終章―ある世界の終わり
◇
目を覚ますと、そこはすっかり慣れ親しんでしまった自室のベッドの上だった。
枕元にはスマートフォンなんてないし、大きなモニターが二つ併設されたゲーミングPCも、壁一面を覆いつくす漫画や小説もない。あるのは木製の簡素なベッドと、その脇に置かれた木製の棚だけ。ただ、大きく変わったのはその棚の中身だ。
木製の棚には、数種類の小瓶が並んでいる。あっちの世界で言えば化粧水のようなものらしく、リルリが毎晩寝る前に顔に塗っているものだ。
生けられている花も今までより圧倒的に数が多く、彩りも鮮やかだ。他にも、用途が想像できない化粧品のようなものや、戦闘時に使っていた短剣、果てはかわいらしい小物まで。見るからに女子の部屋、という感じ。
あまり物を持たないユーリが一人で暮らしていた頃とは比べ物にならないくらい、ユーリの部屋は沢山の物があふれていた。調理場にびっしり並ぶ調味料の瓶や、イシュで買った可愛らしいカトラリー類、品のいいティーセット…。
自分が一人で生きていく上では必要のなかった物であふれた部屋は、存外に居心地のいいものだった。
ベッドから体を起こそうとするけれど、まとわりつくもののせいでうまく起き上がれない。言うまでもなく、壊滅的な寝相のリルリだ。
二人で暮らすならベッドも大きくしようと言ったのはユーリで、それに断固反対したのはリルリだった。
自らの寝相について思い至るはずもないリルリは、少しでもユーリと体が離れるのを拒否した。その結果がこの様なのだけど、そんな寝相にもすぐに慣れてしまった。今となっては、リルリがまとわりついてこないと寂しさすら覚えていたかもしれない。
むにゃむにゃ言いながら、眠ったままのリルリがユーリの胸板をしゃぶっている。
それもいつものことなので、旅に出た当初のように狼狽えることもない。とはいえ、ユーリは健全な男子なので、湧き上がってくるものがないわけでもない。
現に、リルリの寝相のせいで朝からお互いに盛り上がってしまうことも少なくなかった。いつまでも起きてこない二人のことを心配したマスターとずいぶん気まずい思いをしてからは、できるだけ朝の活動は控えるようにしているのだけど。
いつまでもユーリにまとわりついたまま、起きてくる気配がないリルリ。
このままではどうすることもできないので、ユーリもリルリの体を抱いて目を閉じる。幸福感に満たされた眠気は、すぐに訪れた。
◇
リルリと結ばれてから、どれくらい経っただろう。ユーリの体感で言えば、一か月くらいだろうか。
レキの村の住人たちは、みんなユーリ達のことを祝福してくれた。
あのカエラでさえも、涙を流して喜んでくれた。もちろん、誰もがキョウカが元の世界に戻ってしまったことを知っているので、ユーリもいずれ居なくなってしまうことは理解している。だからこそ、村の全員が盛大に結ばれた二人のことを祝福した。誰よりも幸せそうに笑うリルリを見て、多くの村人がひそかに涙を流した。
そんな背景もあり、ユーリとリルリは村内の作業にほとんど参加することなく、二人でひたすら甘い時間を過ごしていた。
一緒に目覚めて、一緒に食事をして、一緒に眠る。
二人で始める新しい生活に必要なものをイシュで揃えたり、多忙な中で時間を作ってくれたユージンから結婚祝いとして食事を振舞ってもらったり、あわただしくも輝かしい日々はあっという間に過ぎていった。
鼻孔をくすぐる香ばしい匂いで、ユーリは目を覚ます。
「もう、いつまで寝てんのよ。」
エプロンを付けたリルリが、呆れた顔をしている。
「おはよう、リルリ。」
本当は俺の方が先に起きてた、なんてことは言わない。
「おはよう、ユーリ。」
火のついた調理場をそのままにして、リルリが駆け寄ってくる。そして二人はそのまま唇を重ねた。
「ちょっと!朝ごはん作ってる途中だから、またあとで!」
いつもの癖でリルリの体を抱き寄せようとしたユーリの手をはたいて、リルリが笑った。
「あとでなら、いいのか?」
「ばーか。早く顔洗っておいでよ。」
顔を洗うついでに水を汲むために、ユーリは桶を持って村の中央にある井戸へと向かう。
太陽の感じから察するに、時刻は既に昼前だ。すれ違う誰もが何かしらの仕事をしているので、ユーリは少しだけ後ろめたさを感じる。その負い目を払拭してくれるのは、すれ違う全員が向けてくれる笑顔だった。
「おう!ユーリ!今日もこんな時間にお目覚めってことは、昨日の夜も頑張ったんか?」
顔を洗ってから水を汲んでいると、遠くからジンの叫び声が聞こえてきた。その背後からは農夫達の下品な笑い声も聞こえてくる。少し前までのユーリなら不快に感じていたであろうことが、今のユーリなら笑って受け流すことができた。それはきっと、ジンや農夫達としっかり関係性ができあがっているからだ。
「ジンさん!今日の酒の分くらいはまじめに働けー!」
大声で叫ぶと、さっきよりも大きな農夫達の笑い声が聞こえてきた。いつまでもにぎやかな彼らに別れを告げ、家までの道を引き返す。
ああ、ずっとここに居たいなぁ。
噛み締めるようにつぶやいて、ユーリは空を見上げる。
この世界の空は、ユーリが今まで暮らしてきた世界よりもずっと広くて、ずっと青いような気がした。
ふと、イシュのギルドマスターが言っていたことを思い出す。
視野を広げるだけで世界が変わるというのなら、転生前の世界にもこんなに青い空は広がっていたのだろうか。
ユーリは、今になってもキョウカのように元の世界に帰りたいとは思えなかった。
それどころか、近いうちに訪れるであろう別れの日を、明確に恐れてすらいた。
