八月の影 4 終わりの始まり
静市真也は相手にもわかるように時計を見た後、剣呑に言葉を発したが
「何故ここに?」
”社を上げての一大事で息つく暇もないほど忙しいこの時にわざわざ”とは言わずに置いた。何故ならこの忙しさは大きな喪失の直後には必要なものだったからだ。ずっと先になるその喪失による痛みが去っていくその時まで忙しさにその場その場をやり過ごすことは寧ろありがたい事なのだ。
静市真也は秘書室長だった時にはその存在を殆ど知らなかったその“秘書”とこうして向かい合って話すのは初めてに近い。
「中を見て頂ければ…。」
手渡された社内用の茶封筒は封をされていなかった為、傾けると何枚かの写真が零れ落ちた。その写真は静市真也もよく知っている四宮朱音の家の近所で撮影されたらしい。ドライブレコーダーの映像からとったのだろう。不鮮明だったがそこに映った車が神足浤の車だという事は直ぐに解った。車中には二つの人影。粗い画像で人物の特定も難しかったがその二人をよく知る静市真也には二人が誰かという事もその陰影だけで易々と想像がついた。右上にある日付は3月7日になっている。春先のその日は確か新日本造船の創立記念式典があった筈だ。静市真也自身は出席しなかったが式典とその後のパーティーの様子はネットなどで拡散されたからその日付はよく覚えていた。
「もとになった動画もこちらで押さえてあります。ですが、それ以前のものは手に入れられませんでした。ですから、いつから”そう”なのかはわかりません。いや…実は…」
静市真也が手を上げて言葉を制すると
「知ってる。」
岩倉武は頷いて無言で静市真也が机の上に置いた封筒を手に取って傾けた。すると中に残っていたUSBメモリーがダークブラウンの応接テーブルの上に渇いた音をたてて落ちた。
岩倉武の視線に促された静市真也が自分の机に戻ってパソコンで確認すると、USBには三月以降の映像も含めていくつかの動画が収められていた。
そこからわかった事は、結局、神足浤が婚約後も四宮朱音と密会を重ねていたという事実だった。岩倉武の話からすると婚約後暫くは…そう、ひと月は“我慢”していたようだ。神足汪が安心して監視を緩めるまで、毎日行っていた行動確認では規則正しく隔日で婚約者とデートしていた。そしてお互い多忙であったため時折中断はしても神足浤が亡くなる直前までそれは継続していた。また神足浤のカードの明細やPCに残っていたスケジュールでもその事は確認できる。カードの明細もPCのスケジュールも昨日の夜遅く、もう殆ど今日になっていたが警察の求めに応じて提出する際、静市真也自身が確認したから確実だ。だが、いつからかはわからないが事故の前にはもう“以前通り”だったというわけだ。しかしこれでずっと謎だった事故の日の神足浤の行動もそのビデオから推測できる。四宮朱音が学校の夏休みでかつて暮らした長野の児童養護施設に帰っていたのならば神足浤はそこから家に戻る途中で事故に遭ったと推測される。PCの地図アプリで確認すると施設から東京に向かう時、オービスのある高速道路を避けて帰ろうとすれば唯一残った経路上にその事故現場があった。
映像の中で若い二人の影は見つめ合っているように見える。いったい何を話していたのだろうか。若しくは、何も話さず何を思っていたのか。静市真也はここ暫くの年若い上司が何を考えていたか想像してみた。
「これは会長の指示で?」
神足海運の副社長室の応接セットに座り、大胆にも『神足浤社長行動確認報告書』と表書きされた茶封筒を差し出した岩倉武の悪びれない顔は静市真也に以前聞きそびれた事を思い出させた。後で彼の“報告書”の中に自分の写真があるかどうか聞いてみようか。
「当初は私的な時間は全てが”保護対象”でしたが婚約されてからは、月一回の報告だけでいいとの指示があったので調査が以前のような形ではなくて…。その為、今頃になってこの写真が。」
静市真也は岩倉武の口を出た”保護対象“という言葉を「そりゃあ“監視対象”だろう」と皮肉に思いながらその歯切れの悪い言葉の中にこの訪問の理由を見出した。そう、だから”ここ“に持ってきたのだ。確かにこれは、息子を亡くしたばかりの会長に持って行くのは憚られる。
神足汪は長男が社長に就任してからはずっと療養に専念していた。そのおかげで一時は命の危機に瀕した事が嘘のように回復していた。最近では杖を突いてはいたが新宅の庭を散策するまでになっていたのだ。しかし、昨日また倒れた。”肉体的”にはなんとか今日明日の日程に耐えうるだろう。が…それだけだ。昨夜会った神足汪はあれ程固執していたグループの維持についても関心が薄れてしまったように見えた。
