第16話 風鳴古書街


 後ろから聞こえてきたのは、宍戸さんの心配そうに案じている声だった。


「顔色がすごく悪いから」


 経営状況はあまり芳しくないのに、宍戸さんはサボタージュし損ねた、僕に声をかけてくれた。


 


 夜中に呼び出されて、彼女との身を滅ぼしてしまうような、泥沼の邂逅をしているとは、口が裂けても告げられなかったけど。


 僕は適当に取り繕いながら、宍戸さんに無理して笑った。



「大丈夫です。最近、夜に眠れないだけですから」


 宍戸さんの曇った表情は、すこぶる悪かった。


「休憩がてらに、近くの喫茶店で休もうか。たまには息抜きも必要だ」


 僕のほうこそ、雇われている、卑近な立場なのに、宍戸さんに連れられ、神保町ゆかりの老舗の喫茶店へ足を向かわせた。


 春時雨が上がり、東京の風光る、青空には暗雲が、遠くの彼方へ追いやられた。


 


 通り沿いの並木には、輝かしい水浅葱の宝石のような、絢爛華麗な水滴がついていた。


 神保町名物の路上に置かれた、古本の山もさすがに内部へ避難していた。


 


 その名物喫茶店、通称、『ブルームーン』は神保町のシンボル的な、三省堂書店の近隣にあった。


 


 宍戸さんも行きつけの喫茶店はやはり、孤月書房と同じく、繁華街から離れた、洒落た路地裏にあった。


 他者を排除しない異世界的な、青葉の若蔦が絡まり、風鳴が聞こえ、白藤と山藤、山吹色の木工薔薇が見事な、煉瓦張りの外観に僕はとても、好感が持てた。

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