Ⅲ 古狼の森

レキの村を出て、どれくらい歩いただろう。

天頂を過ぎた太陽はすでに下降を始めているので、いつもの昼食時は過ぎているだろうか。

時折休憩を挟みながらも、ユーリとリルリはずっと歩き続けていた。

整備された街道が延々と続いているので、疲労は最小限で済むのが幸いだった。ユーリの知る限り、イシュの街からレキの村へ旅人が訪れた記憶もないし、村人がイシュの街へと通っている素振りも見たことがない。それでもなお、このように街道が荒れずに残っているのは幸運なのかもしれなかった。

街道の両側は見渡す限り緑の平原になっていて、時折遥か向こうに群れている獣の姿が見える。リラックスした様子の草食獣ばかりで、襲ってくる気配がないとはいえ、視界に入る度にユーリは警戒度を引き上げる。


「朝早かったから、眠くなってきちゃった。今すぐそこの芝生に寝転がったら、気持ちいいと思わない?」


そんなユーリと対照的に、リルリはいつまでもはしゃいでいる。


「いつ襲われるかわからないのに、そんなことできるわけないだろ。リルリ、もしかして浮かれてる?」

「あったりまえじゃない!イシュは都会だから、お洋服もアクセサリーも、本も調理小物も、何でも売ってるんだよ!口うるさいおばあちゃんは居ないから、誰にも邪魔されない!」


涙を流しながら別れを惜しんだ村人には絶対に聞かせられないようなことを、リルリはくるくると小躍りしながら絶叫する。その声が獣を呼び寄せる可能性を考えると、ユーリは気が気ではなかった。


「もちろん、レキの村は大好きだし、おばあちゃんも大好きだよ。でも、生まれてからずっとあの村に居たんだもん。ちょっとくらいはしゃいでもバチは当たらないでしょ。それに、おばあちゃんが居たせいでできなかったことだって、多少はあるからね。あの夜だって…。」


饒舌にしゃべっていたリルリが、しまったと言わんばかりに口をつぐむ。


「あの夜?」

「なんでもない!ばか!えっち!」


飛んできた拳を、ユーリは何とかかわす。

そういえば、昨日から真面目な話をすることが多かったせいか、リルリがこんな風にツンとしている所をほとんど見ていなかった。こうして本来の調子で笑っているということは、リルリの心が穏やかになっていることの証拠なのかもしれない。それだけで、村を発って良かったとユーリは思う。


「ほら、早くいこ!こうしている間にも、火竜はイシュを襲ってるもしれないんだから!」

「自分が早く買い物したいだけだろ。」


忘れかけていたリルリの本来のキャラを思い出して、ユーリは心の内だけで笑う。実際に笑ってしまうと、叩きのめされそうだから。



「あ、ちょっとストップ。」


特に目立った危機を感じないまま歩き続け、そろそろ日が暮れるというタイミングで、リルリが鋭い声を上げた。咄嗟に太刀に手をかけて立ち止まると、進行方向の道脇に大きな岩が鎮座していた。ユーリには特に怪しいところのない、ただの大岩に見える。強いて言えば、唐突に街道脇に現れたことだけが気になる、かもしれない。


「あの岩は目印で、あの向こう側からは人を襲う魔獣の生息範囲に入るよ。闇夜に乗じられたら厄介だから、今日はこの辺で野営にしようか。」


言うや否や、リルリは近くにあった大きな樹の下に荷物を降ろし、荷解きを始める。


「こんなに街道の傍でいいのか?」

「むしろ街道の傍だから良いのよ。獣は寄ってこないし、この街道は人の往来がほとんどないから。ほら、ユーリは薪を拾ってきて。ついでに、向こうに流れている川から水も汲んできてね。」

 

ユーリが資材を集めている間にリルリが野営の準備を整え、あっという間に簡易の寝床が整う。柔らかい芝の上に麻のラグを敷いた寝床と、調理、獣除け、保温の三役を兼ねる焚火、そこにリルリの料理とあたたかいコーヒーがあれば、何も言うことはなかった。


