八月の影 11 終わりの始まり

 焼香を終えた会葬者に挨拶していた涼が急にその場を離れたので静市真也がその背中を目で追うと会場に到着した息子が入り口で戸惑っているのが見えた。

「静市君。」

その時、まっすぐ前を向いて立つ喪主が会葬者に聞こえないように口の端でそっと呟いた。その言葉にはかつての神足汪を彷彿とさせる断固とした響きがあった。

神足汪は今朝まで病院にいたのに葬儀場に着いてからもう小一時間は立ったまま会葬者に対応していた。主治医でもある弟が傍に待機していたが背筋を伸ばして微動だにしないその姿は悲壮でもあった。しかしこれも残されたもう一人の息子のためにもその息子が受け継ぐ企業グループのためにも必要なことなのだ。

「はい涼君は友人達に挨拶に行っただけですから直ぐにもどって…。」

「涼じゃない。間もなく鹿ヶ谷会長がお見えになるんだろう。」

「はい、駐車場に車が入ったとさっき…。」

静市真也はまっすぐと会場の入り口に向けられた喪主の視線を追ってやっと気づいた。そして涼の背中の先に見つけた光景に眉を顰めると上司に対する言葉を途中で放り出したまま足早に会場を横切って自身の息子を出迎えに行った。

 静市真也は、昨夜息子から友人と共に弔問したいがどうだろうかと尋ねられた。告別式により通夜のほうが適当かと思ったが ここ暫くの涼の様子を考えれば断ることは出来なかった。だから息子には、なるべく会葬者の少ないと思われる時間を伝えていたのだ。

 浤を迎えに行った日からだんだん涼の口数が減っていった。静市真也の目には兄の死に大きなショックを受けた今の涼に一番必要なものは神足グループからは最も遠い場所にあるように見えた。だから息子たちに会葬を許可したのだ。だが彼女はだめだ。間もなく鹿ヶ谷会長が現れるなら尚の事。

「来たのか真太郎、雅ちゃんも京香くんもよく来たね。」

静市真也は涼を驚かせないように、そっとその腕に手を添えた。

「四宮先生もご一緒だったんですね。」

先に連絡してくれていれば何とかできたのに…いや、違う。これは完璧に自分のミスだった。既にマスコミが報道したのに、彼女が知らずにいるはずはなかった。そして来ずにいられるはずもない。わかっていたのに彼女のことにまで気が回らなかったのだ。

「涼君悪いが今鹿ヶ谷会長が来られた。御令孫と一緒だ。だから…。」

自分の言葉の真意を正確に理解した四宮朱音が血の気のない顔をさらに白くすると故人の顔が浮かんで胸が痛んだ。だがこの場で何か騒ぎが起きることは神足グループにとっても彼女にとっても宜しくはない結果をもたらすことは明らかだった。

「すまないが今取り込んでるから焼香はちょっと…。」

そしてすぐに涼も気付いたようだった。盗み見るように四宮朱音の表情を見たからきっと彼女と兄の事を知っていたのだ。

「本当にすまないが…。」

息子の背中を押しながら傷ついた顔で涼が戻っていく様子を見送るとすでに到着した鹿ヶ谷会長が婚約者を失った孫娘と共に神足会長と並び立っていた。しかしながら、その姿にうすら寒くなりながらその時静市真也の心を占めていたのはグループ始まって以来の危機に面した大事な局面で起こるかもしれなかったトラブルを回避できた事への安堵ではなく目の端に捉えた北白川華の姿だった。そして自分と神足浤を重ねてみた。きっと自分にはなかった気概が彼にはあったという事なのだろう。

 リビエブランシェフードサービスのCEOは娘や秘書に囲まれて優雅に現れた。静市真也は黒いカモフラ―ジュの中でもいち早く彼女を見つけてしまう自分を可笑しがっていた。そして、おそらく彼女もそうなのだろう。北白川華子の目が静市真也の視線を一瞬だけ捉えると慌てたように逸らされた。隣を歩く娘に向けられた彼女の微笑みは彼女の強靭な精神力や飽くなき上昇志向をオブラートに包んで彼女を優しい母親に見せていた。だが静市真也の甘痒い感傷は昨日の岩倉武との邂逅を思い出して終わる。今は彼女ではなく、“彼女”の事を考えねばならない。それが故人への最高の供物になる筈なのだ。静市真也は手伝いの社員のためのコーヒーチケットを息子の手に押し付けると

「すまないな。ちょっと予定が変わってしまって…今日はもう帰ったほうがいい。先生すみませんが子供たちをお願いします。下の喫茶コーナーで軽食でも食べて帰って下さい。」

できるだけ息子の顔を見ないようにしてその場を離れた。親馬鹿かもしれないが真太郎は妙なところで敏い。幼い時に両親が離婚したせいだと思うが大人たち…特に父親である自分の表情や声音の些細な変化を具に汲み取っているようだ。ただ余程のことがない限り気づいても真太郎はその事を口に出すような軽率な真似はしない。だがこの件に関する限り息子にどんな疑惑も抱かせるわけにはいかなかった。

静市真也は息子たちが階下に向かうエスカレーターに乗ったことを確認すると昨日登録したばかりの電話番号をタップした。

「すみませんが至急こちらに向かってください。“彼女”が今こっちにいるんです。迂闊でした。彼女のことまで気が回らなくて…。すぐにこちらに来られますか?…これは貴方にしか頼めませんから。ええ、彼女の保護を。」



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