第二章 秋の封止 メイフィールド公の噂

第5話 ダンシードの森へ

「あんたたち! 洗濯ものを溜め込むなって何度言ったらわかるの? 洗っても洗っても汚れが落ちなくなるんだってば!」


 朝っぱらから、サニーがぶりぶり文句をぶちかましている。ああ……確かに妖精と人間は違うな。思わず遠い目になってしまった。おっとりほんわかだった妖精セラとは大違いで、サニーは感情の赴くままに振る舞うおきゃんな少女だった。思ったことは腹に溜めずにすぐ口に出すし、即断即決即実行。控えめで、優雅で、透明感のあるセラの痕跡なんかみじんも残っていない。

 見てくれも激変。引き継いだのは細っこい体型だけで、淡い緑色だった肌はこんがり日焼けして健康的な小麦色になり、髪は乳白色から輝くような銀髪に変わった。十代後半の元気な村娘として、違和感なく工房に溶け込んでいる。


 サニーには、封止の報酬代わりに家事を手伝ってくれと頼んだんだが……手伝うどころの話じゃなかった。家事なんざちょろいと言い放ち、それ以外にも馬の世話から買い出しまで何でもばりばりこなしちまう。うちの野郎五人分の女房役を一人で全部引き受けてるみたいなごっついあねさん感があって、俺以外の四人はサニーに心酔している。

 俺か? 俺はちょっと複雑だ。全く違う世界にぽつんと一人置き去られたことをくよくよ悩まれるよりはずっといい。だけど、いくらなんでも極端すぎないか? 作業場で、セラが封止されているガラス球を横目に見ながらぶつくさ愚痴をこぼす。


 いや……本当は違うんだよ。俺はサニーの変化に眉をひそめているんじゃない。あいつが、すでにセラを意識外に追いやっていることが気になるんだ。

 まあ、今それを悶々と考えてみたところでどうしようもない。秋めいて外仕事が快適な季節になってきたから、ダンシードの森を見てこよう。


「サニー!」

「なに?」


 作業場にひょいと入ってきたサニーに計画を伝える。


「あと数日は好天が続くだろう。今のうちにダンシードの森を見ておきたい。ボーレンの奥なんだろ?」

「そうよ」

「ボーレンまでは馬車で行ける。そこからダンシードまで案内してくれ」

「わかった!」

「頼むな。状況がわかり次第、谷にかかっているストーンオークの伐採に入る」

「うん。すぐ支度する」


 と、部屋を出ようとしたサニーがくるっと振り返った。


「だけど」

「うん?」

「あれ、伐れるの?」


 サニーは、ストーンオークを伐り倒す難しさについて知り尽くしているんだろう。


「ここでもやってるからな。伐採現場を人に見られたくないから、こっそりだったんだ。奥地なら遠慮なくできる」

「あ、そうなんだ。どんな風に伐るのかなー」

「まあ、それは見てのお楽しみということで」


 こくっと頷いたサニーがぱたぱたと走っていった。手際のいいサニーのことだ。外出の準備はあっという間に整うだろう。


「さて。その後のことまで含めての封止だったからな。むしろこれからが本番だ。気合いを入れていこう」


◇ ◇ ◇


 俺とバンス、サニーの三人で、荷車を引かせた馬車に乗り込む。工房の留守はバンスの幼馴染であるトレスに預けた。トレスはガラス器に取り付ける金属装飾品をこしらえる鍛治、細工師だ。ガラスは一切扱えないので、依頼者が来ても「職長がいないからできない」と断れる。


「じゃあ、トレス。留守中頼むな」

「うす。気をつけて、親方」

「ああ、行ってくる。サニー、出していいぞ」

「はいっ! どうどうっ!」


 ぽんと手綱を引いたサニーが馬を器用に操る。これまでは俺とバンスがずっと御者役だったんだが、サニーがやりたいと言い出したので今はもっぱらサニーが馬を操っている。意外なんだが、俺やバンスよりずっと操車の腕がいい。サニーが馬を扱えるのは本当に助かるんだ。買い出しや出荷をサニーに任せられれば、俺たちは制作や封止に専念できるからな。

 サニーも、片田舎とは全く世界が違う賑やかな街でしっかり羽を伸ばしているらしい。世俗を全く厭わないなんて、元妖精とはとても思えないよ。ははは。


「お天気でよかったわー」


 サニーが、木々の梢を見上げて目を細めた。柔らかくなった木漏れ日を浴びながら、馬車がのんびりと山路の奥に踏み込んでいく。


 ウエルクラフト地方は元々高地に位置し、夏の酷暑の時期は短い。秋が深まるとともに木の葉の緑が少しずつ褪せ、やがてとりどりに彩られた葉が風に乗って舞い散るようになるんだが……。

 ストーンオークばかりになると森の見てくれが激変する。分厚い葉は、新しい葉が開く寸前まで落ちることなく林冠を鬱蒼と塞ぎ、真っ暗な樹下には草木一本生えない。餌場がなくなるから、動物も鳥たちも逃げ出してしまう。生き物の気配の乏しい黒い森からは威圧しか感じ取れない。

