八月の影 3 終わりの始まり

 岩倉武は机上の封筒を睨みながらいつまでもぐずぐずと迷っていた。その封筒を見つけてかれこれ二時間…と13分になろうとするのに、である。目の前の壁に掛けた時計の秒針がやけに大きな音をさせて文字盤の上を駆けていく様子に岩倉は急かされているような気になった。

 手狭なそこは神足ビルメンテナンスの警備員詰所の奥にあり、神足グループの殆どの人間はその存在すら知らない。そして今神足グループに吹き荒れる嵐の中でもその部屋だけは春の海のように凪いでいた。

 昨日の神足浤の事故死…いや、警察による検死の結果亡くなったのは昨日ではなく一昨日のことだとされているから、正確には昨日、信州の山中で発見された遺体の身元が神足浤だと判明したのだ。警察は最初神足家に連絡をしたが、神足家では当初何かの間違いだろうと警察対応は秘書課に委ねた。というのも神足浤は数日前家を出るとき婚約者と共に北海道に行くと言って家を出ていたからだ。この件については秘書課も承知していたし旅行とはいっても北海道で整備中の港湾施設に係る案件を抱えてのいわば出張でもあったからだ。ただこのとき秘書課は通常の出張のように航空券やホテルの手配はしていなかった。婚約者を帯同するので神足浤自身が秘書の干渉を嫌がったそうだ。この時点ではまだ神足家も神足海運も警察に何かの手違いがあったのだと思っていた。そもそも事故車が全焼に近い形だったせいで免許証や携帯が見つからず、警察が神足浤の名にたどり着いたのはかろうじて燃え残っていた車体番号からという経緯があった。しかし秘書が何度連絡をしても神足浤と連絡がつかず、定宿にしていたホテルに問い合わせると神足浤の名前でも婚約者の名前でも予約が入っていなかった。しかもこの時点で連絡のついた婚約者はヨーロッパへの出張から帰宅したばかりである事も判明した。ここにきて俄かに神足浤の死が信憑性を帯び始めた。そして午後も遅くになって神足浤の死が確定的な事実となり、その瞬間神足グループは突然嵐の中に放り込まれたのだ。

 岩倉武は連絡を受けてすぐに神足家の本宅と新宅に警備員を手配した。そして配備を確認し終えると後は自分にはそこですべき事が何もないことに気付いた。神足グループとしてはトップの突然の死によって業務上の混乱やマスコミへの対応など一種の狂乱状態にあったが、いわば日陰の存在である岩倉武に関する限り全くの無風状態であった。

 岩倉武の渉外担当秘書としての仕事は取引先の醜聞やまだ醜聞とは言えない程の噂の類を集める事が主な仕事だったが、会長やその一家のごく私的な身辺警護も重要な仕事の一つだ。岩倉武が今の仕事に就いたのは二十年前、当時小学生だった神足浤が通学路で誘拐されそうになった事件に警官としてかかわった事がきっかけだった。その時前任者にスカウトされたのだ。幸い誘拐は未遂に終わったがそれ以来息子の安全を計る為の”見守り“が渉外担当秘書の職務に加わった。財閥の子女に及ぶ危険は誘拐だけではない。笑顔の裏に真の目的を秘した輩が友と言う名を携えて近寄ってくる場合も岩倉武は神足家の為に働いた。現在は息子たちの不行状の監視が目的のようになっているが、調査会社を使った行動確認も実質その延長線上にある。

まず、神足家には外聞の悪い複雑な家庭事情があった。当主汪には息子が二人いる。…いや今はいた…が正しい。表向き一昨日事故で亡くなった長男神足浤は先妻の子で次男神足凉は後妻である神足光代の子…という事になっている。だが実際には凉は北野洋子というホステスが生んだ。北野洋子の妊娠が発覚した時、当時はまだ存命だった汪の父神足汀は自分の孫の母親がホステスであることを許せず取引先の出戻り娘を凉の母として”見繕って“きたのだ。この時の事はよく覚えている。神足汀に命じられて光代の離婚の原因や前夫との関係を調べたのは岩倉武自身だった。その調査の結果舅のお眼鏡に適った光代は汪と結婚し、涼を実子として出生届を提出した。同時に涼を生んだ北野洋子は汀にハワイにコンドミニアムをあてがわれ体よく日本から追い出されてしまった。実は光代はもともと汪と婚約していた。だがその婚約は汪が先妻と結婚することになって破棄される。その時には汪の有責による破棄という事で多額の慰謝料も支払われた。だから汪と光代の結婚は一見元のさやに納まったようにも見えたが、二人の間にどういう感情があったのか外からは窺い知ることはできない。ただ愛情あふれたものでは無かったのは傍から見ていても明らかだった。その証拠に神足夫妻はおよそ二十年に及ぶ結婚生活のうち同居したのはほんの10年に満たない。確か次男が小学二年生の時だと思う。ハワイにいたはずの北野洋子が突然帰国して次男を引き取った。その後なし崩しに神足汪も洋子と涼母子が暮らす”新宅“で共に暮らし始めた。同じころ落ち着かない家庭から逃れるように長男が家を出ると神足光代は広大な本宅にたった一人で暮らすことになった。

