エピローグ

目を覚ますと、そこはすっかり慣れ親しんでしまった自室のベッドの上だった。

枕元にはスマートフォン、大きなモニターが二つ併設されたPCも、壁一面を覆いつくす本も、いつも通り。


違う、ここじゃない。

自分が居るべき場所は、ここじゃない。

そんな風に混乱するのも、ほんの一瞬だけだ。瞬きを一つする間に、そこが自分の場所であることを思い出している。

枕元のスマートフォンで時間を確認する。予定していた時間より、三十分くらい早い。

もう一度寝てしまおうかと思ったけれど、意識も体も完全に覚醒していたので、ベッドから抜け出す。自室のカーテンを開くと、遠くに見える山の間から夜が終わり始めていた。


朝の空気を思いきり味わうために、ベランダへと出る。

地上四十二階から見える景色は、遮るものが何もない。標高が高い分、空気も澄んでいる気がするのは気持ちの問題だろうか。

わずかに夜が残る西の空と、陽が昇り始めた東の空から訪れる朝が、目の前で混ざり合う。

冬の空気は冷たく、その空気を吸い込んだ肺を中心に体温が下がっていく感覚。

吐いた息が白く染まり、朝と夜の間に消えていく。寒さに震えながらも、そんな景色をじっと眺めていた。


この世界は、美しい。