 ボーレンに近づくにつれてストーンオークばかりになり、道がどんどん狭く暗くなる。俺たちの口数も自ずと減ってしまう。


「おっと、ここが限界だな」


 馬が荷車を引いて通れる幅のある道は、谷の開口部までだ。ここから先は徒歩で沢を上り詰めなければならない。馬車を係留した俺とバンスは二ひろほどの長さの細い木の棒を四本ずつと、麻紐の鞠、太い麻縄のくくりをいくつか持ち、先導するサニーのあとをついていった。

 谷の入り口に立ち塞がっていた巨大なストーンオークの樹下を抜けると、道が急に細くなっただけではなく、道としての体裁を失った。サニーの先導なしじゃとてもダンシードにはたどり着けそうにない。周囲を見渡していたバンスが不安そうに言った。


「傾斜は緩いですけど、方向感がおかしくなりそうっす」

「妖精の罠、みたいなものか」

「どうなんすかね」


 俺らの不安などどこ吹く風で、先を歩くサニーの足取りは軽く、早い。人間になったと言っても、故郷の森がすぐ近くにあると力が湧くんだろう。

 緩斜面を登り切ったところで、突然視界がぱっと開けた。


「おおっ! これは」

「森が全然違いますね」


 谷を埋めている木々の葉色はストーンオークよりもずっと柔らかく瑞々しい。森の香気に満ちた薄雲が谷からふわりと立ち上がり、俺たちに絡まってから初秋の日差しに溶ける。

 尾根を下り谷に近づくにつれて、大気の温度がすうっと下がっていく。弾ける緑は包む緑に変わり、くだらない封止でささくれていた心を和らげてくれる。


 谷底に降り立った俺たちを、軽やかな流水の音が出迎えた。ぽんぽんと木靴を脱ぎ捨てたサニーが、歓声を上げながら沢に走り込んでいく。


「わあいっ! ここがダンシードの森よっ!」


 沢水を素足で跳ね散らかしながら、サニーが嬉しそうに叫んだ。沢辺の草むらに荷物を置いて周囲を見渡す。確かにセラが棲まうに相応しい、とても神々しい場所だ。谷底なので広くはないが、にれ胡桃くるみ舎人子とねりこなどが思い思いに枝を伸ばしていて葉群がとても美しい。清純な森の精気が谷をいっぱいに満たしている。


「こりゃあ素晴らしい! よく残っていたなあ。ほとんど原生じゃないか」

「そうよ。だからこその聖域なの」

「意外と近かったですね。ボーレンからゆっくり歩いても十五ミンテくらいで」

「ああ。傾斜もそれほどきつくなかったな。炭の荷下ろしは難しくなさそうだ」


 きゃあきゃあと楽しそうにはしゃぎ回っているサニーを横目で見ながら、身体の中の汚れを洗い流すように大きな深呼吸を何度も繰り返す。いつも薄暗い作業場にこもって陰気くさい封止をしているから、森の清々しさは格別に心地いい。

 だが……じっくり見回すと、聖域が消滅の危機に瀕していることはすぐにわかった。谷のあちこちに黒く大きな影が射しかかっていたからだ。ストーンオークの大枝がじわりと谷の上を塞ぎつつある。思わず顔をしかめた。


「十年どころか、せいぜい数年しか保たないな。間に合ってよかった」

「そんなに成長が早いんですか?」

「ああ。だから厄介なんだよ」


 詳しく説明しておこう。バンスにはガラスや封止のことだけでなく、作業に必要な薪や炭のこともしっかり覚えてもらわないとならない。


「ストーンオークは他の木々よりもずっと長命で大きくなるんだ。その上、変わった特徴がある」


 ストーンオークの太い枝を指差す。


「普通は木の大きさに限界ってのがあって、その限界に近づけば成長は衰える。でもストーンオークは違うのさ。大きくなればなるほど成長が加速する。あいつの限界は俺らが考えてるよりもずーっと先にあるんだ」

「うわ」


 ぎょっとしたようにバンスが大枝を凝視した。


「この森に迫ってきているやつらは確かにでかいんだが、実はまだまだ若木なんだよ」

「そうか……」


 ざっと見回したところ、この聖域を瞬く間に壊しかねない大物は数本だ。そいつを急いで取り除けば緩衝帯を確保できる。あとは、年に何本かずつ谷の周囲から大木を遠ざけていけば、しばらく安泰なはずだ。