「俺が見張りをするから、リルリは寝ててくれ。」


食事を終え、日課である鍛錬を終えてから、ユーリが言う。

周囲を注意深く見まわした限り、獣の姿はなさそうだ。ただ、この暗さなら闇に紛れることは容易なので、決して気は抜けない。


「ユーリだって疲れているでしょう。見張りはいらないから、一緒に寝よ。」


荷物を片付け終えたリルリが、ラグに横たわりながら言う。


「ここは人を襲う魔獣の生息域じゃないもの。縄張り意識が強いからこそ、逆に言えばその縄張りを出て人を襲うことは絶対にないし、魔獣以外に危害を加えてくるような人間もこの辺りには住んでいない。だから、見張りはいいの。レキの村でも、寝ずの見張りなんて立ててなかったでしょう?」


納得しない様子のユーリの手を引いて、リルリは無理やりラグの上に寝そべらせる。ラグは鞄の中に折り畳んで収納できる大きさのものなので、横に並ぶだけでユーリの左手とリルリの右手が触れ合ってしまうほど狭い。


「ちょっと、狭くないか?」

「仕方ないでしょ。荷物はこれだけじゃないから、持ち歩くにはこれが限界なの。芝生に直接寝そべらずに済むだけありがたいと思いなさい。芝の上で直接寝ると夜露で体温が下がるかもしれないから、もっとこっちに寄って。」


こうなったリルリは退かないことをユーリは知っているので、大人しく従う。

ぴったり密着した肩、一ミリでも動かそうものなら触れてしまいそうな手のひら、頭上に広がる満天の星。状況はあの夜とほとんど一緒でも、リルリとの距離は今の方が断然近い。


「なんだか、あの夜の続きみたいだね。」


何気なく言ったリルリの手と、声に応じて体の向きを変えたユーリの手が、わずかに触れる。


「今日は、水を差す婆さんも居ないしな。」


あの夜の殺気に満ちたカエラの声を思い出して、ユーリは笑う。

しかし、リルリは笑わない。耳まで真っ赤にしたリルリは、口をパクパクさせて言葉を失っている。


「言っとくけど、変なことしたら殺すから。あと、勝手に起きてどっかに行っても殺す。ちゃんと寝ないと殺す。わかった?」


左手を真っ赤に光らせながら、リルリが言う。

どうやら、こうして隣同士で眠ることの意味にようやく思い至ったらしい。従わなければ最大火力の炎魔法が炸裂しそうなので、ユーリは無言のまま何度も頷く。変な気を起こさない為に、『変なこと』、というワードを必死に忘却しようと努める。


「わかればよろしい。」


満足そうに言ってから程なくして、ユーリの耳元で規則正しい寝息が聞こえてくる。今日一日ずっとはしゃいでいたから、充電が切れたのだろう。ユーリは上着を脱いで、リルリの体にかける。耳元で穏やかな寝息を聞き続けているうちに、ユーリも自然と眠りの世界に引き込まれていく。

明日から踏み込む魔獣の生息域のことや、これから向かう見知らぬ街のこと、人を襲う火竜、そして元に居た世界のこと。

考えるべきことや、不安なことはいくらでも出てくるけれど、リルリの寝息がそれらの全てに靄をかけていく。

何もかもを放棄して、眠りに落ちていく時の快感。連綿と続く懸念が遠のいていく安堵。

薄れゆく意識の中で、ユーリはその快感をずっと前から知っているような気がしていた。



瞼の上からでもわかるほどの強い光で、ユーリは覚醒する。

遠くに見える山の間から覗く朝陽が、頭上を覆う枝葉に遮られることのない鋭い角度でユーリの顔を照らしていた。朝陽とともに目を覚ますなんて、レキの村で暮らしていた頃には考えられなかったことなのに。


この眩しさの中、リルリはまだ寝ているのか?

