第20話
サイモンはエイデン家を出ると、そのまま姿を消してしまった。
最初こそ、その名を口にする者もいたが、次第に『サイモン』の名を聞くことはなくなっていった。
最後の約束。その想いが、フローラに生きる力を与え始めた。
まだ若い二人。どちらもデビュタントの一度だけしか夜会には出席していない。それでも王都にタウンハウスを設け暮らす貴族である。噂を止めることはできない。
それに、噂の内容は何も若い二人のことだけではなかった。
フローラの母もまた、若い頃に子爵と恋に落ち、駆け落ち同然で無理やり婚姻を結んだのだ。その事を未だ社交界で覚えている者も多く、さすが親子だと噂をする者も多かった。
今や醜聞にまみれてしまった、アボット家である。
そんなフローラに救いの手を差し出す者がいた。
フローラの母であるディアナの父、ナミュール侯爵であった。
フローラの母ディアナは、かつて侯爵家の令嬢であった。
美しいその姿は当時の社交界でもてはやされ、王子妃の話も飛び交うほどであったという。
しかし、ある夜会で子爵と出会い、二人は瞬く間に恋に落ちた。
アボット子爵は早くに両親を亡くし、若くして子爵を継いでいた。
それでも身分の違いは存在する。若い二人にはどうすることも出来ない力に阻まれ、結ばれることは難しいと思われていた。
ディアナの父であるナミュール侯爵も当然反対をした。それでも諦めきれない二人は、半ば強引に一緒に暮らし始め、既成事実を作ったのだ。
怒ったナミュール侯爵はこれ以上家名に傷を付けぬよう、苦渋の決断で婚姻を認めた。しかし、その後は一切関わることを拒み、ディアナもまた実家である侯爵家を頼ることはなかった。
ディアナは最初の頃こそ愛する人と結ばれ幸せを感じていたが、侯爵家と子爵家である。何をするにも違い過ぎる現実を思い知り、すぐに後悔することになった。
しかし、もう戻る家も頼る親もいない。
それでも華やかに過ごした頃が忘れられず、領地に暮らすことを拒み、王都で暮らし続けていたのだ。
アボット子爵は妻ディアナを心の底から愛していた。妻の望みは何でも叶えてやりたいと、息子カミーユが学園を卒業するやすぐに領地を彼にまかせ、自分たちは王都での暮らしを続けていたのだ。
ディアナは自分の若さゆえの愚かしい過ちを悔い、娘フローラが爵位も持たぬ男の所に嫁ぐことを頑なに認めなかった。
自分の行為を棚に上げ、駆け落ちなどという大それたことをした娘を非難する母。
どこまでいっても侯爵令嬢の気分を消し去ることは出来ていない。
そんな娘に育て上げてしまったことを、父、ナミュール侯爵もまた悔いていた。
田舎貴族の子爵夫人でありながら、王都で社交上のつき合いができていたのは侯爵令嬢の過去があるからだ。
本来であれば咎めるべきではあるが、娘かわいさ故、それを見て見ないふりをしていたのは他でもないナミュール侯爵自身。
特に問題行動を起こすでもなく、苦情もないのであればと思っていた。
しかし孫に対しては思うこともあり、遠巻きに情報を集めそっと見守り続けていたのだ。
そんな孫娘がこともあろうに、自分の娘と同じようなことを仕出かしてしまった。
自分の育て方の間違いがこんな所で不幸を生み出す結果になってしまったことに、ナミュール侯爵は祖父として自分を責めた。
あの時、無下に手を切るのではなく、親のいないアボット子爵の後見を買って出ていれば。
親として娘の矯正も含めきちんと手を差し伸べていれば、孫娘がこんな大それたことをせずにすんだかもしれない。今ある、こんな辛い状況を生まずにすんだかもしれない。
悔やんでも悔やみきれない思いを祖父として抱えていた。
「フローラ。お前には辛いと思うが、北の辺境の地へ嫁いでもらう。
貴族の娘としての務めは教育されておるのだろう?ならば、お前にこの婚姻を断るという選択肢はない。自分の仕出かした罪の重さをきちんと思い知りなさい」
突然祖父と名のり、訳も分からず連れてこられた侯爵家でのいきなりの宣言。
母が侯爵家の出であることは聞いていた、しかし生まれてから一度として顔を合わせたこともない人物のいきなりの登場に、フローラは大きく戸惑った。
