第7話 挨拶と掌の感触~唯人~


 夕飯まできっちり食べた朋子さんが帰った後、皿を洗う俺の横で泡を流した皿を布巾で拭いている谷岡に俺は聞いた。


 「やっぱり、お前の実家に挨拶とか行った方がいいか?」


 順番が逆だって怒られるか?と軽く身構えたが、谷岡の反応は淡々としていた。


 「しなくていいです」


 いっそ、冷たいとも思える程声のトーンは低い。


 「結婚したって言ったら『相手を連れて来い』とか言われるだろ」


 「貴方との結婚を親に言うつもりはないので」


 俺は女性関係やらでかなり派手に自分の結婚を宣伝したから、親に隠すなんて考えなかったけど、コイツは隠したいのか?


 「経緯なんて説明できないし、どうせ、こんな結婚長く続く訳ないだろうし…」


 谷岡が呟いた独り言が、意外にはっきりと俺の耳に届いた。


 『長く続く訳ない』と言われて、俺の方が動揺する。裏を返せば、谷岡は俺との生活を長く続けるつもりはないって事で…


 無理矢理結婚させたから谷岡がそう考えるのは当たり前だと頭では理解できるのに、何故かモヤモヤとしたモノが胸の中にあった。


 「万が一、私の家族を名乗る人が訪ねて来ても、絶対に家に上げないで下さいね」


 「大丈夫だろ。ここオートロックだし」


 マンションの入り口はオートロックで住民が中から鍵を開けない限り各戸の玄関まで行く事はできない。朋子さん達がここまで上がってこれたのは、たまたま帰って来た住民の後ろを家族のフリをして入って来たと言う事だった。いいのか、ソレは…


 「わかってますけど、一応念の為です」


 どう言った意味での『念の為』なんだろうな。俺を自分の家族に会わせたくないって意味の『念の為』なんだろうか?


 それはコイツが言ってくれない限りわからない。かと言って、聞くのも憚られる雰囲気だ。コイツはまだそこまで俺に心を許してはいない。


 今日のところは聞き出す事を諦めた。


 「こっちはもういいから、お前風呂入ってくれば。昨日は入る前に寝たし、今日は朋子さんが来てそんな暇なかったから、少し臭う」


 「お風呂、頂きますっ!」


 俺の最後の一言に敏感に反応した谷岡は布巾を放り出すと、さっさと風呂場に向かった。


 皿を洗い終わった俺はタオルで手を拭くと、ソファーに深く腰を下ろした。


 朋子さんの襲撃?に流石の俺も今日は疲れた。


 一度気を抜くと、全身が心地良い睡魔に包まれる。


 アイツが上がってくるまで起きていようとは思うけど、瞼がゆっくりと下りてくる。


 まあ、出て来たら声をかけると思うし。それまで寝ててもいいか。


 そんな言い訳を自分にしながら、俺は睡魔に逆らわずに体をソファーに横たえた。


 それからどのくらい経ったのか。ふと、体を揺さぶられる感覚にわずかながら意識が覚醒する。


 「専務、ここで寝ないで下さい」


 薄く開けた瞼の向こうに、ぼんやりと谷岡が見えた。


 迷惑そうな仏頂面。

 可愛いんだから、笑えばいいのに…


 霞がかったような頭で思考が上手くまとまらない。全部が夢のような気さえして、俺は近くにある谷岡の頭をぐいっと引き寄せた。


 「ちょっ…!?」


 自分のすぐ目の前に谷岡の薄茶色の髪がある。俺はその髪を指で梳く。


 「お前、可愛いよ…」


 「な、何言って…」


 髪は少し湿っぽい。でもいい匂いがする。そのリアルな質感に誘われるように谷岡の頭に唇を寄せた。


 「ね、寝惚けるなあぁぁーっ!」


 「いっでっ!?」


 谷岡の怒号と共に、何か重い衝撃が俺の腹を直撃する。


 「こんな所で寝てないで、さっさとお風呂に入って、自分のベッドで寝て下さいっ!」


 それだけ言うと谷岡はさっと踵を返して、自分の部屋に戻っていった。


 痛む腹を手でさすると、俺も完全に目が覚めた。ソファーの上で上半身を起こすとシャツをめくって腹を確認する。腹は若干赤くなっていた。


 アイツ、一体何を使って俺の腹を打っ叩いたんだよ…


 部屋に戻った谷岡は何も持ってなかった。素手であの威力って事か…


 意外と強い力にびっくりするわっ!


 さっきまで、確かにあった何か。その空気が霧散すると、自分が谷岡に何をしたのか徐々に思い出して、猛烈に恥ずかしくなってきた。


 寝惚けて、引き寄せて、それから…


 何をやってんだよっ!俺はっ!


 子供ガキの時みたいに青臭い事をした自分に、自分で赤面する。でも…


 片手で顔を押さえて、谷岡の髪を梳いた自分の手をじっと見つめた。まだ、あの感触が残っているようで、意味もなく指を握っては開くを繰り返す。


 もし、あのまま唇を寄せる事ができていたら…


 …やめた。馬鹿馬鹿しい。


 そもそもアイツがそんな大人しく抱きしめられてくれる訳ない。きっと、さっきみたいに腹を殴るとか、脛を蹴るとかされて終わりだろう。


 そうだ、そうだ。そうに決まってる。


 いつまでも、そんな事に固執するよりも、アイツが言った通りとっとと風呂に入って、ベッドに潜り込む方がいい。


 そうと決まれば、風呂だ。風呂に行こう。風呂に入ってさっぱりとしよう。


 けれど、てのひらに残ったアイツの柔らかい髪の感触は消えてくれそうにない。そんな気がした。

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