その疑問に行きついたと同時に、胸にかかるあたたかい吐息の感触にようやく気が付く。それに、全身に纏わりつくようにのしかかる、やけに柔らかい触感も。


落ち着け、落ち着け。


呼吸を整え、精神を落ち着かせ、無我の境地に達するまで精神を統一させてから、ユーリは目を開く。

まず最初に目に入ったのは、胸元に押し付けられた、リルリの唇。その唇から漏れる吐息は、はだけたユーリの胸元を湿らせている。

腹部に感じる重圧とぬくもりは、間違いなくリルリの体の中で最も特徴的な部位によるものだ。いつか右手の先にわずかに感じる程度だった柔らかさが、今は暴力的なまでにユーリの腹部に押し付けられている。

この状況から逃れられないのは、ユーリがその状況を享受しているからではなく、リルリの足がしっかりとユーリの足に絡みついているからだった。

リルリはいつもと同じショートパンツを穿いているので、足をほどくためにはその肌に触れなければならない。少しでも動かしてしまうと下着が見えてしまいそうなそのショートパンツの丈を考えると、うかつに触れるのも憚られた。

それに、肌に触れることによってリルリが目を覚ましてしまうのもまずい。せめて上半身だけでも離れようと思っても、リルリの右手はしっかりとユーリの服を掴み、左手はがっちりと背中に回されていた。


これでは、うかつに動くこともできない。

八方塞がりの状態で、ユーリは思案する。

一番の問題は、下半身の一点に血が集中し始めていること。

ユーリとリルリの体はぴったりと密着しているので、それはすぐにリルリにバレてしまう。そんな目覚め方をしてしまえば、あらゆる言い訳が意味を失うだろう。

自らの置かれた状況を理解したリルリは、怒りのままに最大火力の魔法をぶっ放すかもしれない。そうなると、最悪の場合、死すらありうる。

村のみんなと約束したのに、こんなところで冒険を終わらせるわけにはいかない…。ユーリの思考は高速で回転し続ける。


「うふふへ…いただきま…」


胸元から声が聞こえた直後、ぬるりした何かが蠢く感触に肌が粟立つ。それが寝ぼけたリルリの舌だと分かった途端に、心臓の鼓動が暴れ出す。

色々とまずいから、早く起きてくれ!

ユーリは声を出さずに絶叫する。

いや、でも今起きられたら、盛大な誤解を招きかねない。そうは言いつつも、このままでは心臓も、わずかに残る理性も、保たない…。

いっそのこと、色々な場所に手が当たる覚悟でリルリの体を動かしてみようか。ただ、そうするといよいよ理性が駄目になるかもしれない…。

 

「う、へぁ、え?あさぁ?」


永遠に感じられる長い時間の後、ようやくリルリは覚醒する。

その瞬間にユーリは体を捻ってリルリを振り払い、ゴロゴロと回転して、リルリの隣から脱する。のしかかられていた腕の感覚はとっくになくなっていたし、しゃぶられ続けた胸板は唾液でびっしょりで、早鐘を打ち続けた心臓は今にも破裂しそうだった。それでも耐え抜いた自らの理性を、ユーリは褒めてやりたかった。


「おはよう、ゆーり…。って、ちゃんとこの上で寝なさいって言ったでしょ、バカ!」


息も絶え絶えに横たわるユーリの元へ這ってきたリルリが、その頭をはたく。ユーリの眼前には服がはだけた胸元が迫っていて、思わず目を逸らす。まだ寝ぼけているリルリは、自分がさっきまで何をしていたのか、今の自分がどんな姿なのかも知らない。

