第89話 生まれ故郷、安穏の地


 彼岸花の有情に浸っていた僕に、キスした彼女の口の中に纏わりついた、唾液が今さらになって嘔吐を催した。


 正真正銘か。


「あなたの妙な社会を遮二無二に、斜めから見下したような、憂いのある表情もそういう訳だったのね」


 こんなプライドをズタズタに壊された僕が。


 尾行に関して博覧強記なまでの執着ぶりの彼女に僕は思わず、変な意味合いで感心した。



「あなたは誉れ高い、旧皇族の少年。ねえ、そうでしょう。銀鏡辰一君」


 彼女の敵意に僕は彼岸花を踏み倒すように身を構えた。


「調べたら銀鏡、という地名は皇室所以の奥ゆかしい地名だそうね。あなたの母方の実家も同じように私をたぶらかしていたのね。どうりで物珍しい苗字だと思った」


 磐長姫のお社を護衛する、僕の母方の生まれ故郷は壮大な森が広がり、動物たちが安らかに眠る安穏の地だっただけだった。


 そして、僕らは森に抱かれただけだった。


「だからって、何がしたいんですか。僕がどんな生まれなのか、どうだって、いいでしょう?」


 この期に及んでそう、白を切るべきではなかった、と悔やんだのも束の間、彼女の悪意は伝染した治癒も不可能な疫病のように悪化の一途を辿り、僕を汚いもので見るような侮蔑的な目で僕を見下した。



「あなたの価値は上京したての身寄りのない、親から見放された、可哀想な少年というスタンスだったのに、あなたは自らのその大事な付加価値を木端微塵に壊したのよ。自らの出生の秘密を暴くことで。しかも、自分からあなたが素性をうちのゼミ生に頼んだっていうじゃない」


 付加価値とは、どういう意味合いで彼女が述べたのか、信じたくなかった。


 彼女の懲り懲りだと言わんばかりの、荒げた呼気は僕の内情を大きく貶した。



「あなた、ひょっとして、最初から黙っていたんじゃない。私を騙せると思って」


 僕の中には付加価値よりも重責な負荷がかかろうとしていた。


「私はね、今まで戦後日本の格差の是正について、全生涯を捧げて研究を進めてきたの。仕事柄、今まで本当に悲惨な貧困家庭を見てきたわ」


 彼女の光った目線に僕は虎の尾を踏みかけた。



「母親がホストの男と夜逃げした母子家庭の小学生、父親が借金まみれになって一家離散に遭った家庭、学校にもろくにも行けず、ヤングケアラーとして、家族の介護に追われている子供、下の妹や弟のために高校の進学を成績が良かったにも関わらず断念した、哀れな少女もいた」


 彼女の三々五々の貧困層をけたたましく、同情する姿勢とは同じように貧苦にまみれている、僕にとっては重荷になるような、絶大な違和感しかなかった。


 僕だって、経済的な事情で高校に進学できなかったレアケースそのものなのに、彼女は何を根拠に断定しているのだろう。


「どのケースも絵に描いたような、可哀想な人生を送っていた」


 

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