八月の影 2 終わりの始まり

 

 涼は死というものがこんなにもシステマティックに管理されているものだとはこの時まで全く知らなかった。暴風雨の深夜に起きた事故は、嵐の収まった朝になって人の知ることになった。だが浤が何故、その場所にいたのかはもう本人が告げる事のできない以上、永遠の謎になりそうだった。しかも車から放り出され、崖下に横たわっていた浤の上をこの年最初の台風が通り過ぎた為 、身元が知られるようになるまでには、事故の後、さらに半日が必要だった。秘書室が管理していたスケジュールでは、事故の日の浤は出張で訪れた北海道のホテルに婚約者を呼び寄せて休暇を楽しんでいるはずだったが、婚約者はその事を知らなかったばかりかその日は国内にさえいなかった。

『一緒に旅行!?私は何も聞いてません。ヨーロッパで商談があって…昨日の夜遅くに帰って来たばかりで…。』

そして長男の死は、快方に向かっていた父をまた病院に舞い戻らせてしまった。その為、遺体の引き取りと確認は父と離婚係争中の浤とは血のつながらない母ではなく、浤の社内での後見人でもあり、事実上の右腕であった副社長とまだ高校生の弟が行うことになった。

 涼は哲也の部屋を出てからずっと静市の運転する車の助手席に深くめり込むように座りながら車窓を流れる景色をぼんやりと眺めていた。無防備に明るい午後の太陽と無責任な喧噪の街並みは噛みあわない歯車のように車の中の涼を現実味のない夢の中にいるような気にさせた。

きっとこれは悪い夢なのだ。目覚めればきっとまた兄さんが俺の進路のことで父さんと言い争う声が聞こえてくるはずだ。

「涼君、…着いたよ。…社長に会いに行こう。」

静市真也は息子の友人が容赦のない現実に戻ってくるまでの間辛抱強く待っていた。それは自分でも向き合いたくない事実の確認を先延ばしにするためでもあった。

 事故現場を管轄する警察署は10階建ての真新しいコンクリートの塊だったが、その屋内に入るとアスファルトの溶けるような外気とは一変して、冷房で冷えた空気が鼻に痛い。静市が受付で用件を伝えると不愛想な職員ははっとしたように地階に行くエレベーターを指さした。多分その瞬間、二人には”気の毒な遺族“という役割が与えられたようだ。

 エレベーターで地階に下りるとドアが開くと一階より冷えた空気が饐えたような肌触りで纏わりついてきた。エレベーター前で二人を迎えた制服の警官は「こちらへ」と言ったなり殆ど無言で二人を導いた。警官は人気のないグレーのリノリウムの廊下の最奥で立ち止まった。扉の霊安室と書かれたプレートがそこだけ仄白く光ってみえる。無機質な灰褐色の壁と廊下に囲まれた直方体の中で一際明度の高いプレートは見る者に原始的な畏怖を与え、さっきまでの明るい太陽に慣れた目が暗順応を漸く完了させた時その扉が警察官の手で開かれた。

「こちらです。」

 二人を案内した警官は財閥の後継者の死と言うのに遺体を確認に来たのが秘書らしき男と蒼ざめた高校生であることに驚いた。身元不明だったその遺体が誰なのかが判明した時、片田舎の警察署では衝撃が走った。これほどの“大物”が管轄内で死亡したことがなかったからだ。マスコミ対応の事を明らかに迷惑そうな顔で話す上司もいた。しがない公務員の自分に御曹司の死の正解が何かなどわかる筈もなかったが、財閥だからと言って幸せかどうかはわからない事にだけは確信が持てた。そして、朝家を出てくるとき妻が頬を染めながら告げた“新しい家族”のいるらしい自分の幸福に感謝した。八月も終わる蒸し暑い日だというのにその二人の背中はとても寒そうに見えた。省エネに煩い上階に比べて低く設定された室温なぞとは無関係に背筋を這い上って来るような寒さだ。どんなに込み入った事件や事故でも遺族との対面に限って言えば、どの場合もよく似た悲しみを持つ見慣れた光景だったがその日のそれは、ずっと後まで覚えているほど印象に残るものだった。

「お兄さんですか?」

 警官に案内されたのはテレビドラマでよく見るような殺風景な灰褐色の部屋だった。警官は慣れた仕草で寝台の上にかけられた白いシーツの一部をめくり上げると事務的に語りかけた。汚れてはいたがどこか見覚えのあるスーツ以外どこにも懐かしさを感じなくなった兄は以前より余所余所しく、一目見ただけでは誰ともわからなかった。だが、警官に促されるた涼が頷くとそれで事が済んだらしい。

「では上で書類にサインしてください。そこでご遺体のお引き取りに関しての説明があります。」

 その瞬間から人が社会的な死に至るシステマティックな儀式が始まった。それは宗教的伝統に基づく定型化した一連の流れで、これと言った判断を伴ず様々な感情が乱高下する“遺族”という人種にはこの上もなく有り難い制度だ。

 こうして兄の死が社会的な事実となった時、初めて凉にも周囲で起こっている事の本当の意味が解って来た。父が脳梗塞で倒れた時よりも少し大人になった涼は自分の置かれている立場が昨日までとは全く変わってしまった事に気付いた。それは当時あった兄という防波堤がなくなってしまった事と無関係ではない。今や兄が受け取ったはずの王冠は嫌も応もなく涼の前に差し出されていた。




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