第92話 恐怖政治
「あなたはその出自で、他の人が一生かかっても得られない、利得を特権的にある、と話したばかりでしょう。あなたが下手に動けば、世間の国民はあなたを迫害するわよ」
迫害って、僕はその世間体から散々、傷つけられ、踏みつけにされ、脅され、奪われ、酷い受け身の施ししかしなかったから、今さら、世間体から迫害されても恐懼はない。
むしろ、世間が僕を恐れているようにも思えた。
実際、北崎ゆかり女史だって、僕の暴かれた、出生の秘密に恐れ戦き、腫物にでも触れるように扱っているじゃないか。
「迫害はしないと思いますよ。僕は今まで散々、迫害されてきましたから。今更、恐怖政治が負担になってどうしろ、というお茶の子さいさいの話じゃないですか」
彼女の眼は吊り上がり、満面朱が注がれている。
「僕は先生が思うように国家から優遇もされていません。だから、先生に買われたんですよ。買春した先生がいい証拠じゃないですか」
僕が言語道断に言い切ると、彼女の腸が煮え返りくるのが手に取るように分かった。
「あなたはその高貴な出自を糧に随分、冷淡に下辺の者をあしらうのね」
彼女にはどんなに言い繕っても揚げ足取りにしかならない。
「あなたは私を弄ぼうとしたのよ。その身分を利用して。あなたのほうが世間からは糾弾されるわ」
小面憎い彼女の言い分に、僕はおぞましいほどに戦慄した。
どの面を下げて、悪党である筈の彼女が、どんな馬鹿げた、理由を根拠に僕を貶め入れるのか、僕はその返答に非常に困惑した。
「私は差別と偏見は絶対に間違っていると思うの。それが私の人生にかけて捧げた学問的な主要テーマであって、その崇高な実現を邪魔するのは、菊タブーであっても、異議を唱えないといけない」
僕はその菊タブーにさえ、何の恩恵をもらっていないし、むしろ、差別と偏見、優生思想の汚穢の沼地にどっぷり水牢にでも入らされたじゃないか、と沸々と矯激な怒りを覚えてしまった。
「あなたの存在はこの平等を推進する、現代の日本社会での最大限の汚物なのよ」
彼女の流暢な主張には一切合切、口を挟む余地はなかった。
最大限の汚物、と呼ばれた僕はしがない、花廓の金魚売の陰間の少年で、一回りの上の年齢の女性たちの、お涙頂戴劇にこの身を委ねなければ、この東京でも碌に生きていけないのに、彼女は定型的なマジョリティらしく、僕を汚物と呼んだのだ。
最大限の汚物か。
一笑したいくらいに、とうとう、論壇で牛耳る、高名な大御所作家からそんな奇妙な異名で罵られるのだ。
滑稽だ。
本当に造作もないほどの酷烈な仕打ちだった。
僕に何らかの落ち度があっただろうか?
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