転生者の箱庭

真嵜 政利

Ⅰ レキの村


目の前に迫ってくる、見るからに凶暴な牙。

触れるもの全てを容易く切り裂くであろうそれは、対峙する者に凄惨な死を連想させた。

加えて、そんな牙ががびっしりと生えそろった口は人間を丸呑みにするには十分過ぎる大きさで、その口に捕えられれば、牙に裂かれるまでもなく口内で全身の骨を砕かれることになるだろう。


「捕えられれば、の話だけど。」


ユーリは相手を見据えたまま、後ろへと飛ぶ。正確に言えば、見据えているのは相手の口内。対象から目を離さないまま、迫りくる牙の向こう側をギリギリまで観察する。

跳躍の推進力が失われ、足が着地する寸前、ユーリは太刀を地面へ突き刺し、それを足蹴にして左側へと身を翻す。

殺意を持って閉じられた口は、一瞬前までユーリの体があった空間を咀嚼していた。地面に置き去りにした太刀が、キャンディみたいにぼりぼりと嚙み砕かれる。


対象と距離を置いたユーリは、改めて相手を観察する。

大きさは、ちょうどカバくらいだろうか。

体に対して非常に大きい口も、ずんぐりとした胴体も、短いながらも逞しい四本の足も、その全てがカバを彷彿とさせる。

ただ、その体表は触れるもの全てを容赦なく切り裂く白銀の鱗にびっしりと覆われているので、見た目はユーリの世界のカバとは大きく異なっていた。

さらに、鋼鉄製の太刀を簡単に噛み砕くその咬合力はユーリの知っているカバよりも圧倒的に凶悪で、一度その口に捕えられれば、あらゆる生物が為す術なくその命を飲み込まれるだろう。

ライオンよりも凶暴と言われるカバ。そのカバより獰猛なこの生物は、ユーリの世界で例えるなら…。


「どう見ても、ドラゴン、だよなぁ。」


太刀を咀嚼し終えたその生き物は、小さくげっぷをする。

その拍子に口から洩れたガスが、口外に出た瞬間に発火した。

この世界では体内で可燃性のガスを生成する生物は珍しくないとはいえ、あの大きな口から炎を吐き出す様は、どうみてもドラゴンにしか見えない。

よし、あいつはカバドラゴンと名付けよう。

ユーリは心の中で勝手に命名する。


カバドラゴンが、口から黒煙をくすぶらせながらユーリの姿を両目で捉える。

顔の正面に二つ並んだ目は、獲物との距離感を正確に測るためのもの。それは狩りをする生き物の証だ。唯一の武器であった太刀はさっき噛み砕かれたので、さっきと同じ手は使えない。


「避けるつもりもないから、関係ないけど、な!」


カバドラゴンが地面を蹴った次の瞬間には、ユーリの身長よりも大きく開かれた口が眼前にまで迫っていた。

しかし、その口が閉まる速度よりも遥かに速く、ユーリのブーツの爪先はカバドラゴンの口内の上部へ突き刺さっていた。そして、その口は閉じられることなく、カバドラゴンは地面へと臥した。


「まったく。ユーリ、いつもスリルを楽しんでない?」


カバドラゴンが完全に沈黙したのを確認してから、少女は生い茂る草むらから顔を出した。

金髪、と呼ぶには色素が薄い長髪を後頭部で団子状に束ね、短すぎるショートパンツからは健康的な肉付きの生脚が伸びている。整った顔はどこか幼さを感じさせながらも、左目の下にある泣き黒子が妙な色気も漂わせていた。しかし、今は頬を膨らませているのでその色気も台無しだ。


「断じて、そんなことはない。全部必要な手順だよ、リルリ。」


「食べられちゃった剣も、ぶつぶつうるさい独り言も?」


リルリと呼ばれた少女が、膝に付いた枯草を払いながら横たわるカバドラゴンに近づいていく。

歩く度にふゆんふゆん揺れるその豊かな胸部には何故か大きなバッタが載っていて、指摘するべきか、一瞬だけユーリは迷う。

ただ、その迷いは一瞬だ。いくらユーリでも、獰猛なカバドラゴンよりも恐ろしい獣を相手にするのは避けたい。というか、あんな場所に載っているのに、なんで気付かないんだ。


「口の大きさと脳の位置を正確に測るために、一度は口内を間近で見ておく必要があった。だからあの太刀は必要な犠牲だ。独り言に関しては、思考を言葉にすることによって整理しているだけ。戦闘において重要なのは、正確な見立てと、冷静さだからな。」


「ああはいはいそーですね。そんなに強いんだったら、さっさと終わらせたらいいのに。毎回ドキドキさせられるこっちの身にもなってよね。」


口調こそ刺々しいものの、リルリはユーリの一挙手一投足について、全てを理解していた。

さっきの魔物は、とても鱗が硬い種族だ。

ユーリの異能スキルで強化された右足でも、その鱗を貫通してダメージを与えることは難しいだろう。

だからこそ、ユーリは鱗に覆われていない口内を狙った。

しかも、ユーリが蹴り上げたのはカバドラゴンの脳の直下。蹴り上げる箇所があと数センチずれていたら、あのドラゴンは動きを止めることなくユーリの体を噛み砕いていただろう。その弱点部位を見極める為にも、ユーリにはドラゴンの口内を間近で観察する必要があったのだ。


カバドラゴンと対峙してから一分にも満たない応酬の間に、ユーリはそれだけのことを考えて、完璧に遂行した。

リルリはユーリのその判断が最善であることも、ユーリがそれを無傷で遂行できることも、一切疑っていない。それでも、万が一にでもユーリが傷つくことを考えると、どうしても小言が口をついて出る。


