R」Reerer=Er「
1」糜爛した都
一人の少女が死んだ。
理由は面白いものでもない。心臓が徐々に弱くなる不治の病だ。明確な治療法は確立しておらず、少女は病気に抵抗しつつも段々と衰弱していった。少女の人生は、恐らく十九くらいで終わった。恐らくというのは、最期のほうは少女は意識が殆ど残っていなかったから。十九の誕生日を迎えられたかどうかはわからない。
一日のほとんどを病院で過ごし、つまらない毎日。そんな中出会ったのが、ゲームや小説などの娯楽だった。
ロールプレイング。少女はそのジャンルの主人公に焦がれた。ゲームをしている間だけは、少女は少女ではない、画面の中の主人公になれる。少女はある一つのゲームに熱中した。全てを踏破したり、最速でのクリアを狙ってみたり。
悔いがあるか。そう言われると疑問だが、普通の人間として生きてみたいと願っていた。誰もが少女に優しくしてくれた為か、不平等な立場に不満は無かったが、一般的という単語に憧れはあった。
もっと長く生きていたい。せめて人並みにはと、少女はそう願った。……願ってしまった。
『――その願いは叶えられない。』
【Day:1/450/10/1】
目が覚めると、少女は屋外で立っている事に気がついた。いつもの病院ではない。ここは……どこだろうか? ――それ以前に、少女は両脚で立っているという事に疑問を持つべきだったのだろうが、今の少女にそこまで意識を割く余裕は無かった。
少女は周囲を見渡した。四方を囲むように少し高い建物と、道の両端には低い植木。お城の中庭と呼ぶのが相応しいような、そんな空間だった。そして、夕焼けがそれらを綺麗に彩っていた。
――私、死んだんだ。
ようやく少女は、自らの状況を理解した。静かで、心地よい。ここはまるで……。
『ここはただのゴミ溜めだよ。君の思う理想郷――所謂"天国"とは程遠い。』
天国。一瞬そう思った少女の思考を消すように、少女の後ろから声の籠った少年の声がした。少女が振り返ると、そこには明らかにこの場に合わない一つの黒い物体があった。
――何、あれ。
輪郭が揺らいでいるが、なんとか人の形を保っている。ただ人の形を保っているだけで、それを人間だと認識してしまう。決して人間と呼べるモノではないはずなのに。
「……誰?」
『へぇ、意外。驚かないんだ。』
そういえばそうだ。少女の目の前の物体は明らかに様々な法則に反して存在しているが、少女は少しも驚いていない。気味が悪い程に、少女は目の前の異物を受け入れてしまっている。その事実に驚きたいくらいだ。
『僕は何者でもないよ。遠い未来に起こる天災の片鱗に過ぎない。ようこそ、いつか僕らに壊される世界へ。歓迎するよ。』
そう言った途端、人型が消えた。……違う。不安定なのだ。よく見ると彼の周りだけ歪んでいて、彼は現れては消えを繰り返している。
『おっと……、残念だけど今はここまでだ。本当ならこの時代に僕はまだ存在できないからね。またいつか、必ず会おう。』
そう言い残し、黒い物体は周囲の歪みと共に消えてしまった。
――何だったんだろ。
異変は去った。少女は再び思考を始めた。
以前、少女は似たような小説を幾つか読んだ事がある。主人公が死に、異なる世界に転生するという話。となるとまずは……。
「……うん、知らない。今のところは。」
かつて読んだ小説や遊んだゲームの世界、という線を考えたが、少女の記憶にこの光景は無い。生きていた頃の記憶が全て鮮明にある訳ではないが。少なくとも、今はこれ以上考えるよりもここから移動するべきだろうと思った。先程感じた心地よさは既に全く感じなくなっており、静寂は不安を募らせる。
「そうだ。」
中庭は広いが、室内に入る事ができなければ中庭を一周するように建てられている建造物のせいで外にでる事さえも叶わない。扉はあったが、どれも開かなかった。
(せめてあそこまで登れれば……。)
