15 悪い顔をしています

 足音が近づいてくる。それはもうすぐそばまで来ていた。

 それよりも前に、馴染みのある匂いが鼻を掠めてはいた。お互いの姿を目視できるより前に、迷いもなくこちらに向かって来ていることにテオは気づいていた。が、馴染みのある匂いに混ざった別の匂いに苛立ちを覚え、背を向けたまま、振り返ることができなかった。


「テオ、ただいま」


 静かに声が落とされる。

 テオから返事はない。

 座っているテオの方に、足音が近づいてくる。それ以上の言葉はない。テオもやはり何も言わない。振り向きもしない。

 ふわりと何かが身体に触れた。それはすぐに温もりへと変わる。

 ラナはテオの横に腰かけ、小さな身体を寄せた。


『楽しかったか?』


 思わず口をついた声に、テオはしまったと思った。

 聞こえていなければいいなと淡い期待を抱いて横目でラナを見る。ラナもまたテオの方に顔を向け、真っ直ぐにテオを見つめていた。


「楽しかったですよ。途中でフェリルが来て、三人でお話してました」


 すぐ隣にいるのだから聞こえていないはずもなく。煽るかのように、ラナは笑顔で返した。

 リネットとエリーが言っていた通り、やはりフェリルは突撃してしまったらしい。

 その時のフェリルの話を楽しそうにするラナを見て——おそらく、突撃された時も同様に楽しそうにしていたのだろうと思うと、騎士の心情が想像でき、同情したくなる。盛大に邪魔してやれ、と思っていたのは事実だが、実際にそれが実現されると、思っていた感情は生まれなかった。残念ながら、スタンディングオベーションには至らなかったようだ。


 ラナが動くたびに鼻をくすめる匂いに、テオの眉根が歪む。

 テオは立ち上がり、ラナに身体を擦り付けた。


「どうしたんですか?」


『騎士の匂いがする。気に入らない』


 マーキングし直すように、ラナについた騎士の香りを自分の匂いで上書きする。あの漆黒の馬の匂いがついていることも気に食わなかった。湖に突き落とし、洗い流してやりたい気持ちはグッと堪えた。


「テオ、機嫌悪い。何かあったんですか?」


 原因はお前だよ、とは言えない。

『別に』と口にするのが精一杯だった。


「もしかして、テオもアルと一緒にお話ししたかったですか?」


 全く的外れなことを言うラナに、ガクッと肩を落としそうになる。

 耳聡いテオは、騎士の呼び方が変わっていることにもすぐに気づく。テオはさらに眉間にシワを寄せた。

 機嫌が悪い理由をわかっていないだろうラナが、寄せられたシワに手を伸ばす。


「ごめんなさい、テオ。次は、テオも一緒に行きましょうね」


 勘違いが進むラナに、テオはため息をついた。

 急激に眠気に襲われる。一日中、気を張っていたので、気疲れしたのだろう。

 テオはその場に座り込み、身体を丸める。抗うことなく、重たい瞼を閉じた。


「テオ? 寝ちゃうんですか?」


『ラナももう寝ろ』


「でも、今日はあまりテオとお話しできなかったから……もう少し、テオとお話ししたいです」


 テオの耳がピクリと動く。

 目を開けることなく、おもむろにため息をつく。深いため息だった。


『ラナの、その天然ジゴロなところ、末恐ろしいよ……』


「? 天然? ジゴロとはなんですか?」


 首を傾げるラナに、テオは首を振るだけで、言葉の意味を教えてはくれなかった。


『それで? 何か話したいことでもあるのか?』


「話したいこと……? 話したいことは別に……」


『ないんかい』


 そう言って再び顔をうずめようとするテオに、ラナは焦ったように言葉を紡ぐ。


「テオ、わたし、テオに聞きたいことがありました」


『何だ?』


「アルが王都に連れて行くと言っていたじゃないですか」


 眉間のシワを再び寄せ、テオは頷いた。


「その時わたし、思わず断ってしまったのですが……断らない方がよかったでしょうか?」


『は? 何で?』


「わたしがアルについて王都に行けば、テオはわたしから解放されるでしょう? ここに留まる必要もなくなるから……」


『騎士から何か言われたのか?』


 ラナは首を振る。


『ラナは、俺がそばにいるの嫌?』


 ラナがテオの方に顔を向ける。いつの間にかテオは目を開けていた。けれど、ラナの方を見ておらず、伏目がちに地面へと目線を落としていた。

 声には怒気のようなものが含まれていたのに、テオの表情には悲しみのような色が見られた。

 ラナは先ほどよりも強く首を振る。


「嫌だなんて、そんなことはありません。だって、テオは……」


『恩人? 恩人だから、ラナは俺のそばにいるのか? ——ごめん、やな言い方だったな。今のなし。忘れて』


「テオ、わたしはテオに感謝しているんです。感謝しても足りないくらい。だからこそ、テオを縛りたくない。わたしのわがままで、テオの自由を奪いたくないんです。テオがそばにいてくれたら、わたしはすごく嬉しいし、心強いけど、でももし……テオ? どうしたんですか?」


 先ほどまでの怒ったような、寂しそうな表情から一変、口元を緩ませたテオがラナを見つめていた。


『いや、ラナは俺がそばにいたら、嬉しいんだ?』


「何ですか? 今のテオ、すごく悪い顔をしています」


『いいからいいから。気にせず続けて?』


「……もういいです。真面目に話していたのに」


 拗ねたように口を一文字に結ぶ。その顔も見られたくないと思ったのか、テオの身体にダイブし顔を隠す。テオのもふもふはどんな時でも変わらない。そんなことに安堵する。


『ごめんごめん。嬉しくて、つい』


 頭上からテオの声が降ってくる。

 謝罪の言葉を口にしているのに、やはりどこか楽しそうだった。

 ラナは顔を上げることなく、静かに言葉を紡ぐ。


「王都に行く話はお断りしてよかった、と思っていていいですか?」


『当たり前だろ。ラナが断らなかったら、俺が断るつもりだったよ。ついでに、婚約どうのって話もちゃんと断れよ』


「それは、どのようにしてお断りすればいいのでしょう? 断らなかったら、テオと一緒にいられなくなりますか?」


『承諾したら、まぁそうだろうな』


「それは嫌です」


『じゃあ、断るしかないな』


「何と言えばいいのでしょう?」


『簡単だろ、「あなたとは結婚しません。わたしにはテオがいます」これで完璧だ』


「後半はよくわかりませんが……」


『いいからいいから。これからもずっと一緒にいるんだから、同じだろ?』


「ずっと一緒……」


『何だ? 嫌なのか?』


 ラナは首を振り、テオの方を向いて笑みをこぼす。

 そして、温もりを求めるようにテオに擦り寄った。


「テオがいてくれたら、それだけで……」


 そう呟くと、ラナは眠ってしまった。

 安心しきった寝顔に、信頼されていることを喜びながらも、テオは罪悪感を心の奥底に感じていた。

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