「心配かけて悪かったよ。でも、何かあってもリルリと一緒なら大丈夫だろ。」


討伐の証に、ユーリは気を失っているカバドラゴンの牙を一本抜く。

ドラゴン属はこの程度では死なないので、生態系への影響はない。それでいて、ユーリに正面から向かっていって倒された記憶はトラウマになり、人里から離れていくだろう。殺さずに目的を達成できるのなら、それに越したことはない。

カバドラゴンを殺めること前提にしていれば、ユーリならもっと簡単かつ安全に終わらせることだってできたはずだ。その上でユーリがあえて殺さない方法を選んだことも、リルリにはわかっていた。


「し、心配なんてしてないっ!あんたが怪我したら、回復するのが面倒だって思ってるだけ!っていうか、あんなのに噛まれたら回復魔法じゃなくて蘇生魔法じゃない!そんなのわたし使えないからね!」


いつまでも胸部とともにゆっさゆっさと揺れ続けるバッタから目を背けているユーリは、リルリの耳が真っ赤になっていることに気付かない。


「ああ、今日も働いたなぁ。」


指を組んだ手のひらを頭上に掲げ、ユーリは大きく伸びをした。深く吸い込んだ空気は澄んでいて、排気ガスに満たされた空気を吸っていたのがとても遠い過去のように感じられる。


「何してんの?早く帰るよ!」


まだぷりぷりと怒っているリルリの機嫌を損ねないために、ユーリは走り出した。




レキの村に帰ると、村の入り口の前に立ちふさがる人影があった。

またか、とユーリがうんざりしているのに対して、隣のリルリの横顔からはわずかな緊張が感じられる。


「ふん。帰ったかい。」

レキの村の村長であるカエラが、不信感に溢れた目を不躾に向けてくる。ただ、ユーリを見たのはほんの一瞬だけで、孫娘であるリルリの体を上から下まで、舐めるように観察する。


「今日も、無事みたいだね。リルリ、気をつけな。男ってのは、ドラゴンよりも恐ろしいケダモノなんだからね。」


さりげなく胸元のバッタを手で払いながら、カエラはユーリを睨みつける。


「いつも言ってるけど、俺は何もしないですって。俺がリルリにそんな感情を抱くと思いますか?」


「小僧!うちの孫娘に魅力がないとでも言いたいのかい!この村で散々助けてもらっておきながら、なんて奴だい!」


「おばあちゃん!もういいから!ほら、ユーリ、いこっ」


リルリに手を引かれて、唾を飛ばして怒り狂うカエラの脇を小走りに抜けていく。小さな手に見合わず、その力はとても強い。


「小僧!」


カエラが叫んでも、リルリは足を止めない。ほとんど後ろ手に引きずられながら、ユーリは視線だけをカエラに向ける。


「怪我、ないね?」


こちらを見ることなく言葉を投げかけてくるカエラに、ユーリは笑顔で手を振った。


「おばあちゃん、いい加減飽きないのかなぁ。」


「孫娘が心配なんだろ。俺がリルリのことをそんな目で見るはずないのにな」


問いかけには応えることなくユーリの脇腹を貫いたリルリの拳が、今日ユーリが負った唯一のダメージだった。



「おう、お二人さん、おかえり。その様子だと今日も無傷…ではなさそうだな。」


村で唯一の娯楽の場であり、他国ギルドとの窓口でもある酒場のマスターが、脇腹を押さて呻くユーリを見て苦笑いする。

豊かな髭を蓄えた彼の腕は丸太のように太く、その体なら大抵の魔物には引けを取らないだろう。それでも、彼は矢面に立たない酒場のマスターを選んだ。その背景には、ユーリのような『転生者』の存在が大きい。


「男はドラゴンよりも恐ろしい、ってばあさんは言うけど、俺はドラゴンよりも女が恐ろしいよ。」


ユーリが言い終えるのと、バーカウンター型の机の下でリルリがユーリの爪先をぎりぎりと踏みしめるのが同時だった。


「今何かすごい音が」

「いいえ。なんでも。」

 

マスターの言葉を遮ったリルリの顔には有無を言わせない笑顔が張り付いていて、ユーリもマスターもそれ以上何も言えなくなる。


やっぱり、いつまでも女というものには敵わないな、と、ユーリは思う。

ドラゴンよりも行動が読めないし、いくら観察しても弱点は見抜けない。

攻撃手段だって物理攻撃から精神攻撃、社会的立場を利用したものや色仕掛けまで、ドラゴンよりも多彩だ。

基本的には群れて行動するのに、唐突に群れの中で特定の個体を仲間外れにしたり、さっきまで笑っていたのに急に泣き出したり、何を考えているのかわからない。

とにかく、ユーリは女という不合理で不可解な存在が苦手だった。


ん?


ユーリの思考は停止する。

この村でユーリと年齢が近い女性は、リルリだけだ。

もちろんそれ以外にも女性は居るけれど、誰もがリルリより年上で、リルリのことをかわいい妹のように扱っている。

じゃあ、今考えていた『群れの中で特定の個体を仲間外れにしたりする現象』を、どこで見たのだろう。


「ちょっと、ユーリ!聞いてるの?」


リルリの声で、現実に引き戻される。


「もしかして、また『前』の?」


ユーリは小さく頷く。動悸が激しすぎて、息ができない。リルリを心配させたくな いのに、回答を取り繕う余裕がない。


「マスター、わたし、カクテルが飲みたい。甘いやつ。ユーリも同じので。」


マスターがユーリの異変に気付く前に、リルリが鋭く告げる。

マスターが飲み物を作るために離れたのと、カウンターの下でリルリの指がユーリの手首を摑まえるのがほとんど同時だった。


「大丈夫。今はわたしが居るから。だいじょうぶ。だいじょうぶだから。」


縋るように、ユーリはリルリの手を握る。

リルリの手はいつでも冷たくて、指を絡めるとひんやりと気持ちが良かった。

その冷たい指に自分の手の温度が移っていくのを感じている間に、動悸は落ち着いていく。自分の手のひらよりも一回り小さいその手を、強く握る。


マスターがカクテルを作り終えて戻ってくる頃には、ユーリの心拍数は平常に戻っていた。


「ほら、ちゃんと飲んで。落ち着くから。」


カクテルを手渡してくれたリルリは、未だに心配そうな目でユーリを見ている。

ここに来る前に居た世界の法律では、ユーリはまだアルコールを口にしてはいけない年齢なのに。

もちろん、そんなことを言える空気ではないので、仕方なく口をつける。

口に含んだその液体は顎が痺れるほど甘く、砂糖やミルクとはまた違った、何とも言えない風味がした。これがこの世界のアルコールの味なのだろうか。

 

