第19話 第四エリア〝霧笛の湖〟

 二人は確かにと顔を合わせる。


 陽は真上に高く昇り、テントには涼しい風が吹く。黒い鷹が上空を旋回している。


「俺たちは〝アタラクシア〟のメルフィスと契約した。内容は——まず俺たちが第三エリアに張る。そして、カスカルが現れたら、メルフィスの残していったモンスターをけしかける」


「ほぉ。それが昨日起こった出来事ですわね」


「カスカルは——かなり抵抗したが、物量に敗けて気絶した。これで契約内容は終わりだ。〝アタラクシア〟から報酬を貰って終わりのはず——だったんだが、その後だ、問題は。まず、モンスターたちはカスカルを殺すんじゃなくて攫った。これは聞いてなかったことだ。更に、モンスターたちはそれからなぜか俺を狙い始めた。というか〝羊角隊〟全体が狙われてるんだろうな。俺は一晩中逃げ回った末に何とかここまで戻ってきた」


「え、凄っ。一人で?」


「カスカルがモンスターのほとんどを倒しちまってたから、逃げるだけならな。というか俺は、カスカルがモンスターを全部倒しちまうと思ってたんだが——それは今はいい。で、なんで俺たちが襲われるのかっつったら、まあ報酬を払いたくないとか、一度裏切ってる奴はまた裏切ると思われたとか、色々浮かぶわけだ」


「裏切ったというのは、カスカルさんを?」


「そうだ。俺たちは汚い取引の経験があるし、裏切りの性質は理解している。だが、それと『契約』は全く別の問題だ。そうだろ?」


「もちろんそうだね」


「命の危機を脱した今、俺はとてつもなくムカついてる。〝アタラクシア〟に対してな。契約ってのは神聖なもんだ。それが破られちゃあ社会は立ち行かねえ。神域を侵したやつには、相応の裁きが下されるのが、秩序ってもんだ」


 ジェンウォは強くこぶしを握る。モルガナはおやと首をかしげる。


「つまりもしかして、あなたの立場は今、こちら側ということかしら」

「そういうことだ。協力してやるよ、てめぇらに」





 治療を終えたカスカルとクレースは、小島の一つで腰を落ち着けて、即席の竿で釣りをしていた。さざ波に小舟が揺れる。三歩先すら見えない深い霧の中、二人は身動きが取れなくなっていた。


「ねえカスカル、これからどうするつもりなの?」

「今、湖のどのあたりにいるかも分かんないっすからねえ」

「移動は霧が晴れてからってのは分かるわよ。その後のこと」

「ああ、そっすね。俺は……西へ向かおうかな。クレースは東に向かってもらえばいいっす」

「は? なんか求めてた感じと違うんだけど。なんで?」

「俺は、〝アタラクシア〟に投降しようかと思うっす」

「……え?」


 クレースが疑問を飛ばす前に、二人の背後、小島の中央に何者かが現れた。条件付きの〝超長距離瞬間移動〟。クレースは立ち上がると同時に武器を構えて振り返る。


「カスカルちゃん、その意図は~?」


 ジト目の緑髪。蝶の羽のような青い衣装。女がニコリとして尋ねる。カスカルは釣竿をゆっくりと置いて、腰を下ろしたままに振り返った。


「〝アタラクシア〟の、レオランっすね。やっぱり」


「そ。私はね、マーキングしたところを常に見張ることが出来るの。音を聞くこともできる。あなたたちが偶然そこに入ってきてそんな話をしてるから、ビックリして跳んできちゃった」


 クレースは静かに驚き、思わず声に力が入る。


「偶然じゃない。この島に舟を泊めようと提案したのはカスカルよ」


「そっすね。この小島に誰かが何かを仕掛けた思念の残滓が残ってたんで、もしかしたら〝アタラクシア〟と接触できるかもとは思ってたっす」


「まっさかあ。そんなことできるの~? エーテルの扱いに関してはメルフィスやエックスよりも上なんじゃない?」


 ——え、いや? そもそもカスカルは杖を——エーテル石を持ってないんだから、能力は使えないはずじゃ?


 クレースはそう疑問を呈したかったが、話は既に先へ進んでいる。


「俺が言ったことはその二人に伝わるんすか?」

「伝わるわよ~。どうぞ、あなたの考えを教えてくれるかしら?」


 カスカルはふうと息をつく。


「俺は、洗脳されるのはごめんっす。自分の意志を持って帰りたいっす。街には大事な家族がいるんで。……それで、レーノさんたちが死んじゃうのも嫌っす。〝羊角隊〟のみんなもできれば死んでほしくないっす。これほどの要求をするならば、その見返りは、俺の全面服従じゃなきゃダメかなと思ってるっす」


「うーん、なるほどね。ちょっと待っててね~?」


 レオランは霧に姿を消す。クレースはカスカルに刃を向けた。


「なんとなくだけど話は理解してるわよ。ランを襲ったのも〝アタラクシア〟なのよね。アンタはそれに与するってわけ?」


「〝ナンバーワン〟も従ったらどうすか? 命は助けてもらえると思うっすよ」


「舐めた口きいてんじゃないわよ。こんなの抵抗の一手に決まってるわ。アンタ、昔は〝辻斬り〟って呼ばれてたのに、なんで今はこんなナヨいヤツになってるわけ?」


「俺は……俺は、俺の周りの人たちに死んでほしくないだけっす」


「他の人間の命なんてアンタに関係ないでしょ!? 適当言ってんじゃないわ。百歩譲って羊角隊のやつらの命ってんなら分かるわよ。いやまあ分かんないんだけど。でもアンタは今、レーノとモルガナさんの名前も挙げたでしょ! そんなのお節介だわ! あの二人にはあの二人の冒険があって、究極的には、私たちがそれに踏み入る権利はないのよ!!」


「——驚いた。それもそうっす。じゃあ、そっすね……クレースには本当のことを言おうかな」


 カスカルも立ち上がる。


「俺はなんとしても長生きしなきゃいけないんすよ。そう……俺は。俺は、なんとしても長生きしなきゃいけないんす!」


 珍しくカスカルの声に力が入った。しかしそれも一時のこと。それからカスカルは寂し気に微笑んだ。


「俺には、リエールが遺していった『——』がいるんすから」


 彼の大事なものを聞いて、クレースの力が抜ける。剣の切っ先を地面に着ける。


「……アンタ、それって」


 レオランが戻ってくる。


「カスカルちゃん、それでいいって~。ただ、そうね~。条件があるわ」


 カスカルは無言で続きを促す。


「第三キャンプを、制圧してくれない? 在りし日の〝辻斬り〟さん?」


 カスカルはクレースが剣を振る前にそれを蹴り飛ばし、続けてうなじに手刀を叩きこんだ。

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