少女が建物の上の通路を見ながら思ったその瞬間。
少女は、建物の上にいた。
「えっ……?」
急な視界の変化に少女は思わず声を漏らす。初めて明確に驚きの感情を表に出した。
何が起こったのかを理解するのにはかなりの時間を要した。少女の目前には、当然城の外の景色が広がっていた。それが否応無く視界に入ってしまった。
「うそ……。」
歴史の教科書で見た事があるような、人災の後の焼け野原。それと同じ景色が広がっていた。一度に入ってきた情報は多いが、一つ一つ処理していく。少なくとも今は、今ですら情報の圧が強いが、それでも更に情報が欲しい。
少女は目を閉じて念じた。あの荒んだ街の中心に行きたいと。そして目を開けると、少女が予想した通り、少女は焼け野原の中心にいた。少女が振り返ると、先程まで少女がいた豪華な城があった。……そして上からは見えなかったが、街には無数の焼けた死体が転がっていた。
生涯、少女は人の死に遭遇する事は一度も無かった。……仮に死の直後、少女が自らを俯瞰するような時間が少しでもあったならば、少女は自らの死を見る事があったかもしれない。
――えっと、そうじゃなくて。
つまりは少女は死体を見慣れている訳ではないが、少女はソレらを眺めていても嫌悪感は無い。
――そうでもなくて。
少し本題からズレていた思考を元に戻す。
瞬間移動。理由は不明だが、少女には自分の思った場所に瞬時に移動できる力があった。
ー ー ー
少女は町を散策する事にした。
『ここはただのゴミ溜めだよ。』
先程の謎の黒い何か(仮称)が言っていた事を思い出す。確かにソレの言葉には納得するものがあった。人間の残り滓だけが平野一面に広がっているのだから。
ふと、壁にもたれかかっている焼死体の右腕が僅かに動いたような気がした。
――気がしたんじゃなくて、今も動いてるんだけど。
先程の黒い何か(仮称)と同様に真っ黒だが、それは黒い何かとは違い生々しさのある黒だ。そしてそれは、ひとりでに立ち上がった。ソレの目に相当する部分は焼け落ちているはずだが、ソレは顔を少女の方に向けると、まるで少女を視覚で認知したかのように少女の方へ歩み始めた。
「……■■■、■■■■!!」
声帯が潰れているのだろう。声にならない叫びをあげ、ソレは走り始めた。そして何故か燃え始めた。
少女が取った行動は一つ。背を向けて逃げる。先程の瞬間移動の事は完全に頭から抜け落ちていた。
「■ゲ■■! ■ト■■■!!」
意味を持つ言葉のようにも思えたが、聞きたくなかった。全力で走るが、それでも向こうの方が少女の数倍は早い。そしてあろうことか少女は瓦礫に躓いた。
――はい。これで私の二周目の人生は終わり。短かったなぁ。
――ここで誰か見知らぬ人が私を助けたり、私に何か超常的な力に目覚めたりすれば或いは……。
逃げる力は持っているのだが、少女はひどく混乱していた。
ー ー ー
少女は死を迎える事は無かった。第三者が助けに来る事も無く、燃える黒(仮称)が少女を襲うその動きを止める事も無かった。当然、少女がこの場を離れた訳でも少女が何か焔に対する耐性を持っている話でもない。
燃える黒い身体は、少女をすり抜けていた。まるでソレが存在していないかのように、少女に引火する事も無く、ただ少女を通り過ぎた。
「……はい?」
そして、少女の後ろで動きを止めたソレは勝手に鎮火し、動かなくなった。少女は数十秒間ソレを凝視していたが、ソレが再び動き出す事はなかった。
「……いや、え……? ちょっと待ってよ……。」
少女はたった今、少女自身に関する知りたくもなかった事実を考察してしまった。
炎はしっかりと地面に引火しているのだ。
「もしかして、すり抜けたのは私のほう?」
少女は近くの民家の入り口に立ち、壊れかけの扉に手をかざす。取手を引き……、それはびくともしなかった。少し詰まるような音を立てることもせず、何の力もはたらいていないかのように静止したままだった。
