Ⅱ レキの村-旅立ち

気が付いたら、沢山の小さな扉が付いた大きな鉄の箱の前に居た。

それは、何の変哲もない下駄箱だった。全校生徒の上履きを収納する下駄箱。

そうだ、ここは学校の昇降口で、今まさに下駄箱からスニーカーを取り出そうとしていたのだった。

足元に敷かれた簀子のひやりとした感触、右手に触れる下駄箱の扉の冷たさと、左手に携えたくたびれた上靴。いつもと変わらない、通い慣れた高校。

どうやら、一瞬だけ意識が飛んでいたようだった。頭を軽く振って、意識を現実世界に呼び戻す。

今日も一日、いつもと何も変わらない憂鬱な時間を過ごし、ようやく下校するところだった。一日中、こうして下校する瞬間を待ちわびていたはずなのに、何を呆けているのだろう。

自らに割り振られた下駄箱を開くと、扉の隙間から何かが落ちた。

ひらり、ひらり、とスローモーションのように落ちていくそれは、どう見ても手紙だった。封をしているハート型のシールが、昇降口から差し込む西日に照らされてきらりと光る。

足元に落ちた手紙を、拾い上げる。

自分の動作までスローモーションになったみたいに遅い。いつの間にか昇降口には誰かが立っている。スカートを穿いているので、たぶん女子生徒。ここからだと、逆光でその顔は見えない。

その女の子が、何かを囁く。

しかし、その声は聞こえない。

尋ね返そうにも、声が出ない。

いつまでも夕陽の中に立っているその女の子の顔を確かめるために、瞬きをする。

その一瞬が、永遠のように長い。そして、次に目を開いた時には、



目を開くと、そこは見慣れた天井だった。

木でできた天井、壁、床、ベッド。もうすっかり馴染んでしまった、転生先の世界。


ベッドから体を起こし、ユーリはついさっきまで見ていた夢を思い出す。

かつて自分が通っていたであろう学校、かつて自分が使っていたであろう下駄箱、そして、かつて自分がもらったかもしれない手紙。

転生前の記憶はほとんど抜け落ちているので、夢で見た学校の名前や、具体的な場所は全く思い出せない。

それでも、自分がそこに毎日のように通っていたことだけは確信していた。


じゃあ、自分はなぜ学校のことを忘れているのだろうか。

そんなことを考えていると鼓動がどんどん早くなっていくのを感じたので、慌てて思考を破棄する。

寝起きの体をストレッチでほぐしながら、ゆっくり深呼吸をする。

鼓動が徐々に落ち着いてくるのを感じながら、ユーリは最近の生活について考えていた。転生前の世界ではなく、転生した後の、今の生活の事。


カバドラゴンを討伐したあの日から、何日が経っただろう。

時計がないレキの村では時間の定義がとても曖昧で、カバドラゴンどころか、自分がこの世界に転生してきてどれくらいの日数が経過したのかもユーリは把握できていなかった。一年以上過ごしている気もしたし、まだ三か月程度と言われても不思議ではないような気もする。


日が昇れば目を覚まして、日が落ちるまで働く。四季の概念もないので、時間の経過を感じさせてくれるのは伸びてきた髪の毛であったり、農作物の成長くらい。

そんな日々の中で生きていると、日付という概念は必要がないと言っても過言ではなかった。農作物の収穫サイクルを調べようにもネット環境がないし、髪の毛は少しでも伸びればリルリの手によって切られるので、どちらも尺度としてはあてにならない。


昨日とほとんど同じ今日が訪れる中で、ユーリは穏やかな日々を過ごしていた。

カバドラゴン以来は討伐の依頼がこないので、ユーリは村の農夫達とほとんど変わらない生活を送っている。リルリは討伐依頼の少なさに不服そうだったけれど、ユーリは鍛錬以外で刀を抜くことのない日々が嫌いではなかった。