初日からこれなら、明日からも大変そうだ。

ユーリの大きな大きな溜息が朝陽で金色に染められた草原に響き、旅の二日目が始まった。



「この先が、本番。ユーリ、覚悟はできてる?」


目印の大岩の前に立って、リルリが尋ねる。一歩でも踏み出せば、そこは人を襲う魔獣の生息域だ。


「この辺に生息しているのは狼みたいな種類で、縄張り意識が強いからすぐに気づかれると思う。群れで狩りをするタイプだから、集団戦を覚悟しておいてね。」


いつになく真剣な目をしているリルリに、ユーリは頷く。

狼タイプなら、カバドラゴンのように一撃で命を落とす危険は少ないだろう。その俊敏さと連携は厄介だが、専守を基本にカウンターで迎撃すれば何とかできる自信はあった。


「基本は俺が先行する。対敵した時も、俺だけで対処する。リルリは身を守ることだけを考えてくれ。」

「うん。でも、いざという時はわたしも戦うよ。」

「リルリ、戦えるのか?」


レキの村に入ってくる討伐依頼では、ユーリだけで対処できる程度の魔物しか出てこなかった。故に、ユーリはリルリが戦っている所を見たことがない。


「もちろん。ユーリがレキの村に来るまでは、マスターに代わってわたしが討伐依頼をこなしていた時期だってあるんだから。」


リルリは右腿の鞘から短刀を抜き、逆手で構えて見せる。確かに、鞘から抜いて構えるまでの速度は悪くない。水晶のような装飾の入った短刀は戦闘向きには見えないが、その刃が丁寧に手入れされているのが分かった。


「わかった。でも、基本は俺が出る。リルリが動くのは、俺の指示があってからだ。いいな?」

「はいはい、了解してますよ、っと。」


逆手に持っていた短刀を手の中で半回転させ、鞘に戻す。一連の動作をノールックで行えるところを見ても、戦闘経験が豊富なのは嘘ではないらしい。


最後にもう一度頷き合って、ユーリの右足が大岩を超える。

複数の視線を感じたのが、歩み始めて三歩目。

一定の距離を保ちながら様子をうかがう気配を感じたのが十五歩目。

それ以降は膠着状態が続いた。ここまで張り付いて警戒されるなら、昨日より歩行のペースを落とさざるを得ないかもしれない。横目で傍らのリルリを盗み見ると、いつもと変わらないように見えるリルリが視線を合わせてくる。盗み見するユーリの視線に気付けるということは、普段よりも警戒度が高いのだろう。


「…なるほどな。」


一度も対敵することなく歩き続けて一時間、ユーリの眼前には木々が生い茂る森が広がっていた。街道はそのまま森の中へと続いていて、左右を見渡す限り森を避ける術はなさそうだ。狼達からしても、見晴らしのいい平原より森の中が有利、ということだろう。


「ここからが本当の本当に本番、ってことね。」


リルリが乾いた唇をちろりと舐める。どこか楽しそうにすら見えるその横顔に、ひとまず安堵する。どうやら緊張で動けない、ということはなさそうだ。


「一応の確認なんだが、この森を迂回する方法は?」

「ないよ。地図によると、この森を越えないとイシュには行けない。そして、日が暮れる前にこの森を抜けなければ、魔獣の生息域で野営だね。」


リルリがにっこりと笑う。この状況を楽しめるのなら、ユーリよりも肝が据わっているのかもしれない。

意を決して、ユーリが一歩目を踏み入れる。一拍遅れて、後ろからリルリの足音が聞こえる。

歩を進めるにつれて森は薄暗くなり、足下の土が湿り気を増していく。雑草が生い茂り始めた街道を見失わないよう、慎重に進んでいく。


背後に入り口の光が見えなくなったと同時に、一定の距離を保っていた気配達が一斉に動き出した。猛烈な速度で前方から三つ、気配が近付いてくる。

ただ、敵は三匹だけではない。依然として距離をとったまま、攪乱するように素早く動き回る気配が十近く。撹乱班が立てる音のせいで、前方から近づいてくる三匹の正確な距離を測ることができない。

確かに、これは統制された群れだ。ユーリは小さく舌打ちをする。


「来るよ!」


リルリが短く言うのと、正面から三匹の狼が飛び掛かってくるのが同時だった。完全に息が合った同時攻撃。


「息が、合いすぎだ!」


ユーリは相手の速度に合わせていつもより半歩分小さく左足で踏み込み、左腰から抜刀した太刀を右方向へ大きく薙ぐ。狼達が綺麗に横並びになっているからこそ、一振りで三匹とも巻き込んで遥か右方へと吹き飛ばした。