世界は少女に干渉できず、少女もまた世界に干渉できない。それが今の少女の状態だった。
少女はしばらく歩き続けたが、得るものはなかった。少女の視界に入った燃え滓が増えただけ。すっかり見慣れてしまった。
「止まれ、そこの人間。」
突如、後ろから声がした。少女が振り向くと、馬に乗り武装した人間が十人ほどいた。生きている普通の人間だ。しかし少女が抱いた感情は安堵ではなく、不安だった。仮に彼らがこの世界を生きている人間だとして、少女は紛れもなく異端者なのだ。
「何故まだ生きている。イリバ国とその国民は『灰燼』により滅びたはずだ。貴様、イリバ人の生き残りじゃないだろうな。」
「イリバ……?」
聞き慣れない地名だ。
(いや、もしかしたらどこかにそんな地名の場所があったのかな。)
男が剣を抜き、少女へと突きつける。
「俺が聞きたいのは一つだけだ。お前はイリバ人か?」
「えっと……多分違うと思うんだけど、あの、ここ、どこですか……?」
会話が滞っていると、後ろの兵士の一人が言った。
「アイン隊長、その人転生者じゃないか?」
それを聞いた男が、少し思考する。
「……そう、かもな。一次転生者は稀だが、その確率は高い。」
彼が剣を納め、馬から降りる。
「……疑ってすまなかった。」
先程とは打って変わり、この大男は二十にも満たない少女の前で、堂々と謝罪をした。
「えっと……それはいいんですけど。ここはどこですか?」
対話が成立する事を確信し、少女は彼に質問する。彼を叱って何かを要求する事もできただろうが、彼に深い謝罪をさせる気にはなれなかった。ただ今は、自らの置かれている状況を少しでも知りたかった。
「その前に、名前を聞いてもいいか? 俺はイウティ国騎士隊長のアイン=スミスだ。お前は?」
アインと名乗った彼は、少女の返事を待っている。ちなみにまたしても少女の知らない国名だった。
「私は……。」
言いかけて、止まった。
――私は、誰?
「記憶喪失か。…まあ珍しくもない。ここはイリバ国だった場所だ。数日前にシキ国の魔神によって消されたがな。」
消した。ここには国があり、人がいた。
「どう……して?」
「三度に渡る降伏勧告を無視した愚者たちの末路だ。イリバ人は全員、国王の命令一つで凶暴化する魔法を掛けられていた。シキが動いていなくても、どのみち他の国に滅ぼされていただろう。」
仕方のない事、として片付けなくてはいけないのは伝わったが、この景色が許されていいとは思えなかった。……そうは言っても少女には何もできないのだが。
「リスフィア、アース、エデニス。このどれかに聞き覚えは?」
アインが少女に尋ねる。
「アースって……、地球のこと?」
その中の、聞き覚えのある単語に反応する。
「ああ、そのように呼ぶ者も少数だがいたな。そうか、お前はアースから流れてきた転生者か。となると、少々厄介だ。」
アインが残念そうに言う。
「厄介?」
「アースはこの周辺世界で魔法が存在しない確率が最も高いからな。この世界に適応できずにすぐに死ぬ事が多い。稀に転生時に謎の力を得る事もあるが、……本当に稀だな。」
どうやら、やはりここは少女のいた場所とは別の世界らしい。知らない地名ばかりなのも納得した。
「付いてくるといい。君のような者に詳しい人物に心当たりがある。」
馬に乗ったアインが、後ろに乗るように少女を促す。他に行く宛が無いので、少女は従う事にした。
「ひとまず、イウティに帰還する。お前については……その時に決めよう。」
「あの……!」
馬に乗った直後、少女は彼に質問する。
「ここは、地球じゃないんですね。」
「ああ。君のいた世界とは異なる。」
予想していた通りの答えが返ってきた。
「この世界の名前って……。」
彼に質問したが、彼は答えない。
