終章―二人の結末

目を覚ますと、そこはすっかり慣れ親しんでしまった自室のベッドの上だった。

枕元にはスマートフォンなんてないし、大きなモニターが二つ併設されたゲーミングPCも、壁一面を覆いつくす漫画や小説もない。あるのは木製の簡素なベッドと、その脇に置かれた木製の棚だけだ。棚の上には、リルリが摘んできたであろう花が活けてある。


そう、そこは、レキの村だった。

元素龍を倒したら、元の世界に帰されるはずなのに。ということは、まだ元素龍は生きている?

ユーリは慌てて体を起こす。

しかし、両腕に走る激痛ですぐに昏倒した。そう言えば、あの戦いでバキバキに折れていたっけ。

今度は、腕に響かないようにゆっくりと上体を起こす。

どうやらかなり長い時間眠っていたようで、頭が重い。全身の関節が固まっているし、目の焦点もなかなか合わない。あの戦いからどれくらい時間が経っているのか、どうやって自分がここに戻ってきたのか、仲間は無事なのか、何もわからない。


そうだ!仲間は⁉

あわててベッドから立ち上がろうとして、そのままベッドから落ちる。その拍子に床で腕を強打し、痛みに悶絶する。


「やっと目を覚ましたと思ったら、何やってんのよこのバカ!」


玄関から駆け寄ってきたリルリが、ユーリの頭を思いきり叩く。


「心配したんだからね…ばか…。」


泣きながら抱きついてくるリルリの背中に腕を回せないことが、悔しくて、情けなかった。


 

「あれから二週間、ずっと寝てたんだよ?」


リルリの作ったスープを口に運んでもらいながら、ユーリは近況を聞いた。

ユーリ以外の仲間は大きな怪我を負わなかったこと。

ユーリの攻撃で深手を負った火竜が、ドラグロス山の火口に消えていったこと。

一度休眠状態に入った元素龍は、少なくとも二百年は姿を現さないこと。

元素龍が死んだわけではないので、世界に大きな影響は出ていないこと。

イシュとガスの貿易は既に進展しており、その先頭にユージンが立っていること。

ギルドマスターとユージンの尽力もあり、今のところは穏便に事が進んでいること。


そして、キョウカは元の世界に帰ったということ。


「火竜を殺したわけではないのに、キョウカは元の世界に帰れたのか?」


「たぶん、だけど。ちょうど一週間前、朝起きたらキョウカの姿がなかったんだって。」


「それなら、どこかに失踪したとか、攫われた可能性も消しきれないよな?」


「ううん。一緒のベッドで寝ていたユージンが言うんだから、たぶん間違いないよ。気を許して眠っているとはいえ、あのユージンに悟られることなくベッドを抜け出すのなんて、無理だよ。」


目を伏せたリルリの言葉尻には、諦観が滲んでいる。

きっと、散々キョウカを探し回った末に至った結論なのだろうと、ユーリは理解する。


「そっか。元の世界に…え?一緒のベッドで寝てた?」

「そこは突っ込まなくていいところ!バカ!えっち!」


顔を赤くしたリルリが、スプーンを喉の奥まで突き刺してくる。今しがた飲み込んだばかりのスープが全部逆流しそうになり、ユーリは慌てて口を閉じる。


「キョウカに、お別れ言えなかったな。」


リルリが、ぽつりと呟く。


「そうだな。俺も、会っておきたかった。」


「キョウカが何の前触れもなく帰ったってことは、ユーリもそうなるかもしれない、ってことよね。」


顔を伏せたリルリ。その表情は見えない。


「…そうだな。」


二人の間に、重い沈黙が訪れる。リルリの手は、しっかりとユーリの手首をつかんでいた。


「行っちゃ、やだ」


絞り出すように訥々と語る言葉の間に、洟をすする音が混じる。

それでも、ユーリには返す言葉がなかった。責任がとれないことも、果たせない約束も、口にしたくなかったから。

リルリは、しばらくの間涙を流し続けた。その涙をぬぐうことができないユーリは、何も言わずにただ寄り添う。

いつまで、こうして一緒に過ごせるのだろうか。

考えただけで、胸の奥がぎゅっと詰まった。




ユーリの腕から固定具が外れるまでに、一ヵ月ほどの時間がかかった。

その間、この世界に留まることができたのはユーリにとって幸いだった。時間はかかったけれど、リルリの背中に腕を回し、その涙をぬぐうことができたのだから。


腕の固定が外れるまでの一か月間は、ずっとリルリがつきっきりで看病してくれた。時には見舞いと称して酒場のマスターとジンが顔を出してくれたので、退屈する暇もなかった。