その行き先を確認しているユーリの左の眼球が、左側の茂みから飛び出してくる狼を視界の端で捉える。急いで右側に振り抜いた太刀を逆手に持ち替えて、そのまま水平に薙ぐ。いつも鍛錬で行っている基本動作なので、その所作には無駄がなく、流れるような美しさすら感じさせた。

リルリに怪我がないか、確認する為にユーリが振り返る。

左側からユーリが振り向いたのと、その視界の反対側から狼が飛び掛かってきたのがほとんど同時だった。さっき三匹同時に薙ぎ払った内の一匹が、統率を無視して怒りのままに飛び掛かってきたのだ。

とっさに右足で迎撃しようとするけれど、狼に気付いた瞬間に身構えていたユーリは、いつもの癖で右足に重心を置いてしまっていた。初動が遅れたので、回避は間に合わない。

負傷を覚悟で防御の構えをとる右腕越しに見えたのは、深く沈み込んだ体制のまま走りこんできたリルリが、狼の喉元に短剣を深く突き刺す瞬間だった。


「前!あと二匹!」


完全に息の根を止めた狼の死体を蹴り飛ばすリルリの言葉よりも先に、ユーリは逆手に持ち替えたままの太刀で正面に迫った新手の狼を迎撃している。一匹目のすぐ後ろから時間差攻撃を仕掛けてきた二匹目は、異能で強化された右足で顎を蹴り砕いた。

時間にして十秒にも満たない攻防の後、ユーリ達を取り巻く気配が退いていく。


「逃がさない!」


退いていく気配の一つへ、リルリが短剣の切っ先を向ける。

短剣を飾っている水晶が赤く光ったその直後、剣先から一閃の炎が迸る。その進行方向から小さく獣の悲鳴が聞こえたのを最後に、森は静寂に包まれた。


「これでしばらくは安心、かな。遠距離攻撃があることも見せつけたから、簡単に手出しはしてこないと思う。」

「今のは?」

「短剣を媒介にすることで、魔法を一点集中させたの。普通に出すのより溜めの時間が必要だけど、威力と射程はかなり伸びるよ。」


ユーリの前にかざした短剣を、くるくるとペンを回すようにもてあそんでから鞘へと戻す。ユーリの思っていた以上に、リルリは逞しかった。


「それよりユーリ、また峰打ちだったでしょ。だから、最初の三匹の内、一番奥の一匹は行動不能にできなかった。今度からは躊躇わずに殺した方がいいよ。相手はこっちを殺す気でくるし、カバドラゴンの時みたいに一対一で正々堂々戦えるわけじゃない。刃を翻す一瞬の隙が命取りになる可能性だってあるんだから。」


悔しいけれど、リルリの言う通りだった。

第一波の三頭をまとめて薙ぎ払う直前、ユーリは太刀を翻す為に握りなおしていた。そして、左側面からの第二波を迎撃する為に逆手に持ち替えた際にも、刃を翻す為に握りなおす時間が生じていた。二度の握りなおしがなければ、リルリの手を借りなくても狼を退けることができただろうし、そもそも最初の一撃で三匹の狼を完全に沈黙させられていたはずだ。


「ユーリは優しいから、相手を傷つけたくないって思ってるのもわかってる。でも、それで本当に大切なものを守れなかったら、きっとユーリは後悔するよ。」


リルリの言っていることを頭では理解できても、心の深奥に根付いた嫌悪感は簡単には拭えない。

血に染まった両手と、取り返しのつかない絶望。

思い出せるのはそこまでで、あとは何も思い出せない。


例の発作に陥り掛けたユーリを引き留めたのは、視界の端で木々に紛れて忍び寄る影を捉えたからだった。それは姿勢を低くし、音を完全に殺しているので、リルリは気付かずに背を向けたままだった。ユーリが気付いた時は、その狼はすでにリルリを射程圏内に捕えようとしていた。

