八月の影 8 終わりの始まり
父親が亡くなったのは雅がまだ小学生の時だったが、その時雅は人生の真理とでもいうべき事を理解した。喪失に伴う悲しみは人が生涯一人で抱えていかねばならないものなのだ、と。
父が亡くなった直後悲しみに打ちひしがれてはいたが、その悲しみは母や姉と寄り添うようにしていればいつかは“悲しみ”の全てが癒されるのだと雅は信じていた。だが直ぐにそれが間違いだと気付くことになる。結局、雅が持つ“悲しみ“は家族ですら共有することは出来なかったのだ。どれほど心通わせる相手であっても誰一人として自分と完全に同じ”悲しみ“を持つ者はいない。それは同じ時を過ごしても、それぞれの持つ思い出が同じでないのと似ている。姉には姉の、そして母には母のそれぞれの父との思い出があってそれは家族であっても共有できないのと同じだ。しかし、それでも誰かと寄り添う事は必要だ。父親が死んだ時、雅の周囲には何人もの共に悲しんでくれる人がいた。同じではなくとも似た悲しみを持つ母や姉は勿論、傍にいて何かと気遣ってくれた友人達。彼らのお陰で雅の悲しみはやがて日常生活を脅かさぬ程度には減じられたのだ。
だが涼は?
涼は自分と似た悲しみを持つ誰かが傍にいるだろうか?
一人で抱え続けなければならない分とは別に誰かと分け合える悲しみがあれば、その分だけ悲しみは癒されるものだ。雅は複雑な事情を抱える涼が兄を失った悲しみを誰かと共有するのは困難だと思っていた。恐らく両親がその役割を担うことはない。だから、せめて自分が傍にいる事ができれば…と願っていたのだ。そう願っていながら、しかし凉に会う事が出来たのは今日になって漸くだった。
大きな葬儀場に着くとその中でも一番大きな部屋に大勢の黒いスーツの大人たちが吸い込まれていくのがわかった。部屋というには大きすぎるそのホールの一際高い天井は故人の大きな遺影と夥しい花で埋められた大きな祭壇には丁度良かったが、その中心に居るはずの故人やたった二人だけの遺族には滑稽なほど大きすぎた。
焼香に並んでいる黒いスーツの大人の中で本当の意味で亡くなった神足浤を知る人間が一体、何人いるのだろう。遺族に寄り添う人間も雅のように胸を痛くしている人間もその中にいるようには見えなかった。
PTAの連絡網で通夜の日程が案内されていたのでクラスメートの殆どは昨日の通夜に参列したようだ。そのため今日は若い参列者は雅たちだけだった。黒いスーツの渦の中で場違いな制服姿は入り口で早々に人目をひいた。だからというわけでもないだろうが、雅がやっとの思いで見つけた涼は既に会葬者をかき分けて雅を目指していた。なぜなら凉なら雅が何を着ていても…周囲に埋没するようなスーツ姿でもきっと見つけ出したはずだからだ。
雅が涼を探すと決まってあの目に出くわす。いつも、いつも、必ずと言っていい程、雅が涼を見つけるずっと前からその視線は雅に向けられていた。そんな風に見つめられるのは初めてだったから息苦しく感じたものだ。涼のその視線は恋い焦がれるとか縋りつくとかとは少し違う。寧ろ痛みを内包する直截な図々しさだった。今もまた涼は煩い程のひたむきさを撒き散らしながら雅に向かってくる。だが遺族という役を与えられた涼は二人の間に介在する大人たちの人数の分だけ少し遠くなっていた。
「来たのか。」
わずか2日会わない間に、一年も砂漠を旅した人のように疲れて見える涼に向けた言葉は
「涼…その…大丈夫?」
口から出た瞬間に意味を見失って空中分解してしまった。
「うん。」
悲鳴を上げたくなるほどの寂しさの中で平気な振りをする。今日も涼は嘘つきだ。
「兄さんに別れを言いに来てくれたんだな。」
だから雅も堂々と嘘をつく。
「うん。」
不謹慎にも雅にとって浤の葬儀は寮に会うためのただの言い訳に過ぎなかった。涼から溢れる痛みが出口を探しているように見えたのは、まだその痛みを誰にも託すことができなかったからだ。きっとそのせいで涼は今までよりも更に孤独になっているに違いない。雅は手を伸ばして涼に触れた…。心の中で。涼は気付いてくれただろうか。雅は願った。前に一緒に見た映画に出てきた魔法のマントで皆の目から二人の姿だけを隠す事が出来ればいいのに。そうすればこの場で涼を抱きしめてあげられるのに、と。
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