二人からは、リルリの口から語られなかったことを聞くことができた。

傷ついたユーリを運んでくれたのはリルリとユージン、キョウカだったこと。

キョウカのあまりの美しさに、レキの村でファンクラブができかけたこと。

ユーリが目を覚ますまで、リルリが毎日何時間もそばに居てくれたこと。

ユーリが目を覚ましたその日、脱水症状になるまで泣いて大変だったこと。

イシュの街ではユーリもリルリも英雄のような扱いになっていること。

そして、リルリがイシュの複数の男から求婚され、全て断っていること。


「なぁ、ユーリ。キョウカさんが元の世界に帰った話はもちろん知ってる。ユーリだっていつそうなるかわからんのも、わかってる。でもな、そろそろ腹をくくってもいいんじゃないか?」


ジンが、いつになく真面目な顔で言う。


「でも、俺はこの世界から去る人間だ。それなら、不用意にリルリを傷つけたくない。」


「お前、本気で言っているのか?お前のその言葉で、あの子が納得すると思うか?」


いつものように聞き流せない迫力が、その声には滲んでいる。


「一緒に過ごせる時間の長さなんて関係ねぇ。大切なのは、残された時間をどう過ごすかだろう。たとえ離れ離れになることが運命づけられていたとしても、二人で心を通わせた日々の記憶は絶対に消えんだろうが。」


…まったく、ぐうの音も出ない。

ユーリは説教をされているような気分で聞いていた。怒られているはずなのに、居心地の悪さを感じない。それは不思議な気分だった。


「結局な、お前に足りてないのは覚悟だよ。自分が本当はどうしたいのか、それに向き合うのが怖くて、相手を言い訳にして逃げてるんだ。ドラゴンは倒すのに、女一人も口説けねぇのか。情けないねぇ!その腕俺がもう一度折ってやろうか?」


ジンの目は完全に据わっていた。


「ジンさん、まさか昼から飲んでるのか?」


「馬鹿野郎!こんな話、素面でできるかってんだ!俺を何歳だと思ってやがる!」


酒が足りねぇ!と大声でわめきながら部屋を出ていくジンを、ユーリは玄関口まで見送る。


覚悟、か。

結局、いつも同じところで躓いている自分に、思わず苦笑いする。

そして、それを面と向かって指摘してくれる人の背中に、頭を下げた。




「ここでコーヒーを飲むのも、久しぶりだねぇ。」


「そうだな。俺がずっと腕折ってたし。」


ジンと話したその日のうちに、ユーリはリルリを誘って森の入り口でコーヒーを飲んでいた。

リルリはお風呂上りなので、その長い髪を下している。風が吹く度にそこから甘い香りが漂ってきて、ユーリの心臓は今にもはちきれそうだった。この類の緊張は、きっと転生前のユーリも味わったことがなかっただろう。というか、元素龍と対峙した時よりも緊張している気がする…。



「前に、ここで話したこと、覚えているか?」


「火竜討伐に出発する前だったよね?なんかもうずいぶん昔のことのような気がするなぁ。」


何も察していないリルリは、からからと笑っている。対するユーリの表情はガチガチだ。


「あの時の続き、」


リルリの肩が跳ねる。


「俺に、言わせてくれないか?」


俯いていたリルリが、弾かれたように顔を上げた。



そこから先のことを、ユーリはあまり覚えていない。

覚えているのは、残された時間だけでもいいから、ずっとそばに居てほしい、許される限りの長い時間を、リルリと一緒に過ごしたい、という、あらかじめ決めてあった言葉だけだ。