「アインさん?」
「無いさ。誰もこの世界の名前を知らない。まあ、少し前までは何かと区別する必要が無かったからな。」
ー ー ー
イウティ国首都、王宮地下。
「あのー。」
少女が質問をしようと目の前の人間に声をかけるが、鋭く睨まれる。
「……はぁ。」
現在少女は、何故か牢屋の中にいる。移動の力によりいつでも抜け出せるのだが、そんな気力さえも沸かなかった。「しばらくそこにいてくれ。そこは安全だ。」とは言われていたが、この扱いは酷くはないだろうか。先程まで少しだけ眠っていたが、結局体感数分くらいで起きてしまった。あまり寝られない。
仕方なく再び眠ろうとしたところ、少し遠くから扉が開く音がして、見知った顔が入ってきた。少女をこの国に連れてきて、ここに入れた人。確かアインと名乗っていたはずだ。
「アスミが帰還して、確認が取れた。転生者で間違いない。それと、早く合わせろと煩いから連れて行くぞ。」
アインが勝手に牢の鍵を開け、少女に来るように促す。扉を開けずとも、少女はいつでも外に出られるのだが。
「まだ研究室にいるだろう。研究室はその階段を上がり切ったすぐの扉だ。俺は副隊長に呼ばれてるから先に失礼する。」
そう言い残し、アインは部屋を出てしまった。
「……はい?」
(ちょっと、自由にさせ過ぎじゃないかな。)
ー ー ー
「ここが、研究室?」
少女は言われた通りに階段を登った。長い螺旋階段を登り切った先にある、一つの扉。その先には薄暗い部屋が広がっていた。周りには様々な実験器具や本が置かれているが、よくイメージされやすい乱雑とした部屋ではなく、きちんと整頓されている。
「ん、ああ、お前がアインの言っていた転生者か。」
「あっ、えっと……はじめまして。」
そしてこの部屋の主は、……金髪のツインテールの幼い少女だった。
(小さい……、うん、小さい。)
「今、小さいとか思っただろ。二回くらい。」
――顔に出ていたらしい。
黒衣、と呼べばいいのか、科学者が着ているイメージが強い白衣をそのまま黒くしたような服で、大きさが合っておらず手が見えていない。
「えっと……、うん。はい。」
「別にいい。もう背については諦めている。それよりもお前、まずはそこに立ってくれ。そうしないと始まらない。」
部屋の隅の床にある魔法陣のような装置を指して言う。少女は言われた通りにその上に乗った。
「まずはじめに、すまないな。アインは家族全員を暴走したイリバ人に殺されてる。イリバ人かどうか疑わしい奴を見つけると態度が狂うんだ。……ああそうだ忘れるところだった。あいつから聞いているとは思うが、私の名はアスミ。世界で四人のみに与えられる二つ名『魔神』、その中でも『土の魔神』の銘を得た……まあ、言わば世界最高の魔術師の一人だ。お前のような一次転生者の相手をする事を専門としているから、安心して貰っていい。して転生者、君の名前を聞こうじゃないか。」
……。
無言。
「……そうか、まあ名前を思い出せない転生者も珍しくは無いからな。概ね、お前の死因は突発的な事故ではなく衰弱によるゆっくりな死だっただろう。」
――当たりである。
「えっと……、私、心臓の病気で……。」
少女は覚えている。
「名前は思い出せないが、死因は覚えているのか。他にも思い出せるものがあれば言ってみるといい。転生者は特別珍しい訳でもないが、直接話ができる者は数えられる程しかいないからな。……だがその前に、ちょっと失礼するぞ。」
アスミが右の掌を上に向けると、燃える球体が現れる。彼女はそれを少女の下に撒いた。
「少しばかり、大きな音がするが気にするな。」
瞬間、少女の立っている場所が爆発した。
「生きているか? 凡人に撃ってもギリギリ死なない威力のつもりだったんだが、どうだ?」
煙の中から、無傷の少女が現れる。それにしても、明らかに誰が相手でも死ぬような威力だった。