思考を介する間もなく、ユーリは足元に落ちている石ころを拾い、右足で思いきり蹴る。

不可避の速度で飛んで行ったちっぽけな石ころは、リルリの背後から気配を消して近付いてきた狼の頭蓋を完全に砕く。

弾かれたように振り向いたリルリは、傍らにひれ伏すその死骸を見て、優しく微笑んだ。


「リルリ、ありがとう。」

「なんでユーリがお礼を言うのよ?お礼を言うならわたしの方でしょ?」

「さっき守ってくれたから。それに、俺の甘さを指摘してくれた。だから、ありがとう。」

「守るのは当然だから、お礼なんていらないってば。ユーリだって、この調子でわたしのことをしっかり守りなさいよね。」


もちろん、ユーリは元からそのつもりだったが、実際のリルリは守らなければならないほど弱くもなさそうで、少し張り合いがないというのが正直なところだった。もちろん、リルリの強さを褒めてしまえば調子に乗せてしまうから、口に出しては言わない。


「ふっふー。戦える系ヒロイン、リルリちゃんの力を思い知ったか。」


口にせずとも全てを察していたリルリに、ユーリは降参の意を示すように肩を竦める。

自らの再び血に染めたことの罪悪感よりも、リルリを守れた達成感の方がずっと大きくて、ユーリはそれを密かに噛み締めていた。




その後も断続的に襲ってくる狼を退けながら、二人は森を進み続けた。

狼達はやはり集団で波状攻撃を仕掛けてくる。それはあまりにも統制され過ぎているので、逆手に取れば迎撃も容易だ。第一波をユーリが捌き、第二波をリルリが仕留める、といった具合にリズムよく処理していけば、体力の消耗を最小限にすることができた。


「本当に、機械みたいに統制された群れだな。」

「そうだね。きっと群れの長は正攻法では敵わないことを悟っているから、捨て駒を当てて疲弊させるのが狙いだと思う。このまま隙を見せなければ、長は諦めてくれるかもね。」


会話をしながらも、ユーリの警戒が途切れることはない。前方から駆け寄ってくる二匹が分散する前に、右足で一気に距離を詰めたユーリは二匹まとめて薙ぐ。刃を損耗させないための峰打ちでも、加減しなければ容易に首の骨を砕くことができた。


「RPGならこうして雑魚を倒しているうちにレベルアップするし、お金もわんさか手に入るんだけどな。」


この世界に転生する前によくプレイしていたRPGの類を思い出して、ユーリが言う。

ただ、ユーリは具体的なゲームのタイトルを覚えているわけではなく、知識としてRPGの概念を覚えていただけだった。今までプレイしてきたたくさんのゲームのことを思い出せたら、自分がどこに転生したのか、これからこの世界がどうなるのか、わかったかもしれないのに。

『ハコニワ』という名前の世界を冒険したゲーム…、やはりユーリには思い出せなかった。


「これはゲームじゃないから、お金も経験値も溜まらないけどね。だから、無駄な戦闘はなるべく避けるべきね。」


苦笑いしながら納刀するユーリと、くるくると短刀を回しながら鞘に納めるリルリ。このワンシーンだけ見ていれば、本当にゲームにしか見えないだろう。

もしかすると、本当に元の世界で死の直前までプレイしていたゲームの中に転生してしまったのかもしれない。ユーリは半ば本気でそんなことを考えていた。


「多分、もうすぐ森を抜けるよ。抜けた先にも目印の大岩があるはずだから、そこを越えたら野営にしようか。」


リルリの言葉で、ユーリは今朝のことを思い出してしまう。

胸板を這う舌の湿った感触と、腹部にあてがわれた暴力的な柔らかさ。今日も野営なら、同じことになる可能性は極めて高い。


「森を抜ければイシュは目と鼻の先だけど、夜間は警備が厳重になるし、街に入ってから宿を探すのも大変だろうから、明日の朝いちばんにイシュに入る方が…って、どうしたの?」


表情を曇らせるユーリに、リルリが尋ねた。


「あの、えっと、リルリさんは、今朝の事、全く覚えていらっしゃら…ない?」


恐る恐る尋ねるユーリと、本当に心当たりがない故に首をかしげるしかないリルリ。


「あ!出口!もうすぐだよ、ほら!」


ユーリの大きな溜息は、リルリの嬌声にかき消された。

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