この醜聞は巧妙に隠されていたしマスコミには大枚の広告料を支払う事で緘口令が敷かれていたからほとんどの人間は知らない。だが警察には通用しないだろう。早朝に出社した岩倉は警察の捜査に備えて神足浤の行動調査の資料を整理し始めた。公にされることを前提とした調査ではなかったが、明日の通夜の前に神足浤の死が公表されればマスコミがある事ない事を書き立てるだろう。そうなればたとえ単純な事故であっても警察は捜査をせざるを得ないだろうと思ったのだ。

 岩倉武が定期報告書に気づいたのはその資料整理の時だった。事務所を留守にしている間に届いていたらしい。身辺調査専門の調査会社の作成したその報告書は”定期”とは銘打っていたが、その中に半年以上前の記録まで混入していた。そのため、岩倉武は以前から懸案になっていた調査会社の変更を真剣に検討せねばならないとその時決意した。…が、書類に添付された一枚の写真を見てそんな考えも一瞬で忘れる程の衝撃を受けた。

 今年の一月、神足浤の婚約発表からはひと月後の事だが、神足汪からは長男の行動観察について「もう落ち着いたようだから…。」と以前よりは緩やかな監視に変わっていた。というのも、会長には息子の行動よりも差し迫って解決せねばならない案件が浮上したからだ。

 神足汪は妻光代との間に離婚問題を抱えていた。既に10年以上別居状態であったため、離婚自体は驚くにはあたらない。むしろこれまで離婚しなかったことのほうが不思議なくらいだ。そのかねてより別居状態だった夫婦の間に決定的な亀裂が入ったのは昨年神足汪の脳梗塞が再発した時だ。長年屈辱を耐えてきた神足光代が夫に反旗を翻して神足エステートの役員をしていた実弟唐橋葛男と共に夫の社長解任を要求して株主総会を招集したのだ。そして唐橋“常務派“は旧態然として創業家が経営を独占する今の業態を嫌う理事たちを巻き込んで神足汪の健康問題を理由に社長解任を請求した。結果、神足汪は社長を退くことになった。これは唐橋家の突然の”叛乱“に神足家が何の準備もしていなかったせいでもあった。だが、その後の後継者選定の株主総会ではほぼ満場一致で先妻の息子である年若い長男が推挙された。神足浤が取引先の令嬢と婚約しその実家の後ろ盾を得たお陰で”神足派“が巻き返したのだ。神足浤が社長を引き継いだ後、神足汪は一線を退き長らく空席になっていた会長職に収まった。そして煮え湯を飲まされた唐橋常務はインドネシアに文字通り島流しの憂き目にあい、姉の神足光代は離婚訴訟を起こされたという訳だ。

またさらに私的な問題では今年は次男の大学受験があった。そこで神足汪は別居中の妻光代と次男の戸籍上の関係を整理することも含めて、光代との離婚に本腰を入れ始めた。汪は岩倉武に光代やその親族の一挙手一投足までも調査するよう命じ、そちらに割く時間や経費を確保するためもう落ち着いたかのように見えた長男の監視は緩められた。

 だが結局、それが仇になったのか。岩倉武は神足で仕事を始めてもう20年ほどになるがこれほどのグループの危機は初めてだった。そしてこれが最後の仕事になるのかもしれない。岩倉武はこうしてあってはならぬ事態が起きた責任は自分が負うべき立場にいることも十分承知していた。諦めたように立ち上がった岩倉武は地球における重力質量として計られる重さとは次元の違う意味で重い封筒を手に取ると離職後の生活について思いを巡らせた。だがまずは…妻に何と言おうか。そちらの方が大問題だ。中学受験を控えた息子の顔が浮かんだ。


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