第19話 敬意、黄金時代


「感心だ。昔ね、まだ文学に大きな潮流があったとき、名だたる文豪がうちを訪れたことがあったんだよ。私自身がまだ子供の頃の話だけどね。私の父がこの喫茶店を切り盛りしていて、締め切り前になると多くの若手作家や編集者が缶詰になって、繫盛していたな」


 品の良い、マスターの懐かしそうな明るい口調には、過ぎ去った黄金時代に対する敬意があった。



「どんな作家さんの方がいらっしゃったんですか」


 場になれない緊張気味の僕にマスターの眼が光った。


 まるで、その話題のなるのを期待していたような小さな子供のような眼だった。



「坂口安吾も来店したことはあるよ。君は読んだことがあるかね」


 僕は坂口安吾の名前を出されて、真っ先にあの怪奇作品の『桜の森の満開の下』を思い出したので、その書名を口にした。


 マスターには驚きを隠せない、期待感が滲み出ていた。



「そうか。君は『桜の森の満開の下』も読んでいるのか。坂口安吾さんが生きていたらさぞかし、喜ぶだろうな。令和の青年が我が著作を読んでいるのか、とあの世で知れば、飛び上がるほど喜ぶ光景が目に浮かぶようだ」


 その『さん付け』で呼ぶ気さくな経緯に、僕は文学の偉人が本当に、この世の中で生きていたのだ、という取り留めもない、喜悦に駆られた。


 


 憧れの文豪を直接、知る方に出会えたのだ。


 その事実だけでも、美味しい食事でお腹がいっぱいになるくらい嬉しい。



「残酷な物語の中に得も言われぬ、切なさと凄みのある、清々しさが隠されていて、僕はこの世界観が好きなんです」


 宍戸さんが感心したように唸った。



「この子は家庭的な事情で苦労はしているけれども、すごく根がいい子なんだ。もうすぐ、三島由紀夫の作品だって全作品、読もうとしている。まだ十代の青年なのに」


 僕は店頭では十九歳の青年として、年齢を上に詐称していた。


 


 見た目も数年入れ違えても、何の損にはない、と保身のために偽っていたのだ。


 冷えた旨味のある珈琲を飲み干すと、昼下がりの倦怠感を包み込むような、苦味が味蕾を程よく刺激する。


 

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