第33話 焦燥と安堵~唯人~
車がしっかり停止する前に、俺は後部座席から転がるように降りた。その勢いのまま、俺は受け付けまで走るとスタッフに声をかける。
「すみません。こちらに救急車で運ばれた谷…水島美桜の夫ですが、妻は?」
名前を告げると、心得たスタッフが「三○一号室になります。あちらのエレベーターで三階に上がって下さい」と教えてくれた。
「ありがとうございます」
礼を述べると、教えて貰った通りに三階で降りる。部屋番号を口の中で繰り返し呟きながら、部屋を探していると部屋番号が書かれたプレートの下に『水島美桜』の名前を見付けた。
「谷岡っ!」
ノックもせず、ドアを引き開ける。
「あ、専務。」
頭に包帯が巻かれてはいるが、ベッドの上で呑気にテレビを観ている谷岡がいた。そんな呑気な様子に警察から電話を貰ってからずっと張り詰めていた糸がぷつりと音を立てて切れたような気がして、俺はドアに体を預けるようにズルズルと座り込んだ。
「どうしたんですか?」
座り込んだ俺のもとへ、谷岡がペタペタとスリッパの音をさせてやって来た。
「どうしたもこうしたも…お前、車に轢かれたんじゃないのか?」
「轢かれましたよ。でも、その車が左折する為にスピードを落としてたので、かすり傷と打撲で済みました。」
谷岡の容態を詳しく聞く前に電話を切った事を、今現在、激しく後悔している。
「つか、家から出るなって言ったよなっ!」
ドアに寄りかかっていた体を立て直し、病室に入った俺は谷岡に説教をする。
そもそも、谷岡が俺の言い付けをきちんと守ってれば、こんな事にはなってない。
「緊急事態だったんですっ!どうしてもすぐに買いに行かなければいけない物だったんです!」
「俺に頼めばいいだろう」
それくらいは待てた筈だ。
「では、専務はおつかいで生理用品を買う事に抵抗はないんですね」
「せい…なんだって?」
「生理用品ですよ。生理用品」
谷岡はベッドサイドに置いていた黒い袋の中を俺に見せる。
確かに、CMで見かけるアレだった。
妻や恋人に頼まれて…何て話しを聞いた事があるが、コレを堂々と買える男は勇者だぞ。
「いや、俺が買わなくても俺が帰って来るのを待って一緒に買いに行けばよかっただろ」
それが一番安全な方法な筈だ。
「それが待てないくらい緊急だったんですよっ!」
多分、予備とかもなくてかなりギリギリな状況だったのかもしれないとわかるくらいには谷岡の声は切迫していた。
「それでも、一人で出るなっ!」
なんの為に自宅待機を命じてると思ってるんだ。
「無理です。我慢したけど、無理だったんですっ!」
谷岡も負けじと言い返してくる。
お互い、どっちも譲らない平行線を続けていると、病室のドアがノックされた。
「…はい」
一旦、二人共口を閉ざすと俺がドアの向こうへ返事をした。
「警察の者ですが…」
そう言って、ドアを開けたのは制服警官で、何か確認して欲しいと言う。
制服警官に連れて来られたのは谷岡を轢いた車の運転手で、ドライブレコーダーの映像を見て欲しいと言われた。
俺と谷岡は運転手が差し出したスマホの画面を見ると、そこにはよろけた谷岡が車道に飛び出してくる映像だった。よく見てみると、谷岡の背中を誰かが押しているのが見えた。残念な事に顔はマスクやサングラスで、体付きや髪型さえコートと帽子で隠されていた。そのせいで犯人が男か女かさえ判別が出来ない。
どこからどう見ても誰かが谷岡に危害を加えようとしている映像だ。
運転手を訴えないと谷岡は言った。その代わり、この映像を譲ってくれと交渉して譲って貰った。そして、その映像を証拠として被害届を提出。谷岡を車道に突き飛ばした人物を探して貰う事にした。
それらの手続きが済むと、疲れたのか谷岡が欠伸を漏らした。
「寝ていいぞ。念の為、今日はこのまま入院だ。明日、検査して大丈夫だったら退院してもいいそうだ」
俺が警察と話しをしている間に、車でここまで送ってくれた佐原が代わりに医者から話しを聞いてくれていた。頭も打っているらしいので念の為一晩入院だとそれをさっき俺に教えてくれた。
「寝ていい」と言われた谷岡はモソモソと布団に潜り込み、数分後には健やかな寝息を立て始めた。
「それにしても、一体誰が彼女を突き飛ばしたのでしょう?」
寝ている谷岡を気遣って、小声で佐原が話しかけてくる。
「それはこれから警察が見付けてくれるだろう。それより、この件はなりすましと関係あると思うか?」
「それはわかりませんが、最近谷岡さんの周りは不穏な事だらけです」
それは俺も同意見だ。なりすましと言い、今回の件と言い…明確な悪意を感じる。誰かが谷岡に危害を加えようとしている事だけは間違いない。
「佐原、少しコイツを見てて貰えるか?」
「構いませんが、どちらへ?」
「コイツが明日退院する時に着る服を取って来る」
「わかりました」
佐原から車の鍵を受け取ると、俺は着替えを取りに一度自宅に戻る事にした。
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