第94話 幸せいっぱい……


「あなたがそうしたいなら、そうすればいい。でもね、あなたをうちの大学に入学させようか、秘密裏に手続きしていたのに、あなたは自らの人生を粉々に壊したのよ」


 ――最初から計画していた、恥辱を晒す、事案だったんだろう? 


 禍福は糾える縄の如し、僕に勝運なんて絶対に向こう岸からはやって来ない。


 所詮、偽善者同士の馴れ合いのお悔やみだったのだ。


 彼女の権限に頼ろうとした僕のほうこそ前後不覚だったのだ。



「まあ、もちろん、あなたのお父様の権力のほうが絶大だから、いくらでも有意義な嫁ぎ先はあるでしょうよ。私に頼らなくても」


 視界が眩んだ、と思ったその刹那、僕はベッドの上に強者に篭絡された、少女のようになぎ倒され、彼女に胸倉をぐしゃぐしゃと押され、両手を右往左往に駆使しながら、ロープで首をきつく絞められていた。


 息が止まる、と凄烈な痛苦に耐えようとしても、半裸のままでは無防備なまま、抵抗も出来なかった。


 一瞬、何が何だか分からなくなって、喘ぐと血相を変えた、北崎ゆかり女史が僕を怨嗟の眼で僕を見下ろしていた。



「あなたの命って何の価値もないのよ。無価値なの」


 彼女の手があまりも強かった。


 彼女は本気だ。


 学問的に捧げた思想観念をぶつけようとしている彼女に僕が抗う余地はない。



「私は損得勘定が嫌いなのよ。選民思想も嫌い。この社会は平等であるべきなの。格差社会も上級国民の胡坐もみんな嫌い」


 嫌いならば、僕はお前、リベラル派のふざけた主張も大嫌いだ。


「前にね、沖縄戦で家族を戦死された方が言っていた。『あの人たちは余程、幸せいっぱいに生きてきたんだろうね』と」


 舌鋒極める彼女からは、僕が幸せいっぱいで、生きてきたように果たして、見えたんだろうか。


 彼女の洞察力は自由奔放で、地団駄を踏むように身勝手だったのだ。


 僕は見かけ、初対面の人から十六歳の少年なのにまるで、五十歳を過ぎた、人生に疲れた壮年期の男性のように見えるに違いない。


 肌は若いけど、実年齢よりも老成して見えるに決まっている。


 


 幸せいっぱい? 


 こんな貧相な暮らしを強いられている僕が? 


 誰の分際で、あんたはそんな悪口雑言、誹謗中傷を言えるんだよ? 


 雲海に急速に迅雷が発生するように、僕の胸中に渦巻く激情が蟀谷に青筋を立てている。



「あの人たちって誰のことを言っているのでしょうね! 目ざといあなたならば、分かるでしょうよ。あなたはこの言葉を糧に死ぬべきなの」


 彼女は本気なんだろうか。


 僕を殺めたら彼女は殺人者として、一生、逃れられないスティグマを負うことになる。


 

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