きっと、その瞬間は自らの意志に関係なく、唐突に訪れる。
それは、今こうしてリルリの傍から離れている時かもしれない。
その考えに至った瞬間、ユーリはもう走り出していた。桶の水がこぼれるのも厭わず、全力で家路を駆け抜ける。
ドアを蹴破るようにして家に飛び込むと、配膳していたリルリが目を丸くしてこちらを見ていた。何かを言う前に、ユーリはリルリを抱き締める。
「どうしたの?急に」
そんなことを言いながらも、リルリは優しく抱き締めてくれる。
「水を汲んでいる途中で元の世界に帰されたら、嫌だなって思って」
「…明日からは、一緒に水を汲みに行こうね。」
優しく囁くリルリは、しっかりとユーリの手首を握っていた。まるで、ユーリが元の世界に連れ戻されるのを拒むかのように。
たかが水を汲むだけのことも一人でできないなんて、元の世界に帰るのが怖くてリルリに縋るなんて、なんて情けないのだろう。
でも、それでも、ユーリは怖かった。
それは自らの意志や努力次第で乗り越えられる恐怖ではなく、世界の理そのものに対するものだったから。
このぬくもりを、絶対に失いたくない。
リルリを抱き締めながら、ユーリは考える。
このぬくもりを失わない為に、この人を悲しませない為に、本当に自分にできることはないのだろうか。
その為なら何でもするという覚悟が、自分にはあるだろうか。
「そうだ、イシュのギルドマスターに会いに行こう!」
今まで考えもしなかったけれど、使役魔法が解けたことによって元の世界に帰されるのであれば、また新しい使役魔法をかけてもらえばいい。使役の内容がなんであっても、使役さえされれば新たな楔になるだろう。
「駄目だよ。イシュのギルドマスターの使役魔法は、同じ人間に一度しかかけられないの。」
そんなユーリを、リルリは再び抱き締めた。
抱き合っているので顔は見えないけれど、リルリの声は妙に優しい。そして、それは優しいだけではなく、確かな諦観が滲んでいた。
その情報を知っているということは、リルリが既にギルドマスターに確認済みなのだろう。リルリはリルリなりに、ユーリをこの世界に留める方法を模索してくれていたのだと、一瞬で悟る。
「それなら、別の術者に使役魔法をかけてもらえば、」
「それも駄目。使役魔法の術者は、とても少ないし、イシュのギルドマスターの使役を上書きできるほどの術者なんて見つかりっこない。」
「でも、それ以外の方法を、ギルドマスターやユージンなら思いつくかも」
「駄目だよ。あの二人は今忙しいから面会すらできないし、そんな方法、あるならもう教えてくれてるはず。ユーリが眠っている間、わたし、いろいろ調べたし、聞いて回ったの。でもね、駄目だった。」
リルリの顔が押し付けられたユーリの肩口が、湿っていくのがわかる。
「それでもユーリが直接確かめたいって言うなら、わたしは止めない。もちろん、イシュにもついていく。でも、イシュに向かう途中でその時が来てしまったら?許されるなら、わたしはその時をユーリと二人きりで、穏やかに迎えたい。」
抱擁する腕からリルリの覚悟が伝わってくるから、もはやユーリは何も言えなかった。
「それにね、やっぱりユーリは元の世界に戻らないとだめ。それが、正しい形なんだから。その為に、ユーリは今まで頑張ってきたんだから。」
せっかく作ってくれた遅めの朝食が冷めていく横で、ユーリとリルリはいつまでも抱き合っていた。
「ごめんね。」
なんでリルリが謝るんだ、謝るなら俺の方なのに。たったそれだけの言葉が、なぜか出てこない。
「ごめんね。本当にごめん。ごめんね。」
リルリの涙は、いつまでも止まることがなかった。
◇
リルリがいつまでも泣き続けたあの日から、ユーリはずっと考え続けていた。考え続けることを諦めなかった。
当の本人であるリルリはいつも通りに振る舞っているけれど、無理して笑っているのは明白だった。だからユーリは、いつまでも考え続けるしかなかった。
考え続ける日々の中でも、リルリの笑顔は確かにユーリの支えとなった。
リルリと夢中で抱き合っている間は全てを忘れることができたから、ユーリは何度も何度もリルリを激しく抱いた。
近い未来に避けられない別離が訪れるのなら、せめて今はリルリのことを抱いていたいと思った。
その温度を、匂いを、押し殺した声を、しっとりと湿った肌の質感を、いつまでも覚えていられるように。
「俺は昔、何かを守れなかったような気がするんだ。」
ベッドの中、リルリの肌のぬくもりを直接感じながら、ユーリの唇は勝手に言葉を紡いでいた。
血に濡れた両手。失われていく温もり。抱えきれない絶望。
わずかに残る記憶を手繰り寄せるように、あるいは、その向こう側へと手を伸ばすように、ユーリは言葉を吐き出す。
そこには、意味もなければ脈絡もなかった。
ただ、事後のけだるさの中でしか見つけられない、自らの奥に潜む揺らぎみたいなものが、自然と口から零れ落ちていく。
「それは、転生前の?」
同様に事後のけだるさを引きずったリルリの声は、どこか眠そうにも聞こえる。
「うん。多分、そうだと思う。」
「何か思い出したの?」
すかさず、リルリの手がユーリの手首をつかむ。それはもう幾度も繰り返された所作で、ユーリは手首を握られるだけで無条件に安心するようになっていた。
「いや。転生前の事は、やっぱり何も思い出せない。でも、最近はそれでもいいと思えるんだ。」
口にした途端に、本当にそんな気がしてくるから不思議だった。
滔々と語るユーリの胸の中から、リルリがその顔を見上げている。その目はあらゆる感情を孕まない。
