第119話 藤の花、恋路の瀬
初めて会ったばかりの君と、こんなにも気さくに話せるなんて、僕には有り得ない厚遇だった。
僕は生まれついたときから、この生まれ持った、逃れられない宿命のせいで、大概の他の人たちは畏れ多いと恐縮するか、ひたすらに儀礼的に敬うか、それも、一人の人間としてごく自然に振る舞うなんて、滅多になかったからだ。
君にはまだ、僕の秘密を話したくない。僕が一生逃れられない身分証を君には話したくはない。
ごくありふれた普通の青年として、君と仲良くお喋りがしたかった。
君の笑顔を見上げて、君の喜びを分かち合い、君の憂愁も春の夕暮れと馴染ませて、君の全ての美醜を知りたかった。
これが燃え盛るような恋心なんだ、と数多く読んできた古典の一説を思い巡らしながら、先人たちが皆々、通ってきた、恋路の瀬を踏んだ僕は君を直視できない。
神楽舞を愛する君と藤の花が見事なこの代々木公園で君は朗らかに笑う。
「藤の花、綺麗やね。銀鏡でも山藤がすごく綺麗だった」
藤棚のお膝元には、和やかなイエローの木工薔薇と花房が大きな八重桜、優雅さをモチーフにしたような花菖蒲、紅白の対比が明白な霧島躑躅も咲いていた。初夏の陽気に花々は光り輝くように僕らをじっくりと観察している。
「八重桜、私は好きとよ。染井吉野も綺麗だけど葉桜の後に続く八重桜も好き」
「君は八重桜が似合う。僕からすれば」
君は挙措を付かれたように眼を見開いた。
「こげんな私が?」
僕はうん、と率直に頷く。
「君は自信がないんだね。こんな些少な僕に話しかけてくれたのに」
君は顔を赤らめ、気まずそうに首を横に振った。
「八重桜なんて私とは違うか……」
癖のある日向の国の訛りに、あばたもえくぼの君は、必死になって健気に否定する。
そんな奢らない君の言動も逐一、僕にはとても好意的に見えた。
謙虚すぎる君は、この首都のしがらみには不似合いなのだ。
僕には理解できる。
君には汚い社会の陰部を見せたくはない、と……。
「ありがとう。私、初めて言われたと。嬉しい」
君は僕の名前を春風のような声色で告げる。
「義彦さん。ありがとう」
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