侯爵家の使いが現れただけでも驚きなのに、さらにはいきなり侯爵家へ攫われるように連れて来られた。
頼れる兄は領地に行っており、いない。
父と母はと言えば、あらかじめ話し合いがあったのであろう、「体には気をつけて」「侯爵様のいうことを聞いて」「あなたのためよ」と、母はすがるようにフローラに言い聞かせた。
何が起きているか分からなくても、この話を断ることは今の自分にはできないことは十分知っている。フローラは黙ったまま、侯爵家へ向かう馬車へ乗り込んだ。
侯爵家に着くなり、祖父と孫娘の感動の初対面などという様ではなく、事務的なその対応が今の自分の置かれている立場なのだと改めて思い知らされる。
何があっても生き続けるとサイモンと約束した。
今のフローラはそれだけを心の拠り所として、どんなことも受け入れようと思っていた。
「はい、侯爵様。私のような者でよろしければ、謹んでお受けいたします」
そう言って招かれ案内されたソファーに座ったまま、頭を下げた。
その様子に、侯爵は驚いたようだった。並び座っていた息子も同じように驚いていた。
「フローラ嬢はこの婚姻に異議はないのか?」
侯爵の息子の問いに
「自分がした事の重大さは理解しているつもりです。どんな未来になろうとも、私は生きると約束をしました。たとえ、どのような方であっても、心からお仕えいたします」
侯爵たちは、もっと嘆き狼狽すると思っていたのだろう、あまりの落ち着きぶりに意表を突かれたようだった。
「約束とは?ともに逃げた伯爵の息子のことか?」
「はい。その通りです」
ナミュール侯爵の問いに視線を逸らすことなく、真っ直ぐに見据えて答える。
その姿は肝が据わっていて、貴族の令嬢の瞳ではなかった。
その瞳を見つめながら、
「そうか、お前は良い相手に巡り会っていたのだな。
周りの大人がもっとまともであったなら、お前の母が、父がもう少しうまく立ち回れるほどの器量を持ち合わせていれば、また違った結果になっていたであろうに。
あれの育て方を間違ってしまった私の責任は重い。許せ」
侯爵はフローラに頭を下げた。息子がそれを横で眉間にしわを寄せ苦い顔をしていた。
「婚姻相手の辺境伯は、私の旧知の仲の者だ。お前にとっては祖父ほども年が離れている。あいつも私のように早くに妻を亡くし、ずっと独り身を貫いてきた。
持参金などは私が用意しよう。祖父としてお前にしてやれる最初で最後の品になるであろう」
「そのようなお方に?よろしいのでしょうか?私のような娘で」
「あいつも一人で寂しい思いをしておったのだ、良い話し相手になるだろう」
そう言って侯爵はわずかにほほ笑んだ。
半年ほどの時間をかけ、フローラはこのナミュール侯爵家で淑女教育を施され、嫁ぐ予定になっていた。
侯爵家の人々は使用人も含め、皆好意的に受け入れてくれた。
祖父と孫娘として過ごす時間は、思いのほか心を通わせることができ、同じ孫であるカミーユも時折訪れては交流を深めていた。
そして、関係を断っていた実の娘であるフローラの母ディアナとも、少しずつ関係を持つようになり親子の仲を修復することが出来始めていた。
半年余りが過ぎたころ、フローラは辺境伯の元へ嫁ぐことになる。
綺麗なドレスも、輝く宝石も、咲き誇る花すら無いままに。
夫となる辺境伯に初めて会ったその日に二人きりで、神の前で誓いを立てた。
誰からも祝福されることもなく、二人は夫婦になった。
フローラはこれで良いと思った。自分にはこれですら十分すぎる幸せだと。
どんな人であろうと受け入れる覚悟ではいたが、それでも不安はあった。
でもそれを言葉にすることは出来ない。そんな思いを抱えていたが、実際に会った辺境伯は穏やかそうな笑みを零す人であった。
「山犬」と呼ばれていたと言うように、あか抜けた感じはしなかったがフローラを見る瞳は優しく、身のこなしも雑さはあっても決して横柄などではなく、安心感を覚える人であった。
フローラは、自分の恵まれた今を……呪わずにはいられなかった。
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