「転生前、大切なものを守れなかった悔しさだけが、ずっと残ってた。でも、今の俺には異能がある。それで守れたものがあるって、今なら思えるんだ。あの時の悔しさを忘れていなかったから、俺は火竜にも立ち向かえたのかもしれない。」
この記憶があったから、二度とこんな思いをしたくないと心から思えたから、ユーリは火竜に立ち向かえた。逃げずに戦えた。そして、今度は守ることができた。
それだけで、転生前の記憶にも意味があったように思えてくる。
「そう、かもしれないね」
リルリは、夜の静寂を乱さない、とても静かな声で言った。
「だから、もう思い出せなくていい。今、こうして守れたものを抱き締められたら、もうそれでいい。」
ユーリはリルリを抱き寄せる。
されるがままに、リルリはユーリに体をゆだねている。
目が合った二人は、どちらからともなく唇を重ねた。
◇
「もう二度と会えなくなるのは、死によって別たれるのと、ほとんど一緒なのかもね。」
リルリもまた、自らの奥に潜む曖昧なものに手を伸ばすかのように、言葉を紡ぐ。
一晩のうちに何度も何度も重ねた行為の余韻が残る、あたたかい体。
「そうかもしれない。俺は、リルリが居ない世界で生きるなんて、嫌だ。」
そのあたたかい体を、ユーリは抱き寄せる。くすぐったそうに、リルリが笑う。
「でも、ユーリもわたしも、生き続ける。違う世界に行っても、死に別れたわけじゃない。たとえ会うことができなくなっても、こうしていた時間を、この肌の温度を、寄り添ってくれる匂いを、思い出すことはできる。」
ほんのわずかな希望に縋るように、リルリがつぶやく。
「まるで、故人を悼んでるみたいだな。」
「ほんとうに、そうなのかもしれないね。」
リルリがぽつりと言った声が、夜の静寂に消えていく。
窓の外は恐ろしく静かで、まるで世界が終わってしまったみたいだ。
「ユーリが元の世界に戻ってしまっても、もう二度と会えなくても、わたしはユーリのことを思い返しながら生きるよ。たとえ二度と会えなくても、わたしが死んじゃったらユーリは悲しむだろうから、わたしはユーリの為にちゃんと生きるよ。」
ユーリの胸板の上で、リルリが顔を伏せる。その声は、眠る寸前の時みたいに甘い。
「だから、ユーリもあっちの世界でちゃんと生きてほしい。わたし以外の人と一緒になってもいいから、年に一回だけでも、ほんの一瞬だけでも、わたしのこと思い出してくれればそれでいいから、」
言葉だけでは到底足りなくて、ユーリはリルリを強く抱きしめる。
「結局、同じことなのかもしれないな。」
意味を理解できなかったリルリが、緩慢な動作でユーリを見上げる。
「俺は、いつ元の世界に戻されるのかわからない。でも、いつ別れが訪れるかわからないという点では、いつだって同じなんだ。俺が明日魔獣に襲われて死ぬ可能性だってあるし、逆を考えれば、元の世界に帰されるのが八十年後かもしれない。結局、いつ元の世界に帰されるかわからないことと、いつ死ぬかわからないこと、あんまり変わらないのかもしれない。」
リルリは、目を丸くしてユーリのことを見ている。
「だから、俺達にできるのは、今を大切にすることだけなんだと思う。今を大切にして、精一杯生きられたら、きっと別たれた後でも何かが残ってる。それを抱いて、ずっと一人で生きるしかないんだ。怖くても、辛くても、かなしくても、ずっと今を生きていくしかないんだ。自分の為に、そして、自分を愛してくれた人の為に。」
「そっか。そうだね。ユーリは、とうとう気付いたんだね。」
リルリの声が、震えていた。
喜んでいるようにも、悲しんでいるようにも聞こえる、不思議な声だった。
「わたしが、先に死んじゃうことだって十分にあり得るってことだもんね。」
体を起こしたリルリが、ユーリに覆い被さる。
「だから、今を大切に、しよ?」
二人は、再び唇を重ねた。
◇
とてもあたたかいものが腕をすり抜ける感触で、ユーリの意識はわずかに覚醒する。
幾度も体を重ねた疲労のせいか、完全な覚醒には至れない。それでも、リルリが腕をすり抜けたのはわかった。
必死に目を開こうとするけれど、薄目以上に開くことができない。体を起こしたくても、鉛のように重い。
意識は完全に覚醒しているのに、体が動かせない。その状況にユーリが本格的な危機感を抱き始めた頃、ようやく傍らに佇む気配に気付く。
衣擦れの音と、金属同士がわずかに触れ合う音。
間違いなく、傍に立っているのはリルリだ。金属音は、戦闘用の短剣を腰に装着する音だった。
「これでいいんだよね。タカユキ。」
体が動かせず、目も開けないからこそ、ユーリの聴覚は限界まで研ぎ澄まされていた。その耳がとらえたのは、リルリがつぶやく知らない男の名前。レキの村でも、イシュの街でも、そんな名前は聞いたことがなかった。
「ごめんね。ユウリくん。さようなら。」
リルリが棚に並んでいる複数の化粧水の瓶を、いくつか開けていく。そのあたりから、甘ったるい妙な香りが漂ってくる。そのことの意味はわからなかったけれど、ユーリは咄嗟に息を止めた。
傍らの気配が、歩き去る。
ドアが静かに開く音がして、気配が家の外へと出ていく。
リルリが、どこかへ行ってしまう。ユーリの知らないどこかへ。
すぐに追いかけたいけれど、体がうまく動かない。ベッドの上でのたうつようにもがいていると、勢い余って体がベッドから転落した。受け身も取れないので胴を強かに打ち付け、口から空気が漏れる。その拍子に吸い込んだ部屋の空気は、思考に靄をかけるような甘い匂い。それは、酒場で飲まされるカクテルとどこか似ていた。
