第8話 可愛くない専属秘書と可愛い秘書見習い~美桜~
引き寄せて、私の髪を梳く専務の指の感触に心臓が大きく跳ねる。
『お前、可愛いよ…』
そう囁かれて、心臓がうるさいくらい早鐘を打つ。
専務の唇が近づいてくる。
※ ※
「つっ!」
私は自分のデスクにゴンと頭を打ち付けた。
「どうしたんですか~?谷岡さん」
「…なんでもないわ」
「新婚で寝不足ですかあぁ~?」
牧田さんがこちらを皮肉るセリフを投げかけてきた。全然笑えないわね。
「少し、ボーっとしてただけよ」
暗に牧田さんが思っているような事ではないと言ったけど、信じるか信じないかは本人次第。多分、信じないと思うけど。
それよりっ!今は仕事中っ!
仕事に集中、集中っ!
あんな、専務の気まぐれなんかに仕事を邪魔されてる場合じゃないんだからっ!
本当に何なのっ!なんで、なんで今更『可愛い』だなんて言うのよっ!なんでよ…
※ ※
「本日より専務の秘書を勤めさせて頂きます。谷岡美桜です」
二年前、入社三年目の事。
私は初めて専属秘書として専務の下に配属された。
それまでは他の秘書さんの補佐に回ってばかりだったけれど、ようやく専属秘書になれた。
苦節三年…私もやっと一人前って認められたって事よね。
専務の専属秘書ってのは色々と思うところはあるけれど…欲を言うなら社長がよかった。そして、間近で社長と旭さんのあれやこれやを堪能したかった。
でもまあ、専務は専務で悪くはないのよね。お父様である社長譲りのお綺麗な顔立ち。これで秘書が女の私じゃなくて誰かイケメンな男性なら…
萌えるっ!萌えるわっ!是非、最前席で鑑賞したいっ!チケットは売ってないのかしら?
しかし、当の本人である専務は挨拶した私を軽く一瞥した後、「ああ」と言ったきりパソコンの画面に集中してしまった。
それでも専属秘書としての初仕事だから、私は専務の今日のスケジュールを読み上げていく。
「以上ですが、ご不明な点などはございませんか?」
「いや」
「それでは私は自分のデスクにおりますので、ご用などございましたらお呼び下さい」
まったくこちらを見もしない。
部下に愛想振り撒く必要はないって事でしょうか~?
別にいいけどね。こっちも仕事だし。愛想振り撒く必要なんかないしね。
無表情と言う仮面を貼り付けたまま、私は専務室をあとにした。
「谷岡さん、どうですか?専務と上手くやっていけそうですか?」
専務室から出て来た私に旭さんが声をかけてくれた。
「初日ですので、まだなんとも…」
「ああ」とか「いや」くらいしか言われなかったので、もしかしたら気に入られていないかもしれません。とは言い辛い。
曖昧な返事を返す私に旭さんは苦笑する。
「ええ、まだ初日ですからね」
旭さんのその言葉の言外にこめられた意味は「弱音を吐くのはまだ早い」かな。優しい顔をしてるのに、割と厳しいんだよね。旭さん。
そんな旭さんはやっぱり受けよね。優しくその包容力で攻めを包んで頂きたい。
お相手は社長しかいないわよね。昼間は社長と秘書。夜は禁断の恋人とか…あ、涎が…
「では、専務の事よろしくお願いしますよ」
「あ、はいっ」
自分の世界にトリップしていた私は旭さんの言葉に慌てて返事をした。
社長室に入っていく旭さんの後ろ姿を見送りながら、私はため息を押し殺した。
よろしくって言われても、私を気に入ってないっぽい専務とどう仕事をしていけばいいのか…先が思いやられる。
そう思った私の予感は正しかった。
専務は仕事はきちんとする人だったが、プライベート特に女性関係においては仕事以上に精力的な人だった。しかも、短いサイクルで女性が替わる。その女性達にプレゼントを手配するのも秘書の仕事にされたんじゃ…前任者が辞めたくなるのもわかる気がするわ。
「専務っ!いい加減にして下さいっ!」
私が専務室のデスクを叩いて、仕事以外の用事を言い付けてくる専務に抗議する。
「私は専務の秘書ですが、使用人ではありませんっ!」
仕事の手配ならいくらでもするけれど、休日に彼女と行くレストランの予約とか、プライベートの旅行の手配とか、そんなの自分でしなさいよっ!