きっと息子を失うという事はそういう事なのだ。男手一つで育てている自身の息子の顔を思い浮かべながら静市真也は自分の雇用主の事を同じ息子を持つ一人の父親として考えていることに気づいた。そんな事は長いサラリーマン生活で初めてだった。
自分の与えた宿題をもって岩倉武が退室してからも暫くの間、神足浤の写真と秘書室長だった頃も今も聞いたこともなかった「神足海運秘書室渉外担当課長」の肩書のある彼の名刺を見比べて考え込んでいた静市真也は、タブレットを取り出して社用のスケジュールを開いた。半年ほど前のその写真の日付の前後に起こった出来事と当時の神足浤の様子について記憶を呼び起こそうとしたのだ。
その時も今と変わらず神足海運の主な業務は新設する北海道の港湾施設に関するものが殆どだった。タブレットにある予定表からは、当時の自分が新規参入の業者選定に忙殺されていた様子が伺えた。それは神足浤も同様だったはずで、その頃の神足浤は障害になる環境関連の法案の提出を巡って国会議員や保護団体に対するロビー活動に専念していた。昨夜のうちに警察の捜査に協力した時に確認した社長のスケジュールもその事実を証明していた。また神足浤は婚約者に会わない日には必ず彼女のオフィスに花を届けるよう手配していたが、カードの明細からもそのことは確認できた。つまり婚約者に会う時間も殆ど無かった筈だったが別の予定を組む時間はあったという事だ。
当初春に予定されていた結婚式は三月のその日付の少し前に秋に延期されることが決まった。しかし、そこに社長である神足浤の意思が働いたわけではなかった。結婚延期の理由は鹿ヶ谷家の…というよりも新日本造船の事業に関連する事情であった。勿論、その頃本格的に始まった神足汪と神足光代の離婚訴訟もその事由の一つではあった。ただ、そういった事、結婚の延期などという事が神足浤に及ぼす影響がさして大きいとは思えない。結婚自体がそうであったように結婚式の延期も社長の内的な事情とは別に動いていく業務上のあれこれと同じであったろうと思う。しかも、延期は延期であって決して中止ではなかったのだ。
つまり、結論から言えばその頃特に何か社長に重大な出来事があったとは思えなかった。だから、この写真が示すものは、単純に公人としての自制心でも抑えきれぬ男としての情熱のせいでそうなった…と、そう考える方が論理的には落ち着く。
ただ、一つ不可解な点もあった。この写真の日は新日本造船の創立記念のパーティーがホテルで催されたが、その時に起こった“ちょっとした出来事”が世間の耳目を集めた。そのせで静市真也もよく記憶していたのだが、その“ちょっとした出来事”とその直後らしいこの写真には整合性がとれないのだ。
静市真也がふと思いついて引き出しの奥にしまったままだった古い書類を確認するとそこに同じ日付が記されていた。それはその頃はまだ静市真也がその存在を知らなかった岩倉武が作ったのであろう神足浤の行動報告書のコピーで昨年の株主総会の少し前、神足汪から渡されたものだ。当該人物についての「どういう人物か」との神足汪の問いに息子の担任の個人情報にそうした形で触れたことに居心地の悪い後ろめたさを感じた。だが同時に神足浤の内的生活の豊かであったことに安堵もした。神足汪の秘書として長らく神足家にかかわってきた静市真也はその複雑な家庭事情から年齢に比して大人びた浤に対して憐憫のような気持ちを抱いていた事にその時気づいたのだ。
新日本造船の創業記念と同じ日に誕生日を迎えた四宮朱音がいまどんな気持ちなのかわからない。だが理性的な彼女は恋人の婚約が決まった時、自ら歩み去ったと聞いている。二人の関係が戻っていたにせよ静市真也が保護者として知る彼女もこの調査同様、今更こちらに何か言ってくるような人間ではない。だとしたらこの事実はもう静市真也の心のうちの深い場所に永遠に葬ってしまう方がいい。しかも今後も事業上のパートナーとして関わる新日本造船との業務提携が今後どうなるか見通せない今、この事に拘って”良い事”があるとも思えない。寧ろ、悪い事しかなさそうだ。
しかし…と、若い恋人たちの写真を取り上げた静市真也は、自分の息子について何も知らないままとは何とも悲しいことではないか?とも思った。そして静市真也は息子を失った自らの雇用主に同情めいた気持ちを抱いている自分に気付き少しばかり後ろめたい気持ちになった。同情とは優越と共感の二つが微妙な濃淡で配合された感情の総称だからだ。だが、そうした会長の個人的な事情とは別に神足グループの為にも葬儀の前に騒動は困る。さっき詳細が決まったばかりの通夜と告別式では凉と会長が並び立って筒がなく浤の葬儀を終える事がなによりも重要なのだ。そうして後継者の死後も神足グループは安泰であると世間に知らしめねばならないのだから。
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