何が起きているのか、ユーリには全く理解ができなかった。
それでも、今ここでリルリを追いかけねばならないことだけは確かなので、ユーリは太刀を杖にして何とか立ち上がる。
家の外に出て新鮮な空気を吸うと、思考はすぐに明瞭さを取り戻した。依然として体は重いけれど、動かせないほどではない。そして、今は体に構っている場合ではないことだけは確かだ。
リルリの姿はすでになかったけれど、行き先はすぐにわかった。
長老の家だけ、明かりがついていたから。
思い通りに動かない体と裏腹に、鼓動だけがどんどん速くなる。
「対象の心拍数に異常!本庄さん、マニュアル通りに入眠措置はとったのよね?」
「はい。筋弛緩剤も規定量散布しています。」
「じゃあ、なぜ心拍数が増加している?副反応か?」
「そんなことより、対象がこの家に近付いてきています!」
長老の家の中から聞こえてくる言葉の意味が、理解できない。
それでも、この中に入ることで全てが変わってしまうことだけは、なんとなく理解できた。
ユーリは迷うことなく扉に手をかける。中から聞こえてきた声の中に、リルリのものもあったから。
ドアは、すんなり開く。
この村には鍵がかかる家なんてないのだから、当然だ。
中に居たのは、リルリと、カエラ。それに、酒場のマスターとジン。
机の上には、見たことのあるものばかり。
ノートパソコンに、スマートフォン。
心電図のようなものが表示されたモニターや、転生前の世界でよく見ていた気がする地図アプリのような画面もある。
「とうとう、見られちゃったね。」
時が止まったように誰もが動けない中で、リルリだけが穏やかに笑っていた。
◇
「驚いたでしょう。ユウリくん。でも、この部屋の中にあるもの、知ってるものばっかりだよね?」
リルリの口調は優しい。それでも、彼女はユーリのことを『ユウリくん』と呼んだ。
「本庄さん、貴女はいったいどういうつもりなの?自分が何を言っているのか、わかっているわよね?」
カエラが静かに、それでいて咎める姿勢を隠すことなく問い詰める。その口調は、孫娘に呼びかける村長のものではなかった。
「ええ。わかっています。でも、もういいじゃないですか。ここまで見られたのだし、どうせリセットしてしまうのでしょう?」
「本庄、どうして被験者宅にも、この部屋にも電子錠をかけていない?それに、筋弛緩剤を投与したはずの被験者が、どうしてここまで歩いてこられる?」
マスターの威圧的な声が響く。カエラとジンの顔には動揺の色が見えたけれど、リルリは穏やかに笑ったままだ。
「本庄瑠璃。これは明らかに規約違反だ。厳粛な処分が下されることになるぞ。」
マスターは声を荒げることはなかったものの、その声には明らかな怒気が含まれていた。
「プログラムとか、処分とか、もうどうでもいい。ただ、私はもう嘘をつきたくないんです。彼にも、自分自身にも。」
リルリがいつも腰につけているポーチから何かを取り出し、ユーリ以外の三人に突き付ける。それは、どう見ても小型の拳銃だった。三人が、わずかに息を呑む。
「さて、ここからは種明かしです。北川悠里君。」
本庄瑠璃と呼ばれた少女は、リルリの顔のまま微笑んだ。
◇
「まず、はっきりさせておきましょう。あなたは転生者のユーリなんかじゃない。北川悠里、十七歳の高校生。記憶を調整しているから、思い出せないかもしれませんけど。」
何が起こっているのか一切理解できないまま、それでもユーリは膝から崩れ落ちる。
頭が痛い。心臓が痛い。
転生前の世界を思い出しかける度に生じる発作が、かつてない強さでユーリを襲っていた。目の奥がぐりぐりと圧迫されるような痛みに、吐き気を催す。
「北川悠里くん。あなたは異世界に転生なんてしていない。ここは現実、もちろん日本国内です。地図には載っていない無人島を、異世界に見えるように作り替えただけ。気温や天気、その生態系に至るまでまで全て我々に管理された、いわば箱庭です。」
ユーリの方をまっすぐに見つめたまま、唐突にリルリが引金を引く。
カエラがこっそり操作しようとしていたスマートフォン型の端末に、銃弾が穴を穿つ。
「吉岡さん。見えてますよ。すみませんが、もう少しだけ私の我儘に付き合ってください。全部終われば、私は喜んで処分されますから。もちろん、356番の記憶操作にも異論はありません。」
吉岡、と呼ばれたカエラが、マスターを伺い見る。
「好きにしろ。」
マスターは威圧的にそう言ったきり、椅子に座って目を閉じた。
「さて、信じられないようなのでもう一度言います。ここは日本で、貴方は異世界に転生などしていません。貴方はこの疑似異世界環境を用いた自殺企図者更生プログラム、通称『箱庭計画』の、第356号被験者です。」
本庄瑠璃と呼ばれた少女が、優しく微笑んだ。それはリルリの見た目をしているけれど、もはやリルリには見えない。その笑顔は、一切の温度が排されているような気すらした。
「リルリ…?嘘…だろ?」
ユーリが何とか絞り出した声は、情けないくらいに震えていた。
「ええ。結論から申し上げると、リルリという存在は嘘です。私の本名は本庄瑠璃。リルリは、この自殺者企図者更生プログラムにおける私の
「どうして…?」
頭が痛い。心臓が痛い。
心は目の前に立つ少女の言葉を信じたくないと抵抗していたけれど、ユーリは頭のどこかで彼女の言葉に疑いの余地がないことも悟っていた。
この部屋にある電子機器や、カエラ、ジン、マスターの表情、そしてリルリだった少女が持っている拳銃が、少女の話が真実であることを如実に物語っていたから、かもしれない。
