第46話 蝉羽月、夜に駆ける


 むしろ、見るも醜悪な容貌の姫ならば、渋谷のスクランブル交差点で聴衆から嘲られ、指をさされ、罵倒され、白い眼で見られ、しまいには無為の存在として、膠着状態になりながら無視されるに違いない。


 


 僕は姫の譫言を小耳に挟みながら、千代田区の九段下から地下鉄駅に入り、穴黒のような構内を突き抜け、とある場所へ満員電車に乗って移動していた。


 姫はその間も背後霊のように僕の後ろ側にぴったりと食い込むように浮遊していたが、不思議なことに周囲の人間には姫の姿は見えていないようだった。


 湿気が蔓延する人いきれの満員電車も普段通りの東京の焦燥感を引き連れていた。


 


 アナウンスで渋谷駅の名前が告げられると、僕は姫を引き連れたまま、密閉した車内ドアを抜け、構内から階段を登り、まだまだ、人通りの多い渋谷駅東口から下界へと臨んだ。


 姫に出会ったならば、ここに連れて行こうと思ったからだ。


 


 渋谷駅東口を出たハチ公駅前広場は多くの夜遊びを決行した若者やサラリーマンで行き交っていた。


 腕時計を見ると、まだ八時半だった。



「ここ、日本でいちばん、人混みが多いところの一つなんだ」


 蝉羽月の渋谷のスクランブル交差点は梅雨闇の夜半、その生温い晴嵐は何となく、居心地が悪かった。


「君の妹さんはどう思うんだろね」


 匿名の合羽を被った人々たちは目的を遂行するように走り去っていく。


 ハチ公の銅像を見下ろすように渋谷のスクランブル交差点の前のビルの百花繚乱のネオンが艶やかに光っている。


 不夜城の渋谷は夜もすがら、月夜烏の僕らを待ち望んでいる。


 摩天楼と登場した109渋谷の商業ビルが美麗とは無縁な姫を見下すように活況を迎えていた。



「あの子のように若くて、美しくて、可憐で、清楚な乙女たちがまあ、こんな界隈で若人たちと遊び回って」


 姫の感慨深そうな愚痴は、小夜中の路上の彼方へ季節外れの雪礫のように淡く、切なく消え去りそうだった。



「私も夜に駆けたいですね」


 姫の冗談めいた戯れも流行歌のように本気で死を望んでいるようにも思える。


「君は死んでいるんじゃないかな」


 

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