第8話 心の上書き

 田舎道を、のんびりと二台の馬車が進んでゆく。軽い蹄の音と車輪の軋みが、気ままに絡み合って四方に転がる。公爵の客車が前で、御者は俺。後ろのおんぼろがうちの馬車で、サニーが操っている。

 客車の幌を上げてあるので、風がよく通る。心地よい秋風に流れる金髪を預け、メイフィールド公の奥方クレアが眩しそうに辺りを見渡していた。屋敷のベッドに横たわっていることが多いクレアは、今日の遠出をとても楽しみにしていたらしい。俺は、うらうらと暖かい絶好の行楽日和になったことに安堵する。


「あなた、まだずっと遠いの?」

「いや、ここまで来ればあと一息だ」

「本当に楽しみだわ」


 多忙な夫はなかなか屋敷を温めることがない。公がいくら誠実だと言っても、クレアにとっては寂しい毎日だったのだろう。だからこそ、心の隙間にありえない噂が刺さり込んでしまった。

 しかし、今日は夫婦水入らずでの保養だ。血なまぐさいハンティングではなくのどかなピクニック。心の重荷を下ろすにはぴったりだろう。憂いを全て払拭したわけではないと思うが、表情はとても明るい。もっとも、クレアより公の方がずっと楽しそうだが。


 そうなんだ。公の屋敷でダンシードの名を出した途端、公が椅子から飛び上がって驚いていた。どうしてその森を知っているんだと。ダンシードは、公の幼少時とてもお気に入りだった場所らしい。しかし、公の父親や祖父は公が単独でダンシードに行くことを固く禁じていたそうだ。狩場の森からだと峰を二つ越さねばならないので、確かに子供の足では無理だろうな。

 公が成長して継代のごたごたをこなしている間にいつしか記憶から抜け落ちてしまい、今の今まですっかり忘れていたのだとか。そして公は、ダンシードのある辺りがすでにストーンオークの真っ黒い森になっていることはよく知っていた。もし思い出していても、ダンシードの森が残っているとは決して考えなかっただろう。


 公が、かたわらにいるクレアに楽しそうに子供の頃の話をしている。魚を追い、虫を捕まえ、木に登り、沢に飛び込む。堅苦しい制限のない夢のような空間だったと。無邪気な子供に戻って息を弾ませながら話し続ける夫の顔を、クレアが微笑みを浮かべながらじっと見つめ続けている。


「おっと、そろそろとっつきだな。バンス、馬車は木陰に寄せろよ」

「わかりました」


 俺とバンスが馬車を立木に係留するのを待って、客車から飛び降りた公がクレアを抱き下ろした。夫が自慢していた森とは違う、威圧感のあるストーンオークの大木が目の前にそびえ立つ。クレアは木の圧力に怯えていた。


「怖い……」

「大丈夫だよ。私がついてる」


 クレアの前に出た公は、屈んで背中を向けた。


「ほら、おぶさって。ここから森までは私が運ぶ」


 どうしようかとしばらく躊躇していたクレアは、倒れこむようにして夫の背に体を預けた。両腕を首に回し、耳元で囁く。


「大丈夫? 重くない?」

「私が背負えなくなるほど重くなってほしいけどね」

「んまあ!」


 夫の軽口に膨れたクレアは、それでも嬉しそうだ。

 前に踏査した時と同じように、サニーが先頭に立ってぽんぽん弾むように山道を上がっていく。クレアを背負った公が、ストーンオークの圧迫が消えるまでは無言で歩を進めた。道なき道を登りきると、まるで暗幕が裁ち落とされたかのように世界がぱっと明るくなる。谷を飾る木々の緑が突然鮮やかになるんだ。


「おおおっ、すごいな! 本当に残っていたのか。信じられん!」


 公が、一気に変わった森の様相を確かめて声を弾ませた。


「まあっ! 素敵!」


 クレアにとっても全く想像していなかった景観だったんだろう。公の背中から伸び上がるようにして森を見渡している。


「さあ、ここからは谷の中に降りていきますよー。足元に気をつけてくださいね」


 駆け戻ってきたサニーが公に念を押し、また先に走っていった。高みから見下ろす森と、沢筋に入って下から見上げる森とでは印象が変わる。淡く美しい木漏れ日のトレモロ。水面に映り込み、刻一刻と姿を変える葉影の綾。全てが、清々しい森の精気にすっぽりと抱かれている。

 谷に降りるなり、木靴を脱ぎ捨てたサニーが歓声を挙げながら沢水をばしゃばしゃと跳ね散らかす。


「わあっ! 冷たーい!」

「はっはっは。もう秋だからなあ」

「でも、気持ちいいよー」


 夫の背中から降りたクレアは眩しそうに頭上の木漏れ日を見上げていたが、ゆっくりと屈んで靴を脱ぎ、サニーと同じように素足になった。


「クレア? 水が冷たいぞ」

「平気」


 ぱしゃ。ぱしゃ。足を洗う水の感触を味わうかのように、スカートの裾を持ち上げたクレアが沢の真ん中に歩いていった。それから……両腕を頭上に高々と差し上げ、何かを受け止めるような仕草をした。


「あ……」


 公も俺たちも思わず息を飲んだ。

 てんでばらばらの方向に落ちていた木漏れ日がゆっくりと渦を巻くようにして、差し上げた両腕の間……クレアの頭上に集まっていく。その光が解け、もう一枚のドレスと化したかのようにクレアの身体からだをすっぽりと覆った。