 俺らそっちのけで沢の中を駆け回っていたサニーが、息を弾ませながら駆け戻ってきた。


「どう?」

「あらましはわかった。厄介なやつを今から倒す」

「うそお。鋸も斧もなしで伐れるの?」

「はははっ。普通の杣道具で効率よく伐り倒すのは無理だよ。だから杣夫が避けるんだ」

「じゃあ……どうやって?」

「まあ見てろって。危ないから、作業している木からは遠く離れていてくれ」

「うん」


 ぴょんぴょん飛び跳ねるようにして、サニーが上流に避難した。


「よし、バンス。いつもの要領だ。今日はこそこそやらんで済む。大胆に行こう」

「うす!」


 まず谷の上に登り、倒す木を決める。細長い木の棒四本と麻紐を使って、オークの幹を囲むように四角い枠を組む。最初の枠から握り拳一個分くらい離して、その上にも同様に枠を組む。枠は谷に面した側が高く、反対側が低い。斜めになっているんだ。念のために太い麻縄を数本大枝にかけて山側の他の木に結え、しっかりと張力テンションをかけておく。


「伐倒開始!」

「応っ!」


 左手で呪術書を開き、右手を枠に軽く添え、二人で大木を挟む込むようにして大声でまじないを唱える。


「全てを分ち、全てを離せ。セパレ!」

「全てを分ち、全てを離せ。セパレ!」


 ぎしっ。巨体がぶるっと震え、枠をかけたラインに沿ってわずかにずり落ちた。


「退避っ!」

「はいっ!」


 根株から切り離されると、木は莫大な自重を支えられなくなる。幹がゆっくり傾き、周囲の木の枝葉をめりめりとへし折りながら倒れていった。

 ずしー……ん。大きな地響きとともに巨木が地に倒れ伏す。枝葉で埋め尽くされていた頭上にぽっかり大きな穴が空いて、そこから眩い日差しが矢のように降り注いだ。


「わっ!」


 何が起きたか理解できないサニーが、口をぽかんと開けたまま俺らを見上げていた。


「次行くぞ!」

「うっす!」


◇ ◇ ◇


「うーん、なんであんなことができるの?」


 工房に引き上げる馬車の荷台で、サニーがしきりに首を傾げている。理屈がどうしてもわからないらしい。俺は手綱をバンスに任せて、サニーの疑問に答えることにする。


「封止っていうのは、複数の手順の組み合わせなんだよ。まず依頼者から分離し、分離したものを封じる。サニーにはよくわかるだろ?」

「うん。わたしとエフェンティとを切り離して、エフェンティの方を封じた。わかるよ」

「その分離の手順は、単独でも使えるのさ」

「あっ!!」


 いきなりぽんと立ち上がったサニーに怯えて、馬がぶるぶるっと首を振った。


「おいおい、興奮すんな」

「ごめーん。そうか、わかったー。あの二つの枠の中を分離したんだね」

「そう。木ってのは、全体がきちんとつながっているからどんなにでかくても倒れない。そのつながりが切れてしまうと、自分の重みを支えられなくなるんだ」

「なるほどなー。でも、倒しただけ?」

「倒した木を炭にするには、先に少し水気を抜かないとならない。葉がついたまま冬まで置いて、材をある程度乾かすんだ。『枯らす』っていうんだけどね」

「ううー、炭を作るのも大変なんだね」

「もちろんだよ。だから大事に使う。粗末にはできない」


 森を振り返り、偏った思い込みを修正する。ボーレンまで馬車の使える道が通っているのは、杣夫がストーンオーク以外の木を伐って運び出すためだ。ダンシードの木々は、沢の入り口に立ちはだかっていたストーンオークの巨木群に隠されて伐採を免れたんだろう。ストーンオークはダンシードを脅かす存在であると同時に、ダンシードの守護を担っていた。一方的に悪者呼ばわりすることはできない。

 それに、豊かで美しいとはとても言えないストーンオークの黒い森であっても一朝一夕には成り立たない。他の森と同様に、時間を積み重ねることで築かれてきたんだ。森の木々を使わせてもらっている俺たちは、彼らが営々と積み上げてきた時間の重さを思い遣っているだろうか。


 時間……か。時が凝って造られるものがある一方で、時が存在を流し去るものもある。経た時の堅い結晶がストーンオークだとすれば、封止してくれと持ち込まれる負の思念や情念はその逆だ。想いってのはどれほど強くても時とともに変化し薄れてゆく。だが、時による風化を待ちきれないやつが本当に多いんだ。

 すぐ封止に頼るってのは、俺に言わせてもらえば単なる怠け者だよ。そんなのは封止できないと断れれば一番楽なんだが、俺らは目に見えない念を分離して封止できてしまう。それで銭を得ている以上、容易に断れない。

 その上厄介なことに、封止された念の重みが依頼人と俺たちとの間でずれていく。封止が終われば依頼人はすっきりさ。だが、守秘義務がある俺たちはどんどん憂鬱になるんだ。封止期間を有限にしたところで、がらくたを押し付けられる俺たちの負担感は増す一方。俺たちは封止するのが仕事の職工であって、苦悩や煩悩を消し去れる坊さんじゃないんだけどな。


 なぜ、俺たちが他人の塵芥処理を肩代わりしなければならないんだ? 師匠は疑問に思わなかったんだろうか。

 悶々と考え込んでいたら、バンスが手綱を引いて馬車を止めた。


「親方。何か忘れ物っすか?」

「いや、逆だよ。すっかり忘れられるってのはいいなあと思ってさ」

「?」


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