「えっと……、やりすぎ。」
木製の実験器具や資料など色々なものが黒焦げになり、少女の後ろの壁に関しては崩れて外が見えてしまっている。しかし、少女には一切被害が無い。
「ほぉ、これは驚いた。視覚以外で感知できなかったからまさかとは思ったが、思った通りだな。転生者、その場を離れてみろ。」
アスミは少女の言葉を無視して続ける。言われるがままに、その場から離れた。
「見ろ。」
アスミが、少女が立っていた地面を指差す。地面の全てが燃えていた。
「お前が立っていた場所にも焦げた跡がある。わかるか? 爆発はお前の身体を無視している。そして例えば……。」
アスミが人差し指を上に向けると、指先に黒い炎が現れる。彼女はそれを、予告も無しに少女の方へと飛ばした。
「……ほらな。」
炎の塊は少女の身体を貫通し、少女の後ろに広がる空で凝縮し、爆発した。
「同じ世界にいながら、違う位相にいる。そう仮定するのが普通だな。地球出身のお前なら、少しは理解できるんじゃないか?」
アスミは少女が、地球から来たという事を知っていた。
「アインさんから聞いたの?」
「いいや、お前の発言や反応から推測しただけだよ。地球から来た人間はわかりやすい。それで先程の話だが、要約するとなんだ、お前は万人から観測できる位置にいつつも、違う世界にいる。この世界にぴったりくっついているようで、しかしこの世界に囚われる事が無い。さて、こう話している間に私は三つほどお前の体質の原因についての仮説を立てたが、もう既にそれらの説は取り消された。こうなると残った原因は一つだな。」
呆れるように、アスミは言った。
「お手上げだ。ただの不具合だよ。この世界にはどの理論でも説明が付かない現象、つまりバグが多いのさ。」
言い切った。
ー ー ー
「アスミさん、一つ質問をしてもいい?」
アスミが魔法で壊れた部分を修復し、再び落ち着いた後に彼女に問いかける。
「ああ、答えられる範囲であればな。」
「アスミさんは、もしかして日本人?」
「……。」
無言。しかしそれは肯定の意。少しの間の後に、彼女は口を開いた。
「流石に気付かれるか。地球と呼ぶ人間は日本出身の転生者しかいないからな。それと、名前からも推測できただろう。私は加藤亜澄。生粋の日本人だったよ。ここに来た時に容姿が大分変わってしまって、面影が全く残っていないけどな。その点容姿に関してはお前の方がずっと日本人らしい。」
彼女のその言葉に、少女は違和感を覚えた。少女は、自らの容姿をまだ認識していない。少女は日本に住みながらも両親共に日本人ではなかった事を思い出した。
「私、どんな顔してる?」
「見てみるか?」
アスミが指を差す。その方向には少し大きい鏡があり、鏡の奥に二人の人間がいた。片方は金髪低身長のアスミ。そしてもう一人は……。
「これが、私?」
そこにいたのは、少女の記憶にある日本人の容姿そのもの。黒い長髪で綺麗に整っている。歳はおよそ私が死ぬ前と同じ、十九くらいだろう。服装は白を基調とした薄い服の上に緑の上着と、下は黒の短いスカート。
――えっと。私、こんな顔だったっけ。
「お前自身は見えてるのか。意外だな。」
アスミが言ったそれの意味を、少女は少しの間理解できなかった。
「……あ、あれ? もしかしてアスミさん、鏡の中の私が見えてないの?」
「ああ。だがお前は違うみたいだな。それで、何か疑問があるみたいだが。」
「いや、うーん……。」
自らの本来の顔が浮かばない。
「さっきの記憶の話に戻るが、事故で転生した人間は記憶の連続性の途絶えが一瞬だから、ほぼ全ての記憶を保持できている。逆にお前みたいに段々と衰弱した人間は脳が正常に動いていた頃の記憶に紐付けられるまでに時間が掛かるのさ。今は無理に思い出さなくても良い。」
「アスミさんも?」
「いいや、私も少しだけ記憶の修復を必要としたが、事故だ。だがお前とは違って充分に生きたぞ。もう少しで七十になるところだった。」