「いつか、貴方自身が言ってしましたよね?元の世界で流行している、異世界に転生して、何かを成し遂げるという形式の物語について。現実世界では何者にもなれなかった人間が唐突に異世界に転生し、これまた唐突に手に入れた異能で無双する。現実世界に満足できなかった人間が、与えられた超能力で英雄になったり、複数の異性から求愛されたりする。カタルシスが得やすく、現実逃避にはうってつけのテンプレート。貴方も、好きでしたよね?」
自室の本棚に並んでいた小説を思い出す。
嫌な現実を忘れたくて、読み漁った異世界転生モノの小説たち。
「辛い現実から隔絶された世界、与えられた異能や寄り付く異性によって得られる自己肯定感、自分が特別な人間だと思い込むことによって生じる自尊心。いわゆる『異世界転生モノ』には、自殺企図者を更生させる為に必要なあらゆる要素が詰まっています。加えて、近年増加傾向にある若年層の自殺。政府が立ち上げた対策委員会は、ここに目を付けました。」
リルリだった少女が、一旦言葉を切る。
その瞳は冷え切っていて、ほんの数時間前まで一つのベッドで抱き合っていた少女と同一人物だとは思えない。
「現状の生から逃げようとする自殺志願者に、現実とは異なる世界で新たな人生を与える。要するに、『転生』ですね。ただ、新たな人生でも死を選ばれては元も子もないので、全てが管理された箱庭の中で生の喜びを思い出してもらう。この世界は、いわば
嘘だ、と思わずユーリは口を挟む。
少女の言っていることの意味は理解できたけれど、そんなバカげたことを政府が実際に行動に移すなんて、どうかしている。
「いいえ。事実です。実際、自殺者の増加は日本にとって非常に大きな問題です。すっぱり死んでくれた場合、その問題は生産人口が減るだけにとどまりますが、問題は生き残られた場合です。自殺未遂者は重篤な障害が残る例が後を絶ちませんし、カウンセリング等の費用をかけたところで自殺を繰り返す人間がほとんどです。このままでは政府が負担する医療費も馬鹿にならないので、自殺未遂者に対する全く新しい施策を用意する必要がありました。そして、様々な業界の、様々な思惑が合わさり、こんな絵空事のような計画が実現したのです。せっかくだから、みなさんにも説明していただきましょうか。」
本庄瑠璃が、銃を向けている三人の方を見やる。
最初に口を開いたのは、ユーリがマスターと呼んでた人物だった。
「日本は非常に人道的な国だ。そこだけ見れば素晴らしいが、そのせいで研究が進んでいない分野が非常に多いのも事実だ。そういった表沙汰にしにくい研究を行うのに、このプロジェクトはうってつけだった。一番わかりやすい例でいえば、お前も散々倒してきた魔獣達だ。あの魔獣達は、全て遺伝子交配によって人工的に作られた生物。短時間、ローコストで大量生産が可能で、マイクロチップで細かな操作も可能だ。実際、魔獣と戦って大怪我したことはないだろう?俺達が裏で操作していたのだから当然だ。」
どこか嬉々とした様子で語るマスターをぼんやりと見ながら、ユーリはこれまで散々戦ってきた魔獣達を思い出す。
統制の取れすぎている狼、決して大岩を越えて襲ってくることのない魔獣達。
「もちろん、あの火竜もだ。これらの技術を応用すれば、兵器転用はもちろん、エンターテインメント業界に大きな貢献が期待できる。実際、この箱庭は自殺者矯正と同時に、新たな体感型エンターテイメント施設の試作品でもあるのだ。どちらにしても、くだらない話だがな。」
火竜と戦っている時に、リルリが「やり過ぎじゃないの!」と叫んだことを、ユーリは思い出している。あれは火竜ではなく、火竜を操る人間に向けた言葉だった。
「君の記憶を操作した技術も同じだよ。人間の記憶を都合良く操作するなんて、本来なら倫理的に許されるはずがない。疑似的に異世界環境を作り出し、被験者を騙しながら実験するなんて、人権団体が黙っちゃいないよ。でも、この研究によって貴重なデータが得られたのは疑いようもない事実だ。これらのデータを生かせば、自殺企図者の減少や更生、さらに言えば、記憶改竄によるPTSDの根治にも生かせるかもしれない。君も言った通り、嫌なことは思い出さなくて良いんだからね。」
いつもの快活で豪快なジンの姿はそこになく、理知的な微笑みを湛えた男が居た。
「この村で栽培している野菜は現代では珍しい完全無農薬で、今やブランド化されつつある。イシュの街で作っている兵器だって、国際社会には秘匿しているものばかりだ。それに従事するのは、あんたと同じ自殺企図者だよ。みんな現代社会から隔絶されてデスクワークから離れるだけで、どんどん生きる気力を取り戻していくのさ。強い異能を与えられて無双ごっこができるのは、一部の金持ちの子供だけさね。」
吉岡、と呼ばれたカエラも口を開く。彼女だけはカエラを演じている時と雰囲気が変わらない。銃口を向けられて憮然としているからかもしれないが。
「…この世界が色々な思惑の末、秘密裏に作り上げられたのは理解してもらえましたか?」
本庄瑠璃が、ユーリに問いかける。冷静さを取り戻しつつあったユーリは、静かに頷いた。いや、頷くしかなかった。考えるまでもなく、自らが置かれた状況がそれらの話が全て事実であることを物語っていたから。
冷静に考えれば、リルリの言動にはおかしなところがたくさんあった。
旅立ち前夜のユーリを、「遠足が楽しみな小学生」と評したこと。
古狼の森で交わした会話で、RPGの概念をすんなり理解したこと。
レキの村から出たことがないはずなのに、イシュの電灯に驚かなかったこと。