「で、成果は?」


木のカウンターに肘をついたマスターの前に、ユーリがカバドラゴンの牙を置く。


「ほう、獣龍種か。かなり大きいな。死体は?」


「殺ってない。正面から打ち負かしたから、もう人里に降りてくることもないだろう。」

 

マスターは目をすがめて、グラスに口をつけるユーリを見る。隣のリルリはなぜか得意げだ。


「相変わらず甘い野郎だ。死体が丸ごとあれば、武器も鎧もいくらでも作れるのに。まぁ、ギルドにはこの牙だけで報告しておくよ。」


もちろん、マスターにもカバドラゴンを殺さずに退けることの意味と、その難しさはわかっているので、ユーリに見せた落胆はあくまでポーズに過ぎない。

ギルドは死体を提出した方が高評価を下すだろうが、それは現場に出たことのない人間の評価だ。実務経験を経たギルドの上役なら、牙だけを提出したことの意味を理解してくれるだろう。

そして、このマスターなら牙の価値がわかる人間に成果報告をしてくれるはずだと、ユーリもリルリもわかっていた。


「マスター、確実に上層に届くよう報告を頼むわよ。ユーリの異能のことも、しっかり盛り込んでね!」


ユーリの売り込みを忘れないリルリの隣で、ユーリはぼんやりと酒場内に視線を巡らせる。

天井も床も、カウンターも棚も全てが木製で、コンクリートや鉄骨など、近代建築に用いられるような素材は一切見当たらない。

照明も電気ではなく松明なので、店内はいつでも薄暗く、炎が揺らめく度に視界まで揺らぐような錯覚を覚える。それでも、アルコールに揺蕩う意識の中で揺れる炎を眺めていると、不思議と心が落ち着いた。


突然、酒場のドアが勢い良く開いて、たくさんの人の話し声が聞こえてくる。今日一日の仕事を終えた農夫達だろう。

マスターやリルリと威勢よくやり取りするのを聞きながらも、アルコールに揺れるユーリはその目を開くことができない。酒場のカクテルを飲んでしまうと、いつもこうだった。


「え、ちょっとユーリ、寝ちゃったの?もう、お酒弱すぎない?」


リルリに体をゆすられる。大丈夫だと示す為に上げた左腕は、中空に保持することができずにすぐに下がってくる。


「ったく。家まで運ぶか?」


「ううん。マスターは今からが忙しいでしょ?わたし一人で大丈夫だから。」


いくつかの会話の応酬の後、ユーリの体は椅子から浮いた。

誰かに肩を担がれているのだろう。すぐ耳元で聞こえる、よい、っしょっと、の掛け声と、右手の先にある、とてつもなく柔らかい何か。

ああ、自分で立って歩かないと…。

そう思ってはいても、意識はすぐに途切れた。




ユーリが目を覚ますと、そこはすっかり慣れ親しんでしまった自室のベッドの上だった。

枕元にはスマートフォンなんてないし、大きなモニターが二つ併設されたゲーミングPCも、壁一面を覆いつくす漫画や小説もない。

あるのは木製の簡素なベッドと、その脇に置かれた木製の棚だけだ。棚の上には、リルリが摘んできた花が活けてある。


体を起こした瞬間に、頭の芯に鈍い痛みを感じる。

酒を飲まされた翌日は、いつもこうだ。

そして、その痛みに伴って、昨日の記憶がうっすらと甦ってくる。


カバドラゴンを倒して、酒場で飲まされて、リルリに抱えられて。右手の先にある、とても柔らかい何か。


頭の痛みも厭わず、ユーリは頭をぶんぶんと振って頭の中にある柔らかい触感を物理的に追い出すことを試みる。

下半身の一点に血液が集中しているのは、起きた直後故の生理反応でしかない。それでも、早く治めないと…


「ちょっとユーリ、いつまで寝てんの!みんなもうとっくに働いて、」


ノックもなしに、ほとんど蹴破られるように開かれたドアの向こうに、リルリが立っていた。その視線がユーリの下半身に焦点を合わせた瞬間に、リルリの言葉は停止する。

息をのむ音、紅潮していく頬、閉じられる目と、咆哮の為に開かれる口。

凝縮されたわずかな時間の中で、ユーリはそれらを冷静に眺めていた。


「いやああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」


耳を劈く絶叫。それでも、村人達が動じる様子はない。レキの村にとって、ほとんど朝の恒例行事みたいなものだから。

ただ一人、長老でありリルリの祖母でもあるカエラだけが、疾風迅雷のごとき速度で悲鳴の下へと駆けつける。有無を言わず顔前に迫る長老の杖の持ち手を眺めながら、ユーリはいつもと変わらない一日始まりを感じていた。

