第72話 夕影


夕影が程よく、赫奕の赤金を溶かすように仲夏らしい、強気に差し込んでいる。



「彼が一度、別れを告げに来たとき、このボンニエールを渡したんだ。彼にはその頃、大変なことがあったようで、連れ添っていた彼女と何か、悶着があったらしい。彼は私にその女子学生の居場所を尋ねたのだが、かなり、憔悴し切っていた。私は伝手を辿って探したんだが、結局、見つからなかった。そのお礼がこのボンニエールだよ」


 館主のマスターが言う、昔話に炎帝が君臨する夕間暮れ、僕は耳を寄せた。


「結局、彼は彼女の存在を諦めてしまっていた。あんなに勉学熱心だった学生も学生運動以来、今ではすっかり見なくなった。君を見ていると何となく、彼を想起させる、言葉ではいい妙な何かがあるんだよ。他人の空似ではない、何かが。分が悪いのだが、君のお父さんは?」


「父を僕は知りません。会ったこともなければ、父がどんな人なのかも分からないんです」


 マスターの顔が言い表せないほど強張った。


「ひょっとしたら、君のお父さまかもしれないね。君のそのオルゴールを鳴らす、悲しげな横顔を見ると琴線に触れるような感傷を覚えるんだ。ああ、それじゃあ」


 マスターは何か閃いたようにそのボンニエールを大切そうに手に取った。



「このオルゴール堂はね、来年の春に私が体調を崩したため、閉館するんだよ。ここにある品々も、この忘れ形見のようなボンニエールも誰かに譲ろうと思っていたんだ。辰一君、君がこれを持つといい」


 突然のマスターの提案に僕は畏れ多くも首を横に振り、何度も受け取るのを拒もうとした。


 こんな大切な一品を僕がいただく訳にもいかない、と仕切りになって受け取るまい、と重苦しく覚悟した。


 が、マスターの意志は固かった。


 君が持つといい、と仕切りに言いながら、僕の手の平にはそのボンニエールがこっそりとくるまっていた。



「辰一君、これも何かの縁だよ。君じゃない誰かが導いて下さったんだ」


 マスターの熱烈なアプローチに僕はついに首が折れ、マスターが用意した西陣織で梳かれた小箱に入れ、紙袋に入れ、僕は受け取った。



「きっと、マスターの言う通り、君のお父さんかもしれない。君のお父さんは生き別れになってしまったんだよ。君の横顔を見て感銘したんだ。君が持つといい」


 名前だけ一致していた、そのブルームーンに来店していた、青年と僕の父さんに何の関連性があるか、あるか、分からないけど、僕は受け取った紙袋を抱え、オルゴール堂の静謐な空気感を浴びながら夏の夜、月下美人が小夜風と遊ぶ、永遠の調べを聴く。



「お邪魔しました」


 オルゴール堂の夜気が僕の荒んだ心を掌握し、父さんかもしれない人の持ち主であった形見のようなボンニエールを汚れるまい、と細心の注意を払いながらその場を後にした。


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