する。引き受け条件を最初に示せば、聞き分けの悪い依頼人のごり押しに悩まされずに済むんだ」

「あははっ、親方。一年で足りなければ毎年封止の依頼に来るから、銭になるってことっすよね」

「ちぇ、バンス。おまえもすっかりそっち系の勘が良くなったな」


 どっ! 全員で大笑いした。


「まあそんなことで、新しいやり方にみんなで挑戦しよう。工房の看板も変える。オークリッジ工房から、オークリッジ封止工房にな。これからは仕事が増える分だけ暮らし向きが楽になる。しっかり頼むぞ!」

「おおっ!」


 稼ぎが増えると聞いてがっつりやる気が出たんだろう。部屋の中が熱気で満たされた。


「親方。新方式の『表』の封止、最初の依頼者は誰になるんすかね」


 興味津々でバンスが突っ込んできたから、にやっと笑いながら切り返した。


「なあ、バンス。『表』は依頼人不要なんだ。商品……そして贈り物ギフトにできるんだよ」

「あ、そうかっ!」


 みんなにしっかり伝えておこう。これまでのしんどい封止は宣伝したくなかったんだが、これからは逆。『表』はしっかり宣伝しないとだめだ。工房の名を広めるためには、俺たちの仕事を理解してくれる上客を大事にしなければならない。


「俺たちはメイフィールド公にとても世話になっている。みんなの新居を整えることができたのも公のおかげだ。その大恩にしっかり報いたい」

「そうね」

「公のお屋敷は今、奥様ご懐妊で祝賀ムード一色なんだよ。夏には待望の世継ぎが生まれる。その時には俺たちの祝意を全身全霊で封止し、最高の逸品に仕上げて公に贈ることにしよう。それまでに各人しっかり腕を磨いてくれ。いいな?」

「ううーっす!」


 みんな、いい顔をしてる。職長冥利に尽きるぜ。


「よし、早速作業だ!」


◇ ◇ ◇


 始まったものはいつかは終わる。確かにそうさ。でも、終わりを考えちまうと生き方が縮む。だから封止がくだらなくなるんだ。違うよ。終わらせて、また始めるのさ。何度でもな。

 師匠の遺言を改めて心に叩き込む。挑め! 諦めるな! それが俺たち職工の意地と誇りってもんだ。


 窯に火を入れる。これまで俺とバンスしかいなかった封止の作業場に、封止工見習いがずらりと並んだ。もちろん、その中にはサニーもいる。俺はみんなの顔を見渡して、高らかに新しい封止の始まりを宣言した。


「封止、開始っ!」

「応っ!」



【オークリッジ工房封止録 了】

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