八月の影 5 終わりの始まり

 同じ便の乗客が次々自分の荷物をもって去っていくのに、紫野裕子のスーツケースはいつまでたっても出てこなかった。しかも到着してから何度も依頼人に電話しているのに一向に繋がらない。時計がさす時間は早朝と呼ぶにふさわしい時間には違いなかったが勤勉な依頼人に限って寝坊などという事は考えられなかった。最後に依頼人に会った時、彼が帰国後はすぐ地方出張だと言っていた事を思い出した紫野裕子は、もしかしたら圏外なのかもしれない、と諦めて携帯をバッグにしまった。過疎化が進む地方の通信事情の改善には旨味が少なく、どの通信会社も積極な投資をしないのは都市部と地方の格差を広げる一因だ。紫野裕子は少子高齢化社会に潜む構造的な社会問題について思いを巡らせた。

 ロストバゲージかと思い始めた頃漸く出てきたスーツケースをピックアップすると紫野裕子は依頼人への連絡は諦めてタクシー乗り場に急いだ。タクシーに乗ったらメールを確認せねばならない。さっき携帯に電源を入れてぞっとした。家からも職場からもそして息子の学校の育友会からも始めて見るような数のメッセージが溜まっていた。特に育友会のグループメッセージは三桁を超えていた。…という事は何か“事件”があったに違いない。紫野裕子がさし当り思いつく“事件”と言えば育友会の会長夫妻の離婚だった。

 昨年末に不倫と脱税が同時に発覚した北白川達人は名誉挽回とばかりに誰もなり手のなかった育友会会長を買って出たのだが、その妻は自分に何の相談もなく決めた夫に今度こそ愛想をつかした…とかなんとか。ここまでが一学期の育友会総会の後のママ友たちとのランチで盛り上がった噂話だ。育友会の会長夫妻とはいえ皆がここまで彼らの離婚話に興味を持つには理由があった。北白川達人と華は絵にかいたような美男美女の夫婦で且つ二人ともがそれぞれに成功した企業人だったからだ。だがそれ以上に二人は同世代の人間には記憶に刻まれた伝説があった。特に開高と清女の卒業生には知らぬ者はいないだろう。紫野裕子は達人の同窓で二学年上だったが共通する交友関係が全くなかったので在学中には二人は知らなかった。だが彼らの結婚直後の同窓会では二人の話題でもちきりだったのを思い出す。だからあの二人がとうとう離婚したのならそれはSNSも盛り上がるというものだ。

 早朝でほかに到着便もなかった為、すぐに冷房の効いたタクシーに乗り込んだ紫野裕子は全身を投げ出すようにシートに沈み込んだ。外は曇り一つない青空だ。今日も暑くなりそうでうんざりする。カーラジオのニュースが株価の大幅な下落と業界再編についての識者の見解を喧伝し始めた。株価が動いたのなら本業の企業法務が暫く忙しくなるかもしれない。だが、今日はとりあえず家に帰って休みたかった。紫野裕子は自宅の住所を告げると育友会のメッセージに心惹かれながらもまずは秘書から来た業務連絡のメールを確認した。たった一週間、実質四日間の不在だったが疲労と同じく業務もたまっていた。こればかりは仕方なかった。

「運転手さん申し訳ないけど行先を変えてもらえるかしら。」

「はい、どちらまで?」

『…なんといっても残された後継者はまだ高校生ですからね。それにしても神足浤氏一人の死がこれほど株価に影響を与えるのはわが国の歪な産業構造故と言えるでしょう。』

「…お客さん?どちらまで行きますか?」

『神足グループの今後ですが社長の神足浤氏の通夜は…。』

「お客さん?」 

 紫野裕子がそうなったのはその時が生まれて初めてだったのだが、それを”腰が抜ける”と表現するのだとはすぐにわかった。それほど確かに紫野裕子は腰を抜かしていた。


 


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