その言葉だって、スムーズに言えたわけではない。

たくさん遠回りして、脱線もしながら、ユーリは思っていることを全て言葉にした。それが、今まで隣に居てくれたリルリに対して一番誠実だと思ったから。

両手の平が手汗でびしょびしょだし、顔が熱い。

息継ぎも忘れて話したから、息が苦しい。

火竜と対峙した時よりも、心臓が早鐘を打っている。

それでも、何とか言うべきことを全て言った。それが正しく伝わったかどうかは、わからないけれど。


「それって、プロポーズ、ってこと?」


そう漏らしたリルリの目から、一筋の涙が流れた。


いや、ちがう、そんな大仰なものじゃなくて、ただ単純に元の世界に帰されるまでは一緒に居てほしいってだけであって…、と、口から出そうになる言葉は全て噛み殺す。

そうだ、足りないのは覚悟だ。


「そう捉えてもらって構わない。リルリ、俺と結婚してほしい。」


言い終えたのと、押し倒されたのがほとんど同時だった。土がむき出しの地面で、強かに頭をぶつける。


「わたしも、すき、すきです。ずっと、すきでした。結婚する。わたし、あなたのおよめさんになる。ずっと、一緒に、居る。」 


ユーリの首筋に縋りついたまま、リルリが唱えるようにつぶやく。涙と鼻水でぐしゃぐしゃのその顔と目が合って、どちらからともなく唇を重ねた。


「もう、我慢しなくて、いいんだよね?」


唇を合わせていた間は息を止めていたので、リルリもユーリも息を切らせている。それでも、二人は再び唇を合わせた。

最初は、唇を合わせるだけのものだったけれど、それがお互いについばむようなものになり、最後には遠慮がちに舌を絡ませた。口内を蹂躙する生まれて初めての快感に、ユーリの頭は真っ白になる。密着した体から、唐突に生々しいあたたかさが伝わってくるような気がした。

唇を合わせたまま、ユーリがリルリの体に手を添わせる。一瞬だけびくっとしたものの、リルリがそれを拒む様子はない。


「え、っと、ここじゃ、その、ちょっと…。だから、その、ユーリの家で、つ、続きを…」


頬を赤らめ、目は潤み、息も絶え絶えのリルリ。

二人は手を取り合って、村人達に見つからないよう家路を急いだ。



終わった後も、ユーリとリルリはずっと抱き合っていた。

互いに一糸まとわぬ姿なので、その体温はより直接的に伝わってくる。色素の薄い綺麗な髪を撫でると、リルリは甘えるようにユーリの胸に頬を寄せた。いつものように握られた手首が、優しく圧迫される。


「これからは、毎日こうするから。」


え、と驚きで声が出ないユーリの顔を見て、リルリの顔がどんどん赤くなっていく。


「違う!こうするっていうのは、その、えっと、こうして抱き合って眠るってこと!全部するってわけじゃなくて、いや、もちろん毎日全部してもいいのだけど、って何言わせてんのよバカ!」


いつもなら拳を打ち付けてくるところなのに、今日は自らの顔をユーリの胸板に押し付けるだけだった。


「ユーリ、すき。」

「うん。俺も、リルリのことが好きだ。」


「ずっと、一緒にいようよ」

「うん。可能な限り、一緒に居よう。」


「でもね、もしユーリが明日帰っちゃったとしても、わたしはしあわせだよ。」

「うん」


「わたしね、きょうのことずっとおぼえてる。二度と会えなくなっても、ずっと。」

「うん」


「はなればなれになっちゃっても、ずっと覚えてる。おばあちゃんになっても、覚えてる」

「うん。俺も、絶対に忘れない。忘れられない。」


「もしね、はなればなれになっても、」

「うん」


「こうしてプロポーズしてもらって、抱き合って、夫婦になって、」

「うん」


「この気持ちがあれば、ずっと一緒だよね。永遠って、そういうことだと思うの」

「うん」


「キョウカも、こんな気持ちだったのかな」

「うん。そうだといいな。」


「………」

「おやすみ、リルリ。」

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