アスミおばさんと言おうとするのをなんとか堪える。言ったら、多分殺されるより酷い事をされる。何も干渉されないはずだが、きっと何かされる。
「あれ?」
――違和感。それと同時に、何かがぴったり嵌ったような感覚。
「何だ、何か気づいたら言ってみろ。」
自身を認識したからだろうか。一つ、今この場においては何よりも重要な事を思い出した。
「……リエレア=エル。」
「お前の名前か?」
――そう、だと思う。
この名前で呼ばれていた記憶が、とても遠くにある気がする。自らの容姿を視認した瞬間から感じていたものだ。
「その名前が君自身を指すかそうでないかは重要じゃない。名前とは区別する為のものだ。ひとまずは、君の呼び方に困る必要が無くなった事を喜ぶべきだろう。これから宜しく頼むよ、リエレア。」
少女の名前だと決まった訳ではないが、そう呼ばれる事に慣れている気がする。ひとまずは、少女はリエレア=エルと名乗る事にした。
「さてと、私から言う事はほぼ言い尽くしたな。後はお前が何をしたいかだ。」
「私が?」
「これは私の推測だが……、お前、何をしても死なないぞ。」
「へっ?」
突然、宣告された。
「お前、地下牢で寝ていただろ?あれ、どれくらい寝てたと思う。」
「ええっと、数分くらい?」
「四日だ。」
……沈黙。
「ふぇっ?」
短時間で同じ反応をしてしまった。ここの兵たちは四日も私を放置していたのか、と思わざるを得なかった。
「おそらくは何も食べなくても死なないし、本来なら眠る必要すらないはずだ。騎士団もお前を異常者認定している。まあ、害が無いか確認する為に私に預けられた訳だが。」
「じゃあ、私は……。」
彼女に向かって話そうとした瞬間、部屋の入り口が勢いよく開け放たれた。そこに現れたのは騎士隊長のアインだった。
「アスミ、ウルが来た。」
「……何だと?」
「ローレンからの報告だ。このペースだと二日後に国境を突破し、その日のうちにここまで到達する。」
アスミは少しだけ動揺こそしたものの、すぐに落ち着きを取り戻す。リエレアだけが会話に取り残されていた。
「わかった。今はまずいな。ウルのガキには何としてでも帰って貰う。リエレア、アインと同行してくれないか?」
「へっ?」
三度情けない声が出る。
「私は昨日の脱獄者の件でアンドレフスに呼ばれてる。それにまだ、私はアイツに会う訳にはいかない。」
「了解した。転生者、行くぞ。」
「いやちょっと、え?」
アインがリエレアの腕を掴み、無理やり部屋から引き摺り出そうとする。
……リエレアの身体は、びくともしなかった。そもそもアインはリエレアの腕を掴めなかった。すり抜けていたのだ。
「まあ、そういう事だ。誰もリエレアに干渉ができないし、私たちも一切の干渉を受けない。リエレア、少しアインの事を殴ってみろ。」
「えっ!?」
「大丈夫だ。ただの女子の拳で我らが騎士隊長が倒れる訳ないだろう。アインは強いぞ?」
「えっと……うん?」
言われた通り、リエレアは拳に力を込める。私の拳はアインの腹部に完璧に命中した。彼の腹に当たったという感触があったが、痛みは無かった。
「……全然、痛くない。」
「そうだな、殴られたという感覚……、いや、何かが触れた感触すら無かった。何なんだ一体……?」
「詮索は私がするさ、ほら、さっさと行ってこい。」
アスミがアインの腹を全力で突くと、大きな音と共にアインがあり得ない勢いで部屋の外まで飛ばされた。
(ただの女子の拳で倒れた……。)
ー ー ー
「行ったか。」
一人になったアスミの研究室で、彼女は呟いた。
「……フィリス、どうやら私はとんでもない奴に出会ってしまったらしい。」
誰にも聞こえないように。
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