八月の影 7 終わりの始まり

「父さん、ちょっとごめん。」

 涼は隣に立つ父に声を掛けるとその返事も待たずにその場を離れた。雅を見つけて気が急いていたのもあったが、父の返事を聞いてしまうともうその場を離れられなくなりそうだったのだ。ホールの入り口で戸惑いながら涼を探している様子の雅は黒いスーツの海に揉まれてきょろきょろと周囲を見回していた。真太郎や京香に囲まれた雅の周囲にはそこだけ違う速さで時間が流れて、スーツの大人たちの間でエアポケットのように浮き上がって見える。それは勿論、いつも、いつもどんな集団の中からでも雅だけを見つけることのできる涼の習い性のような特技のお陰でもあったが雅と友人たちが明らかにその場で異質な存在だったからでもある。それは父の隣に立ちながら、そこが自分のいる場所だとは思えない涼の居心地の悪さによく似ていた。

 浤の死を表面上は受け入れたように見えた父は早々に涼に向かって浤が置いていったものを差し出した。だが、このところの全ての状況に面食らっている涼は自分の目の前に並べたてられた全てに未だに手を触れる事すらできずにいる。そして、そうやって涼が目の前に差し出されたものを受け取るのを嫌がるそぶりを見せる度に父は打ちひしがれたようにだんだんと小さくなっていった。

それは何かの静かな終わりだった。父はもう涼を怒鳴りつけたりはしなかった。最近の父はただ何も言わず悲しそうな目で涼を見つめた。雅との交際を反対して涼を殴りつけた父はもういない。

 この頃父を見ながら涼は北風と太陽の話を思い出す。以前の北風のような父の反対には雅を守る為に立ち向かう事が出来た。老獪な虎のような父に反抗するのは簡単だった。だが今の父はどうだ?まるで雨に濡れて行き場を亡くした老犬のようではないか。そんな父にどう向き合えばいい?父に向かうと涼は混乱して何も言えなくなってしまう。最近では家でもなるべく父とは顔を合わせないようにしていた。

「来たのか雅。」

自分は兄のようにはなれない。雅の手を放すなど事など到底できない。これは時制の一致を越えて現在形で表現される普遍の真理の類のものだ。


Galileo believed the earth is round.

(ガリレオは地球が回っていると信じていた)

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