どれも、リルリがレキの村で生まれ育ったのなら知りえない概念のはずだ。
他にも、ミサイル、タクシー、菓子パン、思い出せばキリがないほど、リルリの言動には不自然な点が多いし、そもそもこの世界は全てがおかしかった。
この世界に都合よくコーヒーが存在することや、当たり前のように公用語として日本語が用いられている点も、どう考えたって不自然だ。
「魔法や、右足の異能については?」
それでも、ユーリは縋るように、粗を探すように指摘する。
「魔法は、全て科学技術によるものです。」
本庄瑠璃が銃を構えたままの右腕付近に左手のひらをかざすと、その右腕に小さな機械が現れた。
「このように光学迷彩で隠していましたが、魔法は全てこのデバイスから出ています。回復魔法は、現在研究開発中の光による局部麻酔です。ちなみに、ユージンの魔法も光学迷彩で隠したドローンから発射されています。」
ということは、ユージンもそっち側の人間ということだ。ユーリはもはや何に驚くべきなのかすらわからない。
「右足の異能は、義足に搭載されたエンジンによるものです。自殺の手段に鉄道を選んだ貴方は、右足を切断することで一命をとりとめました。その際の記憶と右足周辺の触覚を操作することによって、限りなく生身に近い感覚の義足を実現しています。試しに異能を使ってみてください。今はこちらで遠隔制御をかけているので、発動できないはずです。」
言われるままに、ユーリは右足を思いきり地面に打ち付けてみる。しかし、鋼鉄製のソールが空々しい音を立てただけ。
「ちなみに、第371号被験者…貴方にはキョウカ、と言った方がわかりやすいでしょうね。彼女の異能は、魔獣の遠隔操作による攻撃の集中と、監視者であるユージンによって塗布された無香性のフェロモン物質によるものです。貴方よりも先にプログラムを終えた彼女は、既に現実世界へと返されました。いわば、再転生、でしょうか。」
「そんな、」
何かを言い返したかったけれど、ユーリはそれ以上言葉を続けられない。
「たしかに荒唐無稽な話ではありますが、実際に効果は覿面だったでしょう?貴方だってこの世界に疑問を抱くことなく、すんなり馴染んだじゃないですか。異世界転生ってこんなものだから、とでも思っていたんでしょう?」
能面のような表情で淡々と語るリルリだった少女の話に、ユーリは思わず耳を塞ぐ。
今まで自分が信じていた世界が崩壊していくのに、もう耐えられなかった。うなだれて立ち上がることもできないユーリを、本庄瑠璃はいつまでも無機質な目で見つめていた。
◇
「一つだけ、聞いてもいいか」
どのくらいの時間が経っただろうか。
うなだれたまま、ユーリが何とか言葉を紡ぐ。
「答えられることならば。」
本庄瑠璃は、感情を排したまま言った。
「この世界が嘘なのも、リルリやユージンの存在が嘘なのも…わかった。もう、それでいい。でも、その中に本当のものは、一つもなかったのか?リルリと一緒に過ごした時間も、その時の言葉も、全部嘘だったのか?」
「リルリという存在が貴方に好意を寄せるのも、性交渉を行うことも、全ては被験者である貴方の自尊心を向上させる為の手段であり、規定されたプログラムの一環に過ぎません。この世界で獲得した成功体験を記憶したまま元の生活に戻ることで、自殺を繰り返すことを防止するのが最終目的でした。」
本庄瑠璃は、躊躇することなく言い切った。
「ああ、そこまで言ってしまったら記憶の改竄がまた面倒になるのに。記憶を完全に消すのって、意外と大変なんだからね。」
かつてジンだった男が、心底面倒くさそうに言う。
「もう、いい。ここまで言ってしまったら、全部同じだ。356番は全ての記憶をリセットし、新しいプログラムを実施する。本プログラムのデータ収集は十分だろう。」
マスターが立ち上がる。跪くユーリを見下す目は、軽蔑の感情に満たされていた。
「356番。お前は、本当に自分が都合よく異世界に転生して、都合よく異能を手に入れて、都合よく良い仲間に恵まれて、都合よく魅力的な異性と恋仲になったと思っているのか?現実世界で何も得ることができず、逃げるように死を選んだ、心の弱いお前が?」
あまりに無慈悲な言葉に、ユーリは唇を嚙むことしかできない。
「だから異世界転生モノなんて嫌いなんだ。努力も葛藤もない、短絡的でインスタントでカタルシス。そんなものが文学たりうる訳がない。どこまでいっても、現実世界に満足できないクソガキの自慰にしかならん。」
反論なんて、できるはずがなかった。
この箱庭で飼い慣らされていたユーリは、反論に足る言葉を持ち合わせていなかった。
「ついでだから教えてやろう。ついさっき、お前は転生前に何かを守れなかったって言ってたな?あれは野良猫だよ。お前の家の裏の公園に住み着いていた、薄汚い野良猫。そうさ、お前が殺したんだ。どうだ?思い出したか?」
部屋の空気が凍り、誰もが発言の主であるマスターと呼ばれていた男を見つめていた。
ユーリは瞬きも忘れて、全身を震わせることしかできない。
「あの時点では、まだ生きていた。病院に連れて行けば、助かったかもしれない。でも、そんな子猫をお前は絞め殺した。本当に殺したい相手には何もできずに、か弱い子猫の命を奪って、ただ泣き喚くだけ。何もできなかったくせに、お膳立てされた異世界でうまくいった気になって、挙句の果てには都合の悪い記憶はなかったことにする。まったく、お前はどこまで卑怯なんだ?」
「まぁ、そうやって偽りの自尊心に溺れさせるのが私達の仕事でしたから。過去の心的外傷を直近の成功体験で塗り替えることができたのなら、本プロジェクトは成功と言えます。」