その思考は、杖の持ち手が額に直撃した衝撃で閉ざされる。



「だから、ごめんってば。」

「あのな、これで何回目だ?」


リルリは口笛を吹きながらユーリから目線を逸らす。こういう時のとぼけ方は、万国共通なのだろうか。


「だって、あんなことになってるなんて思わないじゃない。その、あれが。」


リルリが、わずかに頬を赤らめる。


「何を考えているのかは知らないけど、あれは生理現象なんだ。男にとって、あれは寒い場所で体が勝手に震えるのとか、暑い場所で汗が噴き出てくるのと同じ。」


ユーリは、自らの名誉の為に熱弁する。


「本当に?やましいこと、一切考えてなかった?」


今度はユーリが視線を逸らす番だった。

じっとりした視線を送ってくるリルリの胸部は今日も豊かに揺れていて、目のやり場に困る。と言いながらも、隙あらばついつい見てしまう自分が情けない。男ならある程度は仕方ないだろう、と、ユーリは胸の内で自らに言い訳する。


「そうだよね。ユーリも、男の子だもんね。」


納得してくれたのか、それとも盛大な勘違いをされたままなのかわからない返事を聞き流しながら、ユーリは村の様子を一瞥する。

農具を担いで畑に向かう者、川まで洗濯に行く者、家畜の餌を運ぶ者。何も変わらない、いつもの朝の光景。もちろん、こうして並んで歩くユーリとリルリだって、その光景の一部となっていた。

始業時間も、タイムカードもないので、急いでいる者は皆無だ。誰もが穏やかな顔で、あるいは微笑みをたたえて他者に挨拶をしながら、各々の働く場所へと向かっていく。


レキの村は、ユーリがこれまで生きてきた世界と比べると文明レベルが極端に低いと言わざるを得ない。

生活は基本的に農耕と狩猟採集によって成り立っている自給自足で、電気もガスも水道も通っていない。

明かりや調理は全て炎に頼っていて、飲み水は井戸水。洗濯は主に川で行う。狩猟に使用される武器は主に刃物と弓で、火薬や電化製品は影も形もない。

幸いなことに、一年中気候は温暖で作物を作るのに適しているし、長い歴史のなかで風水害に襲われたこともないらしいので、人々の暮らしは穏やかだ。

朝陽とともに目覚め、日中は田畑を耕し、その日ぐらしに必要な獲物を狩り、日が暮れたら酒場で一杯ひっかける。

毎日変わらない、それでいて誰も不満を言わない、緩やかな時間が流れていく。

総人口は三十人程度しか居ないので、住民は全員が家族のようなものだ。


レキの村での暮らしを、ユーリは気に入っていた。

スマートフォン、ゲーム機、漫画、アニメ、元の世界で生きていく上で必須だったものは何一つなかったけれど、それでも何の問題もなかった。

朝に弱いユーリは他の村人より少しだけ遅めに起きて、リルリとともに朝食をとり、農作業や洗濯、狩りを手伝う。ギルドからの依頼が入っている場合は魔物の討伐も行うけれど、それもかなり稀な話だ。

日が暮れたらリルリの作ってくれた食事をとって、体が鈍らないように少しだけ鍛錬を行う。

全てを終えて、満天の星空の下で飲むコーヒーさえあれば、その日は良い一日だと思えた。まるで、絵に描いたようなスローライフ。


そんな風に、今日もこの村の一日は穏やかに過ぎていく。

元の世界のように、行きたくもない学校に行くことも、憂鬱な顔をした満員電車の住人に押しつぶされることも、周囲の顔色を窺いながら集団行動を強いられることもない。

時間に追われることのない生活の中では、誰かを押しのける必要も、何かを取り合ったりする必要もない。誰もが笑顔で、協力的で、のびのびと生きていける。


この世界での生活を通して、ユーリはこれまでの自分がいかに追い詰められ、何かを強いられていたのかを痛感した。

あの世界では、学校で、あるいは会社で、誰もが何かに追われ、何かと戦っていた。他者を傷つけ、蹴落とし、活き活きとしている人間も居れば、死んだ顔をしている人間も居た。この村の住人のように穏やかな顔をしている人はほとんど居ないということがどれだけ異常なことか、ユーリはこの世界に来てから知った。


「今日は、お肉入りだよ。昨日、タクトさんが仕留めてきたんだって。」


いつもと同じ、村のはずれの森の入り口にある大きな石の上で、リルリが持っていた包みを広げる。

干されていない肉が挟まったサンドイッチと、茹でた野菜。竹のような植物で作られた水筒からは、湯気が立つコーヒーが注がれる。コーヒーの香りが鼻に届いた瞬間に、忘れていた空腹を思い出した。


「いただきます。」

「はい。どうぞ。」


小さく手を合わせてから、二人同時にサンドイッチを頬張る。

新鮮な肉というだけで有難いのに、それがリルリの手によって調理されたとなると、もう格別だ。今朝扉を蹴破ったのと、こんなに繊細な味付けの料理を作る人間が、同一人物だとは到底思えない。


「おいしいでしょ?」


口いっぱいにサンドイッチを頬張っているユーリは、声を出せない代わりに何度も頷く。得意げに微笑みながら、リルリはコーヒーのお代わりを注いでくれる。

あたたかい太陽の光、少し湿った森の匂い、湯気の立つコーヒー、貴重な肉、食事を共にしてくれる人。それら全てが、朝食をよりおいしく感じさせてくれる気がした。

自分以外誰も居ない家で、菓子パンを事務的に胃袋に詰め込んでいたかつての朝食を思い出して、苦笑する。


「何がおかしいのよ。」


怪訝な目で見つめるリルリに、ユーリは考えていたことを説明する。食事を共にしてくれる人、については、気恥ずかしくて言えなかった。


「朝ごはんは一日のエネルギーの源なのに、菓子パンなんて論外よ。いい?わたしが居る限りは、そんな食事絶対に許さないんだから。」


鼻息を荒くして詰め寄ってくるリルリの口にはサンドイッチのソースがついていて、ユーリは思わず笑ってしまう。

だいたい、ユーリが元に居た世界よりもずいぶん文明が後退しているこの世界では、菓子パンという概念自体が存在しないので、口にすることなんて不可能なのに。

あの頃は毎日のように口にしていた菓子パンだけど、実はそんなに好きでもなかったことに気が付いたのは、この世界でリルリが作ってくれた食事を口にするようになってからだ。


