第106話 月のワルツ


 僕がクリームソーダの話に言及すると、少女の眼は幼子が画用紙にクレヨンで描く、お日さまのように輝き、茶目っ気に安堵していた。



「楽しみ。ブルームーンか。お伽話が始まりそうな、綺麗な名前」


 少女と僕は『月のワルツ』を舞踏し、心行くまで森羅万象の果てまで逝きたい、と願う。


 硝子の靴を履き忘れた、シンデレラのような、少女を優雅にレディーのハートを奪う、怪盗として、惑わせ、その心酔を夜の帳まで希求し……、僕らが妙に感傷的になるのは当たり前だけど。


 


 夜にブルームーンに出向くのは、これが初めてだった。


 何度か、孤月書房で古今東西の古語を集めた、古書を探った。


 素養として、じっくりと噛み砕くのも難解ではない、その古語に僕は惹かれ、天地長久までにずっと、そのざらついたページを眺めていた。


 そんな悠久のお暇に僕らは星々の運河の航路へ旅立つ、吟遊詩人となるのだ。



「ここがブルームーンだ。都会の秘境のようなところだろう?」


 三省堂書店の裏側にあった路地裏へ足を踏み入れると、水色の春コートを被った少女は珍しく感嘆している。


「すごい。あたし、こういうところ好き。何で、今まで知らなかったんだろう……」


 カランカラン、と真鍮色の呼び鈴が鳴り、埃に燻る異空間のような店内に僕もまた、胸を躍らせる。


 薄暗い店内は昼間とはまた違った魅力が、零れ落ちる石楠花のような香りを放っていた。


 季節外れの初夏の石楠花にこの感動を託すのも宜しくない。


 


 初秋ならば、形容に相応しい野花はやはり、僕を惑わす、彼岸花か。


 比類なき妖美さで、泉鏡花の掌編にあるような、旅人に誘惑する、曼珠沙華。


 


 ちょっとこの喫茶店の重厚なイメージにはそぐわないけど、秋の花としては、この深紅の妖花は外せない。秋の七草の葛の花か、撫子か、女郎花か、桔梗か。


 


 僕も愛した秋の野花。


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