かつてユーリがジンと呼んで慕っていた男が、唇を歪めて笑う。
そして、ユーリはベットの中でリルリと交わした会話まで筒抜けになっていることに思い至る。
「ようやく気づいたか?耳が腐りそうな甘い言葉まで、全部聞かせてもらってたよ。ユーリくん。お前は被験者なのだから、監察官である本庄によって音声の記録がされているのも当然のことだろう。」
リルリだった少女が、顔を背ける。
カエラだった老女は、苦いものを噛み潰したような顔をしている。
そして、マスターだった大男とジンだった男は、下卑た笑みを浮かべていた。
次の瞬間には、ユーリは何かを叫びながらマスターだった大男に殴りかかっていた。
しかし、それは後ろから何者かに手首を掴んで制止される。
その感触と温度はこの世界で何度も助けてくれたもので、顔なんて見なくてもユーリには誰の手かわかってしまった。こんな状況下でも条件反射のように安心感がこみ上げてくる。
「本庄。どうだ?心拍数は」
ユーリの目の前で、大男が醜悪な笑みを浮かべる。
人を傷つけることを至上の喜びとするような、狂気じみた笑顔。
「356番。お前、今手首を握られて安心しただろう?それは彼女の優しさだと思っていただろう?だが、それは違う。本庄は、お前を安心させるふりをして、心拍数を計っていただけだよ。本庄も、どうやらそれが体に染み付いていたらしいな。実に優秀な専属監察官だよ。」
ユーリは、縋るようにリルリに視線を向ける。
ユーリに手首を掴んだままのリルリ、いや、リルリだった少女は、悲痛な面持ちで顔を逸らした。それが、彼女の答えだった。
「本庄。お前、自分に嘘をつきたくないって言ってたな。そうだよ。嘘をつくな。正直になれ。お前は、どこまで行ってもこっち側の人間だ。356番の事なんて、被験者としか思っていないんだ。この局面でしっかり心拍数を計ったのが、その証拠さ。」
ユーリの脳内で、様々な光景がフラッシュバックする。
イシュに旅立つ前、星を見ながら語り合った夜。
レキの村から旅立った朝。
火竜と初めて対峙した時。
初めて抱き合った夜。
いつだって、リルリはユーリの手首を握っていた。縋るように、励ますように。
でも、それは全部心拍数を計る為のものでしかなかった。
被験者であるユーリの心理状態を正確に把握するために。
その事実を理解した瞬間に、ユーリの心は限界を迎えた。
涙、鼻水、涎、あらゆる体液を顔中の穴から滴らせながら、ユーリは絶叫した。
◇
―地面に臥したまま、ユーリは、北川悠里は、全てを思い出していた。
両親が海外で仕事に明け暮れているので、ほとんど一人で暮らしていたこと。
内向的で、相談できる両親は身近に居らず、高校生には不相応なお金を持っている悠里は、いじめのターゲットには最適だったこと。
友達は一人もおらず、野良猫に餌をやることだけが心のよりどころだったこと。
最初は、金をとられるだけだった。
次第に、それに暴力が伴うようになる。
殴られ、蹴られ、空の財布を顔面に叩きつけられて。
弱い者は奪われる、それが節理だと嗤う声。
次第に、暴力はエスカレートしていく。
放課後、下駄箱に入っていた女子からの手紙。
指定された場所に行くと、ニヤニヤと嗤うクラスメートに取り囲まれた。
誰がお前なんかに告白するかよ。
何マジになってんだ、気持ち悪い。
こいつ、本気で私に好かれてるって思ったの?最悪。
唐突に泣き出す、手紙の主。それを慰める女子。
次の日から、なぜか悠里がその女子をストーカーしているという噂が出回り、学校中の女生徒から嫌悪の視線を向けられるようになった。
それでも学校に通い続けた悠里を面白く思わないクラスメートは、悠里を不登校に追いやった人間が勝ちというゲームを始める。
その頃には、悠里の心はほとんど死んでいた。
学校では全ての感覚器官を遮断し、家に帰ればゲームやライトノベルに没頭する。
両親や教師に相談する勇気は、最後まで出なかった。
そしてあの日。
羽交い絞めにされたユーリの目の前で、いつも餌をやっていた野良猫が嬲り殺された。
正確には、彼らは殺してはいない。子猫の命を奪ったのは、悠里の両手だった。
情け容赦ない暴行の末に息も絶え絶えだった子猫の苦しみを終わらせる方法は、それしか思いつかなかった。
彼らに立ち向かう勇気はない。
彼らに退路を塞がれているから、病院にも連れていけない。
そして、徐々に温度を失っていく手の中の温度にも、苦しそうな呼吸を聞き続けることにも、耐えることができなかった。
泣き叫ぶ悠里に対して、いじめグループの主犯格は言い放つ。
「責任転嫁するなよ。お前が弱いから悪いんだろう。」
実際、悠里は弱いから、何もできなかった。大切なものを、守れなかった。
弱いから、いじめのターゲットになった。
弱いから、羽交い絞めにする腕を振りほどけなかった。
弱いから、子猫を病院に連れていくことができないし、手の中で苦しみ続ける小さな命に向き合うことすら耐えられなかった。
全部全部、悠里が弱いせいだった。
弱い悠里は、全てから逃げることしかできなかった。
マスターだった男に言われた通り、悠里は弱い人間だった。
いじめられていた時、相手に立ち向かったことなんて一度もなかった。
目の前で猫が傷つけられている間も、羽交い絞めにされて動けなかった。
自分が傷つけられるのは何とか我慢できても、自分のせいで誰かが傷つけられることには、耐えられなかった。
もし、悠里がいじめに立ち向かうことができていたら。