「こうしてちゃんと朝ご飯を食べて、日が落ちるまでは村の為に、自分の為に働く。今食べたお肉だって誰かの働きがあってこそのものだし、生き物の命をいただいているのだから、ちゃんと生きないとね。」


促されるままに、リルリと一緒に手を合わせて、ご馳走様でした、と唱和する。

その言葉の本当の重みを感じられるようになったのも、この世界に来てからだ。

豚も牛も鶏も、当然どんな生き物か知っているし、どのように加工されているのか大体想像はついていたけれど、本当の意味で馴染みがあるのはスーパーマーケットに並んでいるパッキングされた生肉でしかない。そんな元の世界の生活の中では、ご馳走様でしたと言うことすら忘れていた。単純に、言う相手が居ない食卓が多かったせいかもしれないけれど。


「ユーリ、今日は何するの?」


食事を終えた後の時間を惜しむようにコーヒーを飲みながら、リルリが尋ねる。


「今日は討伐の依頼がなかったんだろ?」


唇を尖らせたリルリは、不服そうに頷く。

ギルドから届く討伐の依頼は、朝一番に酒場のマスターの元へと届けられる。その依頼を確認してからユーリを起こしに来るのが、リルリの日課だった。


「じゃあ、農作業でも手伝うかな。今は開墾で忙しいだろうし。」


「討伐がないのに、やけに嬉しそうね。」

 

リルリが、今日何度目かのじっとりした視線を向けてくる。


「そりゃ、討伐なんてない方が良いだろう。危ないし、しんどいし。」


「でも、討伐やって名を売らなきゃ、この村から出られないんだよ!せっかくユーリには異能があるのに、もったいないよ!都会にさえ行けば、元の世界に帰る方法だって、」


反論の勢いに任せて、リルリが立ち上がる。


「リルリ。」

「あ…。えっと…、ごめん。」


ユーリは、そんなリルリを一言で諫める。

ユーリが元の世界に戻るという話になる度に、リルリはなぜか熱くなった。

そして、この世界での生活が気に入っているユーリは、その度に複雑な気持ちになる。

場合によっては、前の世界での記憶がフラッシュバックして、昨日の酒場のように取り乱してしまうこともあったので、必要に駆られない限りはその類の話をしないように約束しているのだった。約束を破るのは、大抵リルリだ。


「ねえ、ユーリ。」


返事をする前に、両肩をつかんで引き倒される。正座したリルリの太ももの上に頭を置かれると、リルリの豊かな胸に視界を遮られる。


「おばあちゃんの杖で殴られたとこ、瘤になってる。」


リルリがユーリの額に手をかざすと、リルリの手が青白く発光する。それと同時に、ユーリの額に冷気が触れた。


「どうせなら、回復魔法にしてくれよ。」


自らの鼓動の音に遮られないように気を付けると、必然的にユーリの声は大きくなった。


「いつも言ってるでしょ。回復魔法はあくまで緊急用。体が本来持っている回復力に任せるのが一番なの。」


ユーリはしばらくの間、リルリにされるがままに額を冷やされる。

本人曰く、本気を出せばドラゴンの動きを止めることもできる冷気魔法だが、今は患部を冷やすために威力を調整されていた。

他にも炎と風の魔法も扱えるリルリはレキの村でも特別な存在なので、自らの力を誇示するためにも村の外に出たいのかもしれない。

後頭部にあたる柔らかい感触から目を逸らすように、ユーリはそんなことを考えていた。


「もう大丈夫そう?」

「ん、あとちょっと。」

「もう、わがままなんだから。」


文句を言いながらも、リルリは冷気を当て続けてくれる。この時間が終わってしまえば、お互いに別々の仕事に就かなければならなくなる。二人一緒に行動ができるのは、討伐がある時だけだ。


「ねぇ、ユーリ。」

「ん」


「夜もコーヒー淹れようかな。だめ?」


自らの胸に遮られないよう、リルリが前かがみになってユーリの顔を覗き込む。


「俺は、リルリのコーヒーならいつだって飲みたい。」


いつもより近いその顔を直視できなくて、ユーリはぶっきらぼうに答える。


「わかった。じゃあ、夕食後にここで待ち合わせね。」


頭上から降り注ぐ陽光と、リルリの笑顔が眩しくて、ユーリは目を細めた。



「よう、大将。今日も朝からお盛んだったねぇ。」

「ジンさん、からかうのはよしてください。」


農作業を手伝うために畑に顔を出した途端に、村の男連中がにやにやしながらにじり寄ってくる。その先頭に立っているのが、農夫達のまとめ役であるジンだった。


「いいなぁ。リルリちゃんの、あんな大きいアレを、ああして、こうして、」

「ジンさん、蹴りますよ?」

「ちょっとまて、お前、右足はシャレになんないって」

 

畑を取り仕切るジンが慌てふためく様子を見て、農夫達が笑う。

そこには上下関係からくる緊張感や、仕事の出来によって生じる優越も劣等もない、額面通りにあたたかい関係があった。


「なあ、ユーリ。ちょっとこっち手伝ってくんねぇか。俺らじゃどうしようもない岩があってよ。こいつのせいで開墾が進まんのだわ。」


声の方向に目を向けると、畑を開墾している場所に大岩が陣取っていた。確かに、これを取り除くには大型の重機が必要だろう。もちろん、このレキの村にそんな気の利いたものはない。