急ぐことや焦ること、緊張や心配とも無縁の日々は時間の流れがとても緩慢で、それはユーリにとって退屈などではなく、心から安堵できることである気がした。


そして、また昨日と同じ今日が始まる。そろそろ、リルリが扉を蹴破ってくる頃だ。

そう思った瞬間に、ユーリの部屋の扉が勢いよく開く。

隙間から覗くのは色白で健康的な肉付きの生脚…ではなく、浅黒い、筋骨隆々とした太い腕だった。


「おい!起きてるか!」


全く想定していなかった野太い声に、ユーリは思わず身を翻す。右手はベッド脇に立てかけてあった太刀へと伸び、その目は闖入者を射抜く。


「起きてるなら、早く酒場まで来い!待ってるぞ!」


用件だけ告げた酒場のマスターは、あわただしく部屋を飛び出していく。

いつもはリルリが起こしに来るはずなのに。もしかしてリルリに何かあったのだろうか。


マスターの背中を追うように寝間着のままのユーリが酒場へ転がり込むと、そこには興奮した様子のリルリと、神妙な顔をしたカエラが待っていた。

リルリに怪我がないことに、ユーリはひとまず安堵する。当の本人であるリルリは、怒っているような、喜んでいるような、どっちともつかない表情をしていた。


「おお、さっそく来たか。実はな、ユーリに隣街のイシュから招集がかかった。」


隣町?イシュ?聞きなれない単語ばかりで、ユーリは反応に迷う。


「ユーリはレキの村から出たことないから、無理もないよね。」


リルリはいつも腰につけているポーチから、細く巻かれた一枚の紙を取り出す。カウンターの上に大切そうに開かれたそれは、どうやら地図のようだった。


「これが、わたし達が今生きているこの世界、『ハコニワ』の地図だよ。このあたりが、わたし達が暮らしているレキの村。あまりに小さい村だから、市販の地図には記されていないけどね。それで、東に二日くらい歩いた先にあるのが、イシュの街。」


リルリが地図上に引かれた街道らしき線をなぞりながら言う。

しかし、初めて見るその地図に驚きを隠せないユーリは、指の軌跡を追うことなく地図全体を凝視していた。


それはユーリの知っている世界地図とは全く異なっていた。

その地図には、見たこともない形の大陸が一つだけしか描かれていなかった。大陸の外側は一切描写されていないので、そこに海が広がっているのか、それともこの島自体が空に浮いているのかも不明だ。

仮にこの地図に描かれているのがこの世界の全てなら、この世界はユーリが転生してくる前の世界よりも圧倒的に小さいだろう。たしかに、この大きさなら『箱庭』という呼び方もぴったりかもしれない、とユーリは思う。

それと同時に、自分は本当に異世界に転生してきたのだと、ユーリは改めて実感していた。見たこともない形の大陸の上に、見慣れた日本語でイシュやガスなどの街の名前らしきものが記されているのが、何ともアンバランスだ。


「いくつか街の名前が書いてあるが、その中でも一番大きいのがイシュだ。そのイシュの街の領主が、ユーリの力を借りたいと言っている。イシュのギルドにおいても一番偉い奴だから、それはギルド全体を束ねる長でもあるんだがな。」


マスターが補足説明を入れてくれる。

基本的に各街同士の交流はないが、大規模な自然災害や危険な魔獣の情報を共有するためにギルドが存在し、互助関係にあるというのはリルリから聞いていた。


「その偉い人が、俺に何の用なんだ?」

「前の獣龍種の実績を買って、ドラゴン討伐への招集だ。イシュの近郊に出没する火竜で、すでに何人も犠牲になっているらしい。」


犠牲、という言葉が、ユーリの脳内で重く響く。

レキの村は魔獣の生息域からは外れているので、村民が襲われて怪我をすることは滅多にない。ユーリが相手にするのはイノシシや猿のような姿をした畑を荒らすタイプの害獣ばかり。先日のカバドラゴンだって、こちらから危害を加えない限りは襲ってこないので、魔獣ではなく魔物に分類される。

ただ、この村から少しでも離れれば、自らの意思で襲い掛かってくる魔獣が存在する。魔獣は魔物よりも高い知能を有し、人間に対して明確な害意を以って攻撃してくるので、ユーリのような異能持ちの転生者ならともかく、普通の人間が襲われたら、命を落としかねない。