 それは、ほんの一瞬のこと。木漏れ日は再びあちこちで気ままに明滅し始めた。


「気持ちいいわ。森に浸るのは本当に久しぶり」


 クレアが張りのある声でそう言った。ほんのわずかな違いだが、俺にはクレアがまるで別人になったように感じられたんだ。沢水を跳ね上げながら走り戻ってきたクレアが、屈託無く公に抱きついた。


「うふふ。あなたと出会った時のことを思い出しちゃった」

「ああ、そうだ。君と会ったのは、森の中だったな」

「そうよ。まるで昨日のことのよう」


 ぴったり寄り添っていちゃいちゃし始めた公とクレアを見て、俺たちは猛烈な居心地の悪さを覚える。


「公、俺たちは馬車のところに戻っています。お二人でしっかり休まれてください」

「お心遣いに感謝します」


 ぱちんとウインクをした公の目には、俺らなんかもう映っていなかっただろう。


◇ ◇ ◇


「うーん……」


 馬車の真横で、バンスがしきりに首を傾げている。


「ねえ、親方。結局俺たちは封止に成功したんすかね」

「外に出た噂の封止は最初から必要ないよ。事実で上書きできるからな」

「確かに。もともと奥様以外には意味がなかったですし」

「そういうことだ。で、奥様の心に入り込んだ噂の封止が必要ないのもわかるだろ?」

「そりゃあ、あのべたべたを見りゃあ……」


 べしっ! 不機嫌爆裂状態のサニーが、バンスのどたまを容赦無く張り倒した。


「ってえ!」

「あんたの目ん玉は腐ってるわね」

「は?」

「クレアは、根も葉もない噂で歪んでしまった心を封止したんじゃないわ。別の心で上書きしたの!」

「うーん……」


 バンスには、サニーの言ったことの真意もサニーがなぜ不機嫌なのかもわからないんだろう。俺はサニーが言葉の後ろに隠した真相を理解したが、公の夫婦仲に絡む以上バンスには詳しく説明できそうにない。もやっとぼかすしかなかった。


「噂に限らずだが、見えないものの封止にはいい面と悪い面がある。そう割り切るしかないな」

「……うす」


◇ ◇ ◇


 秋の一日を心ゆくまで堪能した公夫妻は、上機嫌で館に戻った。今後、公が噂の封止を俺に懇願することはないと思う。だが、今度は俺が憂いの沼に引きずり込まれていた。予想外の事態が起こったことを、素直に受け止められなかったからだ。

 封止という仕事をしていれば、どうしても人の秘密に接することになる。当たり前だが、封止工は依頼人の秘密を絶対に漏らしてはいけない。俺も、今回の真相は自分の中に封止せざるを得ない。また余計な重石が増えちまったな。


「うーん……」


 作業場で、セラを封止したガラス球を見ながらつらつら考える。

 クレアはサニーと同じで、元は妖精なんだろう。森の中で出会った幼い公とクレアはいつしか愛し合うようになり、夫婦めおとを契る誓いを立てた。だが、妖精のままでは人と一緒になることはできない。クレアは妖精を捨て、人になることを選んだんだ。

 ただ、人への転身時に誤算があった。理由はわからないんだが……セラとサニーがそうであるように、人になる時には性格が妖精時の反対側に振れやすいんだろう。クレアは陽気で自由奔放な妖精だったはず。しかし、いずれ家を継ぐ公の奥方になるにはその正反対であることが望ましい。大人しく慎み深いレディー。そんな風に。

 公に釣り合おうとしたクレアの想いが強い自己抑制につながり、体調に悪影響を及ぼしてしまった。追い討ちをかけるように今回の噂だ。クレアは心身ともに限界が近かったに違いない。


 そこに千載一遇の再生チャンスが訪れた。ダンシードの森への行幸だ。人間にとっては単なる森だが、妖精にとっては精気を補える聖地。クレアはダンシードで大博打を打ったんだろう。セラの時には俺とバンスとで人間と妖精との分離を担ったが、クレアはその逆を試みた。人間であるクレアとわずかに残されていた妖精のクレアとを統合し、傷だらけだった人間のクレアの心を妖精のクレアの心で上書きしたんだ。


 それにしても。クレアが再生したあと、サニーはどうしてあんなに不機嫌だったんだ? 肉体の存続がかかっているから責められないものの、人間としてきっぱり生き方を変えたサニーにはクレアの行為が許せなかったのかな。


「いや、たぶん違う」


 俺は思い直す。クレアの決断の重さはセラと変わらない。自身の消滅を覚悟した上での一か八かの賭けだったはずだ。だが、クレア単独での人妖統合は無理だと思う。セラの時に俺とバンスが手伝ったように、誰かの介助がないと統合はできないはず。俺たちも公も手伝っていないから、介助できたのは元妖精のサニーだけということになる。


「そうか。なるほど……」


 サニーは、クレアの取った手段に納得できないんじゃない。同胞を無意識に介助してしまったこと……人間になったのに、まだ妖精だった頃の本能を引きずっている自分自身が嫌なんだろう。


 引きずっている、か。俺もそうだな。ずるずる引きずっている運命は、来春なんらかの形で大きく動く。きっと悲劇的な結末になるだろう。そいつにバンスやサニーを巻き込みたくない。心の上書きはできても、人生の上書きはできないんだ。俺は……その残酷さを思い知る。


「近いうちに、バンスに大事な話をせんとな」


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