第61話 月下、初版本
午後から古本祭りにかけての打ち合わせがあるから、神保町にある会館に向かい、会場に付くと僕は開いた口がしばらくの間、塞がらなかった。
会場を埋め尽くしていたのは無数の古書の山領だった。
思わず歓声を上げた僕を宍戸さんは嬉しそうに仕事仲間に紹介した。
「この子は今年の春から来た新入りの子なんだよ。前にも話しただろう」
目の前にいたのはあの喫茶店のマスターだった。
僕が驚きを隠せない中、マスターはにっこりと微笑む。
「おじさんは趣味で蔵書を集めているんだよ。ただそれだけのことさ」
納得した僕はさすが、神保町の純喫茶のマスターだ、と胸を張るように褒め称えた。
「この本は川端康成の初版本だ。本物ならば、値段はゆうに十万円を超すね」
宍戸さんが蘊蓄を語っていると、僕は興味津々に古本を覗き込んだ。
「確か、近代文学館が再版した初版本の再現された本と、本物の初版本は値段に雲泥の差が付くんですよね?」
僕の小さな知識を披露すると、マスターはよく知っているね、と目を細める。
「これは残念だが、後者のほうだな。本物の初版本は絶対数が少なく、稀少価値が飛びぬけているんだよ。神保町でも何十万円で売られている店もあるくらいだ」
仕事の合間に神保町を散策したときも、とある古書店で僕は三島由紀夫の『豊饒の海』の初版本や川端康成の『伊豆の踊子』の初版本を見かけたことがある。
垂涎の的だった初版本を見つけて、僕の胸は一気に高鳴ったが、値段を見て、見事に打ちひしがれてしまった。
僕の給料の何か月分の高額な値段にビビッてしまい、しばらくの間、僕は途方に暮れてしまった。
これは何年かけても購入はできまい。
とは言え、本物の初版本の実物を見られて、僕の至福は満たされた。
「また、喫茶店のほうへ行きたいです。お金がなくてなかなか難しいですけど」
本音を言ってしまってもマスターはちっとも嫌味を見せなかった。
「そうか。それは良かった。君は本当に頼もしい青年だ」
今度、アパートで多めに一休みする、余裕が生まれたら、川端康成の全集を耽溺してみようと思う。
図書館に行って借りてもいいし、神保町には文庫本もワンコインで買える古本もあるから楽しみにとっておこう。
会館には平積みにされた古書や全集が無造作に陳列され、本のタワーになっている。
本の山、津々浦々、多くの人に愛された古書が新たな読書家に出会おうと、今か今かと楽しみに待っているように平積みになっている。
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