ドラゴンが生息していたり、魔法が存在するからと言って、この異世界はRPGゲームの世界なんかではない。もちろん、リルリや他の村人だってNPCなんかではない。

この世界は確かに存在していて、誰もが普通に、そして懸命に生きている。人間が生きているのだから、怪我をするし、死ぬことだってある。この世界で誰かの死に触れたことのないユーリは、そんな当たり前の事に初めて思い至ったのだった。


「火竜が相手なら、いくらユーリでも分が悪い。断ったって、いいんでないか。」


マスターの説明の間も神妙な表情を一切崩すことがなかったカエラが、唐突に口を開く。


「火竜の強さは、前に現れた獣龍種の比ではない。古来より生き永らえている火竜は生態系の頂点どころか、ほとんど神のような存在だと言われておる。仮にイシュで暴れておるのが『元素龍』なら、討伐がハコニワの崩壊にもつながりかねん。」


『元素龍』、という呼称が出た途端に、マスターもリルリも表情が曇る。


「『元素龍』は、地水火風、そして光と闇、この世界を構成する全ての物質を司る龍のこと。その強大な力は世界全体を覆っていて、それが損なわれたり、バランスが崩れてしまった場合は、世界の理そのものが変わってしまう可能性があるの。例えばそれが火の元素龍なら、この世界から火という概念が消え去る可能性も、ゼロじゃない。」


リルリの補足説明を聞いたユーリは、あまりのスケールの大きさに言葉を失う。

元素を司る龍なんて、それこそRPGのラスボスみたいだ。

ただ、この世界では実際に火竜によって人の命が失われている。決してゲームなんかではない、現実的な脅威だ。


「レキの村は、自然の摂理をあるがままに受け入れてきた。大地の恵みに生かされ、川の流れに渇きを癒す。太陽の導きに沿って目覚め、月の光と共に眠る。イシュを襲う火竜も、それと全く同じさね。」


カエラは目を閉じて、祝詞を読むように呟く。それはきっと、レキの村にずっと息づく、信仰に近い概念。


「摂理だからって、人が犠牲になっている現状を受け入れろ、とでも?」


その発言に一番驚いたのは、ユーリ自身だった。

自らの口からほとんど反射で出てきたその言葉は、記憶の奥底にある何かと反応し、爆ぜる。


『弱ければ、虐げられる。それが、摂理なんだ。』


ユーリ自身にも触れられない記憶の最奥で、誰かが唇を歪めて嗤った気がした。

その刹那、ユーリは何かを思い出しかける。

大切なものを、守れなかったこと。

取り返しのつかない絶望と、強烈な殺意。そして、血に染まる両手。

心拍数が急激に上がる。強すぎる負の感情に、目の前がチカチカする。それでも、ユーリはなんとかそれに抗う。


「もし、火竜の犠牲になるのがリルリだったら、それでも仕方ないって受け入れられるのか?」


カエラが、その表情を歪める。

ユーリはカエラの言葉ではなく、記憶の水底で嗤う何かに抗いたかった。

摂理だから、そんな理由でか弱い生き物が傷つけられるのを、許してはいけない。何も思い出せないままに、そう強く思った。

そうだ。大切なものを守ることができないなんて、もうごめんだ。


「リルリだけじゃない。」


絞り出すように、カエラが言う。

その声はリルリですら初めて聞く悲痛な声で、にわかに棘を帯びつつあった空気が一気に静まり返る。


「ユーリ、お前もじゃ。私は、いや、この村の全員が、お前にも死んでほしくないんじゃ。だからこそ、断ってもええんでないかと言っておる。」


そこまで言われてしまうと、ユーリには何も言えなかった。

リルリも、マスターも、誰もがそれ以上に語る言葉を持たなかった。





「一旦、時間を置かねえか。」


口を開いたのは、マスターだった。


「イシュのギルドは、要請を受諾する場合は二週間以内にイシュの街のギルドでクエスト受注するようにと言ってる。だから、まだ考える時間ならある。ユーリがしっかり考えて出した結論なら、誰も文句は言わない。そうだろう、婆さん。」


