第8話 花月夜、沈め
僕は何の疑問もなく、言われるがまま、本名を名乗ってしまった。
彼女はその高慢そうな厚化粧の眦が緩んで、一瞬だけ、好奇心旺盛な子供のような興味へと移り、僕が初対面の人に対していつも、質問される苗字のあれこれを案の定、彼女も問うた。
「どういう漢字を書くの。珍しい苗字なのね。下の名前は、今どきの学生にしては古風だけど」
僕は指図されるがまま、彼女の質問に素直に返答する。
「銀色の銀に鏡、と書いて、しろみ、というんです。辰一は辰年の辰と書きます」
彼女の好奇心は僕の相貌へと、話の展開を強引に変えた。
「そう。ロマンチックな苗字なのね。あなたとは初めて会ったのに、この世の不幸を全て、受け入れたような、悲愁に満ちた綺麗な顔をしている」
大年増のマダムに綺麗、と片づけられるまでの僕の大地を震わす、空気感。
僕もそれなりに容貌に対するプライドがこそこそとくすぐられる。
「恵まれた環境下にいる、私のゼミの男子学生は、若さもあって、身なりや顔つきもそりゃあ、洗練はされているけど、一皮むけば傲慢さが滲み出ているから、本音を言えば、私はああいう子は、苦手なのよね」
僕は初対面の年増の女性から変に褒められるほど、悲愁に満ち足りた表情を周囲に放しているのだろうか。
「それに対して、憂いに満ちた、あなたは今すぐにでも、いいスカウトマンに会えば、アンニュイな二枚目俳優としてデビューできそうな、勿体ないような、美しい顔つきなのに、余程、幸運から疎まれているように見える」
さすがに優艶な彼女のお世辞には度が過ぎた、と肩をすくめる。
「まあ、可哀想な話がこの世にはあるのね。私はあなたみたいな、恵まれない学生を支援したいの。美青年を自覚しない、あなたは多分、私の見立てによれば、相当な読書家で勉強熱心に感じる。私は仕事柄、色んな立場の人に会っているから、顔を合わせただけで、その人の知的さを見抜けるのよ」
饒舌な彼女の口調に、勢いの沈下はなかった。
僕は所詮、通信制高校の生徒ではあっても、彼女が思い描くような、学生像とは著しく乖離していたのだが、その指摘はまたの機会にしておこうか。
「あなたはこれ以上、不幸を背負う必要性はないの。ねえ、そうでしょう」
バーに店員さえいないのは、最初から予定されていた事実なのか、皆目分からない。
漆黒の室内で、お酒臭い澱んだ空気感が、未成年の僕の居場所を必然的に奪っている。
ここはまだ、入室してはいけなかったのでは、と疑問符がなかったものの、彼女の尻込みもしない、僕へのショッキング・ピンク色の教養を、受講しようとでもいいじゃないか、とそれなりの覚悟はしていた。
「ホテルは予約しているのよ。夜も遅いし、ここよりは安心できるだろうから」
夜のホテルでさえも、庶民的な売春宿ではなく、恐らく凡人ならば、一生涯、呼ばれないような、高級ホテルだと相場が決まっているに違いない。
こんな卑小な僕に、選択肢はないのだ。
弱者は運命的に強者から、易々と略奪される、という普遍性を噛み締めないといけない。
余月、逆に弱肉強食を呪詛して、花の宴で思うが儘に振る舞う、この女狐のような教授から、春雷を打たせながら、その財産の血の一滴まで搾り取ろうじゃないか。
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