第18話 豊饒の海、古書


 彼女は僕に性愛を施すばかりではなく、社会問題の一覧を責め立て上げるように、愚痴るのが決まって、喝采と


なっていた。


 僕を深く、いじらしく、身体の奥底から抱えるようにその蜜月を味わうだけでなく、僕の秘められた、これまで、大切に培ってきた純情まで罵り、あわよくば、虚仮にするのだった。


 


 ブラック珈琲は疲れ果てた心身を、即座には癒してくれなかったものの、ちょっとした閑寂な安穏とはなっていた。


 この場であっても、僕はサコッシュから文庫本を取り出し、読みかけた文豪・三島由紀夫の『豊饒の海』の最終巻、あの壮絶な自決後の遺作となった『天人五衰』を読み耽った。


 ブックカバーも面倒なのでそのまま、表紙も丸見えだったからマスターが気前そうに話題を振った。



「今でも、こんな小説を読む若い子がいるんだねえ。昔は大学生でも熱心な読書家は一定数いたけれども、最近ではほとんどの大学生は読まないよ」


 銀髪のマスターからは一張羅の純白のシャツは純喫茶らしい、風格さを醸し出していた。



「宍戸さん、この子はどこの大学のアルバイトさんかね」


 話を振られた宍戸さんは僕に気遣うようにお茶を濁した。



「いいや、この子は遠い親戚の子なんだよ。家庭内の事情であれこれ、言えないんだ。ただ、すごく真面目な青年で吞みこみも早いし、聡明で仕事熱心だよ。顧客を待っているときはうちにある本を全て読破してしまうんじゃないか、と思えるくらい読むのも早いんだ」


 宍戸さんの全身全霊の誉め言葉に邪心はない、と思えた。


 


 マスターが言うように傍から見れば、僕は大学生に見えるのか、と間違われても、ちっとも嫌味はなかった。


 本当はまともに高校生活であっても送れてはいないのに。


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