第62話 異世界の旅、月花


 このブックタワーを見ると、僕は異世界の旅が始まりそうでワクワクしてしょうがなくなるのだ。


 僕が肩を回しながら東奔西走、本の整理に追われていると、マスターが作業を全集中する僕を見て気にかけたように言った。



「昔、君によく似た、青年がうちにたくさんの文庫本を鞄の中にしこたま入れて、何時間もかけて本を読んでいたんだよ。法学部の学生だった、と彼は自己紹介をした。理知的に眼鏡を鳩尾に何度も押しながら物腰和らげに珈琲を啜ったものさ。隣にちょっと下の女子学生もいたのだけど、その子の横顔にも君はよく似ている」


 僕は作業の途中にも関わらず、僕は一旦停止した。


「青年の知的な眼差しも瓜二つだ。懐かしいなあ。青年は今でもうちへよく来るんだよ。女の子のほうは見かけなくなったけれど」


 口の中が瞬く間に渇き、咽喉を潤したい衝動に駆られる。



「その人の名前は?」


 気が動転しながらも僕は口を割った。


「苗字は知らないが、義彦という名前の色白の青年だった。下世話な話には寡黙でも、関心のある分野には物怖じせず、自分の意見をはっきりと主張できる、実に聡明な青年だったよ。うちには入り浸ってずっと勉強していたな」


 僕の父親の名前じゃないか、と咽喉が潤う。


 とうとう文字化された、とギュッと手首が凍えた。


 僕が心の中で意地でも記したくなかった、父さんの名前。


 伯父さんから教えてもらった、僕の父さんの名前は遠い縁を繋ぐ、唯一の通行手形のように感じられた。


 


 心臓が跳ね返るように音量を大きくさせていく。


 父さんの名前であることは間違いなかった。


 やはり、親子なんだろうか。好みも行きつけの店も同じだった。


 その優しい本性に身を焦がすような想念に駆られたけれど、僕の暗中模索とした心中はとても複雑だった。



「本当によく似ているな。よくうちのカウンター席で司法試験の勉強に励んでいた。休憩中に口を開けば、デカルトやシュバイツァー、老子やニーチェの東西の賢人の名が飛び交い、難解な談義もさらさらと諳んじてしまうような、怜悧な青年だった」


 僕はまだ、そんな古今東西の賢人や哲学者の書を読破していない。


 


 大型書店で陳列された教養的な人文書も、宇宙の探求心を刺激する理学書もちっとも読めていない、半人前の少年なのだ。


 父さんが僕の母さんと出会ったとき、大学生だったというから、僕よりさほど年齢の変わらない頃に数多くの名著を耽溺した、と思われる。


「君のお父さんは?」


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