「わかった。ちょっと離れてて。」


右足に履いているブーツの踵を確認してから、ユーリは宙へと跳ぶ。

右足で思いきり跳躍したので、その高さは十メートルを優に超える。下に控えている農夫達が、感嘆の声を上げる。


「いっせーのー、」


跳躍の最高到達点にて、ユーリは空を蹴るように思いきり右足を振り下ろす。その勢いでくるくると縦に回転しながら、大岩めがけて落下していく。


「せっ!」


掛け声とともに打ち付けられた右足は、そこにあった大岩を粉々に粉砕する。

マスターが特注で作ってくれた鋼鉄製ソールのブーツと、落下する際の重力と遠心力、そして異能で超強化されたユーリの右足の脚力が全て合わさり、それを可能にした。農夫達が、歓声を上げる。


「いつ見てもすげえ。俺も、ユーリみたいな異能が良かったよ。」

「ヒロキは、俺より腕力があるじゃん。畑耕すなら腕の方が便利だって。」

 

ユーリのような、いわゆる『転生者』は定期的に現れるらしく、レキの村で農耕に従事している人間もほとんどが転生者だった。ただ、ほとんどの転生者は元の世界よりも身体能力がわずかに向上するのみで、ユーリの右足のような異能スキルは持ち合わせていない。故に、身体強化系の異能を持っているユーリは、熱烈に歓迎されたのだった。

ただ、元の世界に居た時には受けたことのない喝采に戸惑ったのは最初だけで、それにもすぐに慣れた。ユーリがこの世界にすんなり馴染めたのも、村人があたたかく迎え入れてくれたのも、きっとリルリが裏で手を回してくれたおかげだろう。


「仕事が終わったら、一杯おごらせてくれよ。」

「未成年に酒を飲ますなって。それより、せっかく岩をどけたんだから、今日中に一気に開墾してしまおうぜ。」

 

ユーリは立てかけられていた鍬を手に取って、地面に突き刺す。

通常の転生者と同じく、右足以外の基礎的な身体能力もある程度強化されていたので、転生前は肉体労働なんてしたことがないユーリでも人並み以上に働くことができていた。これも異世界転生の恩恵なのかもしれない。


共に作業をする農夫達の掛け合いを聞きながら、黙々と鍬で硬い地面を掘り返し続ける。天頂を過ぎた太陽が首筋をじりじりと焼き、額からは汗が噴き出す。

特注のブーツも、汗をしこたま吸った服も、全部土まみれになってしまっていた。

それでも、ユーリは一心不乱に鍬を振り下ろし続ける。

異能で強化されたのが腕だったら、もっと効率よく開墾ができたのかもしれない。

もっと村の役に立てたかもしれないのに。

休まず手に手を動かしながら、ユーリはそんなことを考えずにはいられない。


「おーしっ、飯にすっかぁ!」


ジンの号令を合図に、誰もが農具を放り出して歓声を上げた。

今まさに切り開いている畑のすぐそばの湧水で手を洗い、各々が昼食の包みを広げる。

ユーリの包みの中には、大きな握り飯が二つと唐揚げが入っていた。

唐揚げにできるような新鮮な肉は、レキの村では容易に手に入るものではない。

それに、この村の調理設備だと米を炊くのも揚げ物をするのもかなりの手間がかかるはずだ。

今晩会う時に、ちゃんとお礼を言おう。

そう心に誓いながら、ユーリは両手を合わせ、いただきます、と唱える。たとえ相手が傍に居なくても、そうするのが礼儀だと思ったから。


作業中も、食事中も、農夫達の会話が絶えることはない。

必要以上に声が大きく、よく笑う彼らの声を聞いていると、ユーリは不意に昔のことを、この世界に来る前のことを思い出しそうになる。

大勢の笑い声と、その輪の外に居る自分。

寂しさ?怒り?悲しみ?

輪郭はわからないながらも、あまり快くはない感情。

ユーリが元居た世界について思い出せるのはわずかな感情の残滓だけであり、それは意味を持つ像を成さないことがほとんどだった。


「おう、ユーリ。今日もまた愛妻弁当か!」


遠のきかけていた思考を引き戻したのは、背中を強く叩いたジンの平手だった。


「ってえ!ジンさん、喉に詰まったらどうするんだ!それに、愛してないし、妻でもないって。」

「ほとんど嫁さんみたいなもんだろうが!もしかして、お前、本当にまだ何もしてねぇのか?」


咄嗟に言い返したくなるけれど、ユーリは返す言葉を持たない。

それは、自らの内に迷いがあったからだ。

自分は、リルリのことを、どう思っているのか。

リルリは、自分のことをどう思ってくれているのか。

リルリがユーリに優しくしてくれるのには、そういった類の感情が含まれているのか。それとも、何もわからないままこの世界に転生してきた者に対する優しさの延長なのか。

転生者であるユーリと、この世界の住人であるリルリの間に、特別な感情が成立しうるのか。

いつかは別れが訪れるのであれば、必要以上に親しくなることでユーリ自身もリルリも傷を負うだけではないのか。


「俺はオッサンだからな。若けぇヤツの考えてることなんてわかんねぇし、お前がどこからきて、どんな過去を背負っているのかも知らねぇ。でもな、俺達はみんなお前のことが好きなんだ。お前が何を考えていようと、どんな過去を背負い込んでいようとも、お前にはここに居てほしいし、できたらここで幸せになってもらいたいんだよ。」


ぶっきらぼうに言ったジンの分厚い掌が、ユーリの手首を握った。まるで、葛藤するユーリを激励するかのように。


「さ、食い終わったら午後の作業だ!手ぇ抜くんじゃねぇぞ!」


立ち去るジンの背中に返した声は、ユーリがこれまでの人生で出したことのないような大きな声で、それを聞いたジンは振りかえってにっこり笑った。

こうして自分を受け入れてくれている人達の為に、できることは精一杯やろう。

握り飯を口に詰め込み、ユーリは足元の鍬を手に取った。




一日の仕事を終え、リルリの家で入浴と食事を済ませてから、ユーリは一度自宅に帰った。

夜にリルリと会っているのがカエラにバレると面倒なことになるので、しばらくは自室で時間を潰す。村内の家のほとんどから明かりが消え、屋外に人の気配が全くなくなったのを見計らって、ユーリは自宅を抜け出した。


遠くからこだまする獣の遠吠えを聞きながら、ユーリは星明りを頼りに朝食をとった森の入り口へと向かう。

人の姿が見えない村内はひっそりと静まりかえっているけれど、その家々の中には確かに人の気配が感じられる。

こうして夜中にこっそり出歩くことに罪悪感を覚えるのは、異世界でも元の世界でも同じだった。もちろん、その一方で心が浮足立つのも同じだ。


いつもの場所にリルリはまだ来ていなかったので、ユーリは腰に差している太刀の柄に手をかける。狩猟用の両刃の剣を、マスターに無理を言って片刃に作り替えてもらったものだ。

片刃の太刀なら峰打ちをすることができるし、斬撃に蹴りを載せることだってできる。両刃よりも製造コストもかからないので、すぐに太刀を駄目にしてしまうユーリにはぴったりだ。


呼吸を整え、左足を一歩下げた状態で構える。

右手は左腰に携えた太刀の柄、左手は鞘に添える。わずかに腰を落としながら精神を統一すると、五感の解像度がどんどん増していく。

左足の踏み込みと同時に太刀を抜き、勢いそのまま右上に切り上げる。

踏ん張る右足に宿る異能を、そのまま太刀の推進力へと変えるイメージ。その剣の軌跡は、素人なら目で追うことすら難しいだろう。

刃を振り抜いた後は、すかさず逆手に持ち換えて横一文字に薙ぐ。

刃が体の前を通過する際に右膝で蹴って、破壊力を上乗せする。もちろん、素振りなので太刀と膝のプロテクターの強度を確認する程度にとどめる。この一連の動作を、ユーリは確かめるように何度か繰り返した。


「昼間あんなに汗水流したのに、休まないのね。」


声の方向に視線を向けると、リルリが立っていた。

朝食時と同じバスケットを左手に提げ、右手には猫を抱いていた。いつも村内で見かける、村民のアイドル的存在の野良猫。

視界が猫を捉えた瞬間、それを猫と認識する前に、ユーリの体は反射的に後方へと跳んでいた。

踏み切ったのが右足だったので、リルリとの距離が一気に離れる。心拍数が爆発的に上昇したせいで、胸が痛い。


「あ、ごめん。まだ駄目なんだね。」

「ああ、こっちこそ、驚かせて済まない。」


いまだに心臓が暴れているユーリを心配そうに見つめながら、リルリが猫を足元へとおろす。降ろされた猫は甘えるようにリルリの足に体を寄せてから、夜の闇の中へと消えていった。その姿が完全に見えなくなるまで、ユーリの緊張は解けない。


「えっと、毛とかは大丈夫なのよね?」

「ああ。アレルギーではないから。」

 

この世界で目を覚ましてから、ユーリはずっと猫が苦手だった。

アレルギー反応が現れるわけではないし、主観では可愛いと思っているはずなのに、猫を見るだけでなぜか全身の毛が逆立つ。無理やり近くに持ってこられると、こらえきれずに嘔吐してしまうことすらあった。


「ドラゴンはサクッとやっつけるのに、あんな可愛い猫には負けちゃうなんてねぇ。」


半ば呆れるように言いながら、リルリは適当に拾い集めた木の枝に手をかざす。その手が赤く光るのと、枝に火が灯るのが同時だった。


「コーヒー、飲むでしょう?」


リルリが朝と同じ大きな石の上に座る。

誘われるままにユーリも隣に腰かけ、湯気の立つカップを受け取る。

鼻から抜ける薫りで、逆立った心がほぐれるのが手に取るように分かった。たまたま転生した異世界にコーヒーがあって本当に良かったと、ユーリは心から思う。


「今日、畑の大岩を砕いたんだって?ジンさん、ユーリのこと褒めてたよ。」

「ああ、あれくらい。ドラゴンを蹴り倒すよりは簡単だよ。」

 

半分ほど飲んだカップを脇に置いて、ユーリは石の上に寝そべる。

視界を覆いつくすのは、満天の星空。ユーリが元居た世界のように人工の光が多い場所では、絶対に見ることができない景色。この世界に来てから何度も目にしたはずなのに、それでも目にする度に言葉を失う。


「異能だけじゃなくて、足を使わない作業も手を抜かなかったって。ほら、『転生者』は異能にかまける人も多いから。」

「おかげで、全身が筋肉痛になりそうだよ。」


毎日ちゃんと鍛えてるくせに、とリルリは薄く笑いながら、ユーリのカップにコーヒーを注ぎ足してくれる。

満天の星空、焚火がパチパチと爆ぜる音、一日の仕事を終えた達成感と倦怠感、リルリの淹れてくれたコーヒー。

もう、足りないものなんて何もないな、とユーリは思う。

 

「ねぇ、聞いていい?」


頭上を流れていった星の数を数えきれなくなった頃、リルリが口を開いた。

横になったままのユーリが視線をリルリに向けると、リルリも横になってユーリのことを見ていた。


「元の世界に、戻りたいって思わないの?」


その話はしない約束だろう、そう一蹴してしまえないほどの切実さが、リルリの瞳に宿っていた。


「だって、ここは本来ユーリが生きている世界ではないんだよ?覚えていないだけで、あっちの世界では誰かが帰りを待っているかもしれない。やり残したことがあるかもしれない。あなたを愛していた誰かが、家族とか、友達とか、恋人が、居たかもしれない。」


ユーリの右手に、リルリの左手が触れる。

ユーリがまた発作を起こさないように、手を握っていてくれる。

ユーリはその手に指を絡めてから、リルリの顔を見る。

リルリは今にも泣きだしそうな顔をしていた。


「正直、積極的に戻りたいとは思わない。あんまり覚えていないけれど、多分楽しくなかったし。それに、あっちの世界に戻れたとしても、俺には居場所なんてないはずだ。」

「あっちの世界で死んじゃって、こっちに転生してきた…、それって、本当に本当なの?」


記憶のないユーリには、肯定も否定もできない。

ただ、具体的なことは何一つ覚えていないとは言え、ユーリには確信があった。眼前まで迫った濃厚な死の気配を、魂が覚えていた。


「どうやって死んだ、とか、なんで死んだ、とか、全部わからないんだよね?」


リルリが絡まった指をほどき、ユーリの手首を握る。その手が離れないよう、しっかりと。


「うん。でも、俺は死んだって、心が、魂が、覚えている気がする。」


今にも泣きだしそうなリルリの顔から目を逸らして、ユーリは天を仰ぐ。

たとえ異能を持っていようが、自分なんてちっぽけな存在でしかないと、星空を見る度に痛感する。

でも、そんなちっぽけな存在のユーリのことを想って、リルリは目に涙を溜めていた。それが嬉しいような、悲しいような、ユーリは自分でも感情の所在がわからなかった。


「でも、今この瞬間、ユーリは生きてる。そうだよね?」


「もちろんだ。この村には、俺の居場所がある。この村のみんなは、俺のことを必要としてくれる。この村には、リルリが居る。だから、俺の居場所はここだ。」

 

再び、リルリと見つめ合う。

リルリの左の瞳から、涙が一粒だけ流れた。こめかみを伝って流れ落ちた雫が、石の上に染みを穿つ。


「あなたが、生きているなら、今はそれでいい。それだけでいいの。」

 

握られているユーリの右手に、リルリの右手も添えられる。

リルリの両手はびっくりするほど冷たくて、ユーリも両手で包むように握り返す。

自らの温度を、少しでも移すように。


「あのね、わたし、本当は」



りいぃぃぃぃるううぅぅぅぅぅりいぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!



意を決したリルリの口から放たれた言葉は、闇を切り裂くような咆哮にかき消された。

反射的に立ち上がったユーリは、太刀に手をかけて臨戦態勢をとる。そうさせるのに十分すぎるほどに殺気を孕んだその声がカエラのものだと気付いたのは、いつでも刀を抜けるように身構えた後だった。


「しまった、おばあちゃんだ。一時間くらいで帰るって言ったのに、ずいぶん長居しちゃったから。」


体を起こし、腰かけていた岩から飛び降りたリルリが、お尻を払う。


「邪魔が入っちゃったね。続きは、またいつか。」


リルリが儚げに笑う。

そんな顔をされてしまったから、ユーリはさっきの言葉の続きを尋ねることも、自分の気持ちを伝えることもできない。


「わたし、先に行くね。一緒に居るのがバレたら余計怒られるから。」


手短に片づけを済ませ、リルリが走り出す。


「リルリ!」


ユーリは、大声でその背中を呼び止める。その声のあまりの大きさに、リルリが弾かれたように振り向いた。


「お昼ご飯!ありがとう!おいしかった!」


リルリの呆れた顔は、すぐに笑顔に変わった。

一度だけ大きく手を振ってから小走りで去っていくリルリの背中を、ユーリは見えなくなるまで見送った。


再び訪れた静寂の中で、ユーリは石の上に寝転がる。

相変わらず満天の星が視界を埋め尽くしていて、今にも押しつぶされそうだった。

ユーリは目を閉じて、リルリの言っていたことを考える。

元の世界に居るはずの、家族とか、友達とか。

恋人は…どうだっただろう。

いくら思い出そうとしても、記憶には濃い霧がかかったままだ。その輪郭はぼんやりと見えてくるけれど、顔が判別できるほどの像は結ばない。


ただ、それは別に思い出さなくても良いことのような気もしていた。

元の世界について具体的なエピソード記憶は皆無であっても、常に感じていた不満や、不快であったという記憶は漠然と残っているからだ。転生後、覚醒して最初に感じたのが「安堵」であったことが、その証拠だと思った。

それに、今のこの世界では、誰もがユーリのことを必要としてくれるし、大切に思ってくれている。今のユーリにはそれだけで十分だ。


でも、どうしてリルリから元の世界の話を切り出される度にこんなにも心が乱されるのだろう。

それに、リルリはどうして元の世界の話を諦めることなく蒸し返すのだろう。

そして、リルリはどうしてあんな顔をしていたのだろう。


答えが出ないことがわかっている問いについて考え続けても意味がないので、ユーリは全ての思考を閉ざした。

考えても仕方のないことは、早々に考えるのを止めてしまった方がいい。

大抵の場合、考えれば考えるほどに自らの無力感に苛まれるだけだということを、ユーリは良く知っていた。それもきっと、魂に染み付いた負の記憶だ。


思考を閉ざす代わりに、五感を研ぎ澄ませる。

遠くに聞こえる虫の声、肌を撫でる気持のいい夜風、焚火から漂うあたたかな空気、まだかすかに残っている気がする、指先の温度。


「あなたが、生きているなら、今はそれでいい。それだけでいいの。」


リルリの言葉が、やけに胸に残った。

あなた、なんて呼び方をされたのが、初めてだったからだろうか。

胸がざわつく原因がわからないユーリは、いつまでも困惑していた。


リルリの真意がどんなものであれ、今はその言葉だけで充分だ。


ユーリはそう結論付けて、再び思考を閉ざす。

目を閉じると、眠気はすぐに訪れた。

全身を包む心地よい疲労感に身をゆだね、焚火の爆ぜる音と柔らかい夜風が森の木々を揺らす音を子守歌にして、ユーリは眠った。

それは、とても深く、穏やかな眠りだった。

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