ついに堪忍袋の緒が切れた私が専務室のデスクを叩く事になった。
「通常業務の合間にそれくらいできるだろう」
「それで、通常業務を圧迫したら本末転倒ですよねっ!」
できなくはない。けど、それは私の本来の仕事ではない。
「お前なら要領よくやれるだろ」
やりたくない。だから私は絶対に承諾しない。
デスクの上に身を乗り出す私と椅子に座って見上げてくる専務。お互いに睨み合って、一歩も譲らない。
「…わかったよ。もうプライベートの用事は頼まない。それでいいだろ」
私の頑な態度に何かを感じたのか、専務の方が白旗を挙げる。
ようやく理解してもらえたみたい。これで少しは仕事がしやすくなるといいけど。
専務が私にプライベートの用事を頼まなくなって、時間的にも余裕ができた頃、御手洗の帰りに給湯室の傍を通りかかった時に、給湯室から一組の男女の声が聞こえた。
「え~、もうヤダ。お世辞がお上手なんだから」
この甘ったるい声は今年入社した牧田さんね。
「お世辞じゃなくて、本当だって」
こっちの声は専務だわ。あの人書類放り出して、新人を口説いてるの?まったく、いいご身分だわね。
「どうせなら、君みたいな素直で可愛い子に秘書になって欲しかった」
悪うございましたね。牧田さんが専務の秘書じゃなくて。
「え~、谷岡さんに悪いですよ~」
ちっとも悪いとは思ってなさそうな口調に聞こえるんだけど。
「全然、悪くなんかないって。ガミガミ口煩いし、まったく笑わないから鉄仮面でもしてるのかって思う時あるぞ」
誰のせいで口煩くなったと思ってるのよっ!私だって言いたくて言ってるんじゃないわよっ!誰の顔が鉄仮面だっ!
喉元まで出てきそうになるそれらの台詞を私はすべてぐっと喉の奥まで押し戻す。
「頑固で融通が利かないし、おまけに冷たい。本当に可愛くない奴が秘書になっちまったよ」
「じゃあ、じゃあ。私が一人前になったら私を専務の専属秘書にして下さいね」
「いいぞ。早く一人前になってくれよ」
「は~い」
私は二人に気付かれる前にそっとその場を離れた。
立ち聞きしてしまった私も悪いけど、誰に聞かれるかわからない場所で同僚の悪口もどうかしらね。
別に傷付いてなんかいない。専務の本心がわかって、むしろすっきりしたくらい。私だって望んで専務の秘書になった訳じゃない。そこまで言うならお望み通り、専務にとって一番可愛くない秘書になって差し上げるわっ!牧田さんが専務の専属秘書になる頃には私は社長の専属秘書になってやるわっ!その時がくるのが今から楽しみよ。
口に出して言う事ができない台詞を胸の中で主張する事で、少しは気が晴れた。胸の奥に刺さった小さな棘には気付かなかったフリをして…
※ ※
再びデスクにゴンと頭をぶつけた私を、牧田さんが不審そうな目で見てくる。けれど口に出しては何も言ってこない。
牧田さんの視線を無視した私はぶつけた箇所を手で撫でる。
嫌な事思い出したわ…
あの後、全然笑わない私を専務が『氷姫』なんて言い出したから、あのあだ名が浸透していったのよ。
もともと、仕事中に笑うなんてできる方じゃなかったけど、一番可愛くない秘書になってやるって思ったら、表情筋は笑顔を作る事を放棄してしまった。その事を悲しく思う必要はなかった。だって、専務に仕事をさせるには実に都合がよかったのよ。
怖い顔して、睨んでやれば専務は大人しく仕事をしてくれるもの。
だから、このままでいいの。専務の戯言なんて耳を貸す必要なんて、一切ないわ。
このままで、いいのよ…
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