羽交い絞めにする腕を振りほどける腕力があれば。
誰かに相談する勇気があれば。
でも、そんなの仕方がないじゃないか。
誰もがいじめに立ち向かえるわけじゃない。誰もが恐怖を乗り越えられるわけじゃない。
自分は悪くない。いつだって悪いのは加害者のはずだ。
どうして自分だけがこんな目に遭うのだろう。
どうして自分だけが危害を加えられるのだろう。
間違っているのは自分じゃない。世界の方だ。
それならば、こんな世界から逃げ出してしまえばいい―
とっくに枯れ果てた声。それでも、悠里は叫ぶことを止めなかった。
今まで心の奥にしまい込んでいたことが、一気にあふれ出す。
頭が割れるように痛い。心臓が爆発しそうなほどに早鐘を打っている。両目から流れる涙を止められない。こらえきれずに、胃の内容物を床にぶちまける。
そんな悠里を見つめているのは、三者三様の表情だった。
哀れみに満ちたカエラだった老婆と、蔑みを隠そうともしないマスターだった大男、実験動物を見るような目で見つめるジンだった男。
そして、本庄瑠璃、リルリだけは、悲痛な顔で涙を流していた。
両目からあふれる涙をぬぐうこともせず、吐瀉物で汚れることも厭わず、悠里を抱きしめる。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。」
本庄瑠璃は、もはや感情を抑えようとしていなかった。感情のままに言葉を紡いでいるのは、本庄瑠璃ではなくリルリだと、悠里は思った。
「私は、貴方を救いたかった。最初は、本当にそう思っていたんです。孝幸にしてやれなかったことを、貴方にしてあげたかった。孝幸の分まで、貴方には現実の世界で生きていてほしかった。騙すつもりも、傷つけるつもりも、なかったんです。」
肩をふるわせて涙を流す少女は、ユーリの良く知っているリルリにしか見えなかった。それでも、悠里はその肩を抱く気にはなれない。
「でも、貴方を救おうとすればするほど、貴方に嘘をつかなければならない。それが結果的に貴方を傷つけることになるとわかっていながら、私は貴方を裏切り続けなければならない。そんなの、もう耐えられない。」
「駄目です。完全に『転移』してますね。」
「本庄はこれを以って解任。代わりの人員補充を申請しておいてくれ。」
ジンだったそれと、マスターだったそれの会話なんてまるで聞こえていないように、リルリは、本庄瑠璃は、言葉を紡ぐ。
「確かに、この世界は虚構です。リルリという存在は、与えられた
顔を上げた本庄瑠璃は、もう涙を流していなかった。
「たとえそれが都合の良い虚構でも、現実逃避でしかなかったとしても、異世界転生の作品を読んだ貴方の心が動いたことは確かでしょう?その心の動きは誰にも否定できないのと同じで、この虚構の世界で貴方が感じたことは、貴方が得たモノは、誰にも否定できない。誰が何と言おうと、私が否定させない。それが虚構でしかなかったとしても、管理された箱庭であっても、貴方は精一杯生きた。立ち向かった。貴方は、もう弱くなんかない。貴方は、この世界を守ったのだから。」
本庄瑠璃が、リルリが、立ち上がる。
右手に携えた拳銃は下したまま、三人に向き直る。
「巖倉さん。さっき、彼の心が弱いと言いましたよね?」
その目は、ユーリがマスターと呼んで慕っていた男に向けられている。
「彼が自ら死を選んだのは、心が弱かったからではありません。彼が、優しかったからです。彼はあまりにも優しかったから、どんな酷い仕打ちをされても暴力で報復しなかった。そして、その優しさ故に、大切にしていた猫が命を落としたのも自分のせいだと背負い込んだ。そうは考えられませんか?」
巖倉と呼ばれた男は、眉一つ動かすことのないまま、ただ本庄瑠璃と呼ばれたリルリをまっすぐに見つめていた。その瞳に宿るのは、憐憫や侮蔑ではなく、職務違反に対する純粋な糾弾。
「このプロジェクトは、意義のあるものだと思います。でも、それを推進する側に心がない限り、それは本当の意味で人を救うことはできない。」
「言いたいことは、それだけか?」
巖倉が高圧的な態度を崩す様子はないし、かつてジンだった男が端末操作の手を止める様子もない。ただ、吉岡と呼ばれていた彼女だけが、カエラの顔のまま俯いていた。
「はい。今まで、お世話になりました。356番を、いえ、北川悠里くんを、よろしくお願いします。」
律儀に頭を下げてから、本庄瑠璃は悠里の方へと振り向いた。
色素の薄い金色の髪がゆるやかに流れ、いつも寄り添ってくれた柔らかい香りが悠里の鼻孔へと届く。悠里へ向けられたその優しい笑顔は、ユーリが大好きだったリルリの笑顔だった。
「悠里くん、本当にごめんね。悠里くんが愛してくれたリルリは、嘘から生まれた役割かもしれない。でも、悠里くんを救いたいと思っていた本庄瑠璃の気持ちは本物だし、ユーリのことを大切に想っていたリルリの感情だって、きっと本当のものです。」
そっと握られた手首は、ただの心拍数の測定では説明できないあたたかさ。
ユーリを想う、リルリの手の温度。
「だから、あなたは、生きて。」
本庄瑠璃の、リルリの、右手が動く。北川悠里の、ユーリの手首から、あたたかさが離れていく。
代わりに握られた冷たい銃口を自らのこめかみに当て、笑う。
それは、ユーリが大好きだった、何度も救われてきた、あの笑顔だった。
「さよなら、ありがと」
乾いた発砲音と、水分を含んだ何かが飛び散る音。
悠里の、ユーリの、絶叫。
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