カエラは小さく鼻を鳴らしただけで、何も言わない。それでも、さっきの悲痛な叫びでその気持ちは十二分に伝わっていた。


「じゃあ、とりあえずはここまでだ。ユーリ、ジンには俺から伝えておくから、今日は作業を休んでゆっくり考えろ。」

「リルリ、今日は手伝い不要じゃ。自分がすべきことをするといい。」


二人は振りかえることなく酒場を出ていき、あとにはユーリとリルリだけが残された。



「行く、でしょう?」


酒場の扉が閉まった途端に、リルリが言った。その声に導かれるようにリルリの方を見ると、その目には明確な意思の炎が灯っていた。


「どうして、そう思う?」

「それが転生者である自分にしかできないことだから、かな。」


違う?とリルリの目が尋ねてくる。ユーリも、目だけで続きを促す。


「ユーリは優しいから、自分の異能ちからで誰かを助けることができるなら、自らの危険を省みることなく向かっていくでしょ?たとえこの世界がユーリの本来生きるべき世界じゃないとしても、ユーリは助けを求める人を放っておかない、ううん、放っておけないの。実際に、この村に転生してきたユーリは、今こうして討伐依頼をこなしてくれている。ユーリがそんなことする義理なんてないのに。」


リルリはそこで一度言葉を切った。確かめるようにユーリの瞳を覗き込んだリルリの目が、自らの仮説が正しいことを確信してわずかに緩む。

実際に、リルリの分析は的確だった。

ユーリは自らの異能で誰かを救うことができるのなら、自分に降りかかる危険も厭わない覚悟だった。この世界がユーリにとって異世界でしかなくても、ここで人が生きていて、苦しんでいることには変わりがないのだから、自分にできることはなんでもやろうと思っていた。

異能を持つ自分にしか、できないことがある。

異能を持つ今の自分なら、守れるものがある。

今は思い出すこともできない、大切な何かを守れなった記憶。

何も思い出せないまま、それでもユーリは誰かを、何かを守りたかった。


「それに、イシュはこの村よりもずっと都会だから、ユーリが元の世界に戻る方法だって見つかるかもしれない。他の転生者から情報を聞くことができるかもしれないし、わたしも知らないような魔法や伝承がヒントになるかもしれない。この村でじっとしているよりは、絶対にそっちの方がいいよ。」


「前半はともかく、後半はリルリの個人的な主張じゃないか。」


反論するユーリの声は、自分で思っているよりも強いものになる。

とはいえ、リルリの言い分が正しいことは、他でもないユーリ自身が一番よくわかっていた。

この村に居続ける限り元の世界に帰れる可能性は皆無だということに、ユーリは薄々気が付いていた。

この村は、ユーリが良く知っているゲームやアニメの世界で言えば、最初の村でしかない。そこから冒険を始めなければ、いつまでも物語は先に進まないのだ。新しい街へ行き、ボスを倒し、物語は進む。物語の最終目的は、もちろん『元の世界への帰還ゲームクリア』だ。


「リルリは、どうしても俺を元の世界に帰したいらしいな。」


止めた方がいい、そうわかっていても、ユーリは自らの発言を止められない。

たとえリルリの言うことが正しかったとしても、ユーリは元の世界に帰りたいとは一切思っていなかった。

ユーリが良く知っているゲームや異世界転生の物語では、確かに主人公が元の世界に帰る為に奮闘するストーリーも多い。ただ、一方では異世界でスローライフを送ることに喜びを見出す物語も、少なからず存在するのだ。

元の世界でとてもつらい目に遭ったり、理不尽な死を迎えた主人公が、あえて最初の村から出ることなくそこでの生活を満喫する物語。そういう物語があってもいいはずだ。ラスボスを倒さなくたって、最初の村で幸せになったって、いいじゃないか。

でも、リルリはいつだってそうはさせてくれない。リルリから元の世界の話を切り出される度に、ユーリは密かに居心地の悪さを感じていたのだった。


「ううん。わたしの気持ちだけ言えば、この村でずっと一緒に居たいと思ってる。でも、ユーリは強いから、優しいから、きっと火竜のことを放ってはおけない。ううん、放っておいてはいけないんじゃないかな。」


唐突に、リルリがユーリの手首を握る。その目はユーリの発言に潜んでいた棘にひるむことなく、ユーリの目を見ていた。


「それに、ユーリはこの世界の人間じゃない。悲しいけど、それは事実だから。それなら、元の世界に帰る方法を見つけて、過去の記憶とも向き合って、それでもこっちの世界で生きていくって選ばないと駄目だと思う。自分の過去から、自分の世界から、逃げちゃ駄目だよ。」


その瞳も、言葉も、まっすぐだった。そして、その瞳の奥はわずかに陰っていて、それがリルリの気持ちを全てを物語っていた。


「リルリは、厳しいな。」


ユーリは肩を竦めて降参の意を示す。

リルリの言っていることは全部正しくて、しかもそれらは全てユーリのことを想って口にしてくれていることなのだから、もはやユーリに言えることは何もなかった。


ユーリは、元の世界のことを何も覚えていない。

やり残したことがあったかもしれないし、帰りを待っている人が居たかもしれない。

それに、さっき唐突に思い浮かんだ、何かを守れなかった記憶。血に染まった両手。

自分は、何を守りたかったのだろう。

そして、何を守れなかったのだろう。

どうして命を落としたのだろう。

転生前の世界で、いったい何があったのだろう。


それらを思い出すことなく異世界でのスローライフを選択するのは、リルリの言う通り元の世界から逃げているだけだ。

この世界で生きていくことを、リルリと共に生きていくことを、自らの意思で選ばなければ、意味がない。


「そうかも、しれないね。でも、もう火竜の話を聞いちゃったから、止まれないでしょう?」


リルリは弱々しく微笑む。その目尻に隠し切れなかったわずかな悲しみの色を見て、ユーリの心は揺れる。


『この村でずっと一緒に居たい』


それはきっと、まぎれもないリルリの本心だった。

そして、自らの提案が二人の別離を決定づけるものだとしても、リルリはユーリの為に言葉を紡いでいたのだった。リルリのその悲しい瞳からそれらを読み取ったユーリは、腹をくくるしかない。


「そうだな。リルリの言う通り、火竜の話を聞いてしまった以上、助けを求められた以上、断ることなんてできないよな。」


全部わかっているからこそ、ユーリは努めて明るい声で返事をした。

正直、世界も火竜もどうでもよくて、今この瞬間に、リルリを悲しませたくなかっただけかもしれない。


「リルリは」

「どうする?なんて聞かないでよ?」


その言葉で、ユーリの迷いは晴れる。聞くまでもなく、リルリの答えなんて最初から分かり切っていた。それでも言葉にしなければならないと、ユーリは思う。


「リルリ。一緒に来てほしい。」

「もちろん。置いていくって言われたら、張り倒すところだったわ。」

 

ようやくユーリの手首を離したリルリが、右の握りこぶしを差し出す。ユーリもそれに応じ、右こぶしをぶつける。


「よろしくね。相棒。」

「おう。」


満足げに笑ったリルリの目尻からは悲しみの色がなくなっていて、ユーリはひとまず胸をなでおろした。




誰にもバレないよう、出発は夜にしようと提案したのはユーリで、それを否定したのがリルリだった。


「夜はだめだよ。視界が悪いし、魔獣が活性化するから。でも、村のみんなにバレないようにってのは賛成。だから、明日の夜明け前に。」 


酒場の前で短い会話を交わして、その場は別れた。

ほとんど物がない自室の整理を終えた後、ユーリは部屋の中で鍛錬をして時間を過ごした。夜になってもリルリは訪ねてこなかったので、蓄えてあった保存食で腹を満たしてから早々に眠った。気持ちは昂っているはずなのに、眠りは深かった。


そして翌朝、リルリが静かにノックする頃には、ユーリはすでに準備を整えて待っていた。ノックに応じて内側から開かれた扉を前にして、リルリは驚きの表情を浮かべている。


「いつもは寝坊助のくせに。」


「そりゃ、こういう時くらいは、な。」


「遠足を楽しみにし過ぎて眠れない小学生みたいね。」

 

いつものポーチとは別に大きな布かばんを背負ったリルリと一緒に、村の出口へと向かう。

かすかに東の空が明るみ始めているものの、明かりが漏れている家は皆無だ。リルリは心なしか緊張した顔をしていて、ユーリも今一度気を引き締めなおす。


村の入り口、害獣を防ぐためのゲートに差し掛かったその時、ゲートの陰から何かが飛び出した。気を入れなおしたばかりのユーリは、咄嗟に太刀に手をかけながらリルリの半歩前に出る。視界の外で、リルリも身構えるのが気配で分かった。


「おいおい。本当にそんな太刀で行くつもりか。すぐに折るくせに。」

 

筋骨隆々の大きな人影が、一歩前に歩み寄る。

ようやく見えるようになったその顔は、酒場のマスターだった。その声を合図に、背後からわらわらと人影が出てくる。ジンと農夫仲間、他にも、村の住人ほぼ全員が集まっていた。


「ほら。」


マスターが掛け声とともに放ったそれを、ユーリは何とか受け取る。それは一振りの太刀だった。長さはいつもと同じだが、少しだけ重い。


「お前が前に倒した獣龍種の牙、あれを鋼鉄に溶かして打った刀だ。強度は今までと桁違いだが、少し重い。まぁ、お前なら問題なく扱えるだろう。」


鞘から抜き、刀身に目を走らせる。薄闇の中でも鈍く光る刃に、美しい刃紋。手に吸い付くようなその感触が、この刀がいかに優れたものであるかを物語っていた。


「いい刀だろう。べらぼうに金がかかってるからな。代金を払う為に、必ず帰ってこい。」


ユーリはしっかりと頷いて見せてから、もらった太刀を腰に据える。その間、リルリは集まった村人達と別れを惜しんでいた。新鮮な肉を挟んだサンドイッチ、各家庭に蓄えてあった保存食、ユーリが初めて見る硬貨らしきものまで、リルリの両手は餞別の品で一杯になっている。


「あたしに黙っていこうとするなんて、いい度胸だね。」


人だかりを裂くように、カエラが歩み出る。その場に居る誰もが自然と口をつぐみ、カエラの言葉を静かに待った。そうさせて余りあるほどの威厳が、カエラにはあった。


「言っても聞かないだろうから、ひとつだけ。二人とも、必ずここに帰っておいで。」


リルリとカエラが、抱擁し合う。子供のように泣きじゃくるリルリの背を、カエラの手が優しく撫でる。


「おい、お前もだ。」


リルリとの熱い抱擁を解いたカエラが、ユーリを見て言う。異議を唱える間もなく、マスターに強く背を押されたユーリはカエラに抱きとめられる。


「リルリを、頼んだよ。」


静かな、それでいて強い声が、耳元で囁く。


「もちろん。必ず守るよ。ばあちゃん。」


そう返したユーリの声も、芯が通っていた。

言葉を返す代わりに、カエラがユーリの背中を強く叩く。カエラからはなんだか懐かしい匂いがして、ユーリはなぜか泣きそうになる。


「さあ、そろそろ行きな。獣まで目を覚ましちまうよ。」


口々に激励の言葉を投げかけてくる村人達に手を振って、ユーリとリルリはゲートを抜ける。


いつまでも手を振り続けてくれる大切な故郷を何度も振り返りながら、二人は朝焼けに燃える平野へと歩を進めた。

いつの間にかリルリの手はユーリの手首を握っている。それは縋るようでもあり、力強く先導するようでもあった。


「絶対に、はなさないから。わたしが、あなたを守るから。」


それでもなお決意を表明するようにつぶやいたリルリの手の熱を、ユーリはしっかりと噛み締めていた。


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