幸福な王子の死と遺されたものについての考察

limone

八月の影 1 終わりの始まり

 実質的な夏休み最後の日、哲也の”仕事部屋”には涼と雅以外誰も姿を現さなかった。そのため二人は…特に涼は雅と二人きりの至福の時間を満喫していた。昨日までこの部屋に出入りしていたいつものメンバーは二人を除いて皆明日の実力テストに備えて予備校の対策講座を受講していた。この部屋の主である哲也も例外ではない。

もともとこの部屋は来客の多い自宅では勉強に集中できないという哲也の為に家族が用意したものだったが、これまで哲也がこの部屋で”勉強“をしている姿を見た者は誰もいなかった。ところがその彼が夏休みになってすぐ予備校に通い始めた。しかも今までは最低限の宿題すらまともに提出したことのなかった哲也が予備校の課題にまじめに取り組んでいた。哲也にこの変化をもたらしたもの、それは夏休み前に公開された指定校推薦一覧だ。

 開府高校では優秀な先輩たちのお陰で難関校の指定校推薦も多かった。ただ大多数の生徒は指定校推薦など当てにせず一般入試で合格を勝ち取るよう進路指導されるので例年一部の難関大を除き指定校推薦はほぼ順当に決まっていく。だが哲也に関しては事情が違っていた。哲也の狙う大学にもう一人推薦を熱望する生徒がいたのだ。現在その枠は哲也と女子卓球部の元主将との一騎打ちになりそうだとさる情報筋は語っている。成績に関してはどちらも然程差はないとのことだが、その情報筋の話ではインターハイ出場の実績で彼女が一歩リードしているそうだ。勿論、哲也とて二月の中旬に行われる一般入試で高得点が望めるのであれば指定校推薦にこだわる必要はない。だが哲也にはどうしてもその大学への進学が不可欠な理由があった。哲也は家族の希望を叶えるため…それはこの部屋の維持を担保する口実にもなっていたのだが…になんとしても家族を満足させるレベルの大学に進学しなければならなかったのだ。

つまるところ、己が実力を冷静に分析した哲也にとって福音ともいうべき指定校推薦を勝ち取るためには卓球部元主将以上の評定を勝ち取らねばばらず、それには明日の実力テストに死力を持って臨まねばならないのだ。

 だが、英作文と格闘する雅を後目に雅の背後に置いた椅子に馬乗りに座った涼には、テキストに影を作っている雅の長い髪をゴムで纏めることのほうが明後日の実力テストより優先するようだった。二人の進路が特殊であるとはいっても内申を疎かにしていい事はないはずなのだが、最近ほんの少し成績の上がった涼は少しばかりいい気になっていた。しかもこの夏休み期間中ずっと雅に英語を教えるという口実の下、雅と毎日過ごせていた。ただ凉の指導が本当に雅の役に立っているかどうか甚だ疑問であることは衆人の意見の一致するところだろう。いい加減テキストに集中できなくなった雅が涼に止めるように言おうとした丁度その時、涼の携帯に着信ランプが点灯した。

 

   vvvvvvvvv vvvvvvvvv vvvvvvvvv vv


 ワンルームの部屋の大部分を占める大きなテーブルの上で回転するように自走し始めた携帯は苛立たしげに主に応答を促したが当の主は誰からの電話か確認しようともしない。

「ねぇ、涼、電話鳴ってる。」

雅がさりげなく自分の髪を涼の手から取り戻しつつ振り返ると、涼は自分の手から取り上げられたものに悲しそうな眼差しで抗議して見せた。その間にも更に苛立たしげに震える携帯は主に向けて“早く出ろ”と言わんばかりに断続的にバイブレートしていた。開いたままの涼の数学のテキストの影でチカチカと訴え続ける携帯が切なくて、雅は一向に動こうとしない電話の主に代わりに発信者を確認してやった。

「『秘書室』からだって。もう、ねえってば。」

それなのに涼は”親切にも”発信者を確認した雅に感謝しないばかりか頑なに携帯に手を伸ばそうともしない。勿論雅の髪の感触が惜しくもあったのだがそれだけではなかった。発信者が『秘書室』となれば尚の事、最近家を支配する重苦しい話題を予感させたため携帯に手が伸ばせなかったのだ。

「もうっ、出るわよ。」

涼がいつまでたっても出ないので仕方なく携帯の震えを止めた雅は

「はい、神足涼の電話です。」

『秘書室』に向かってそう告げた。

雅は“兄さん”でもなくほかの個人名や固有の団体名でもないただ『秘書室』と表示するこの電話の発信者を思い浮かべようとしたが、その姿は漠としてどんな映像も浮かんではこない。この国の代表的な企業を率いる創業者一族の御曹司の生活はその社会的な関わりにおいてはいつまでたっても雅にとって遠い世界の事でしかなかった。雅が緊張しながら耳に当てた携帯から聞こえたのは幸いな事によく聞き知った友人の父の声だった。

『もしかして、雅ちゃん?』

知人の声にほっとした雅はその声が酷く疲れていることに気づかなかった。

「ええ、静市のおじさん? 」

『ああそうだ。涼君はそこにいるかな?』

「います。かわりますね。」

雅が自分のすぐ後ろの涼の脇腹を肘で軽く突くと

「ちょっと、早く出てよ。」

涼は大仰に痛がって見せた。

「静市のおじさんからよ。はい。」

いまだ渋って手を伸ばさない涼に無理矢理携帯を持たせた雅はおとぎ話の暗示する人生の教訓についての適当な英語表現を検討するために筋トレができそうに重いLONGMANに注意を戻した。だが涼が 

 ングウッ 

となんとも言えない呻き声を出したせいで再び雅の集中力は削がれてしまう。

付き合って一年の記念日を祝ったのはつい最近の事だった。これまで涼は何度となく雅に自分の抱えた傷を見せてきた。だが、今の涼は…。こんな顔の涼は初めて見た。

「兄さんが事故に遭った。」

そう答えた涼の声がその時震えていたことを後になって雅は思い出すことになる。

「えっ、じゃあすぐ行かなきゃ。どこの病院?私もついて行くから。」

「…もう医者はいらないらしい。」

「えっ…。」

涼はいつもむき出しの痛みを抱えている。だから雅はずっと涼から目が離せない。

そしてこの瞬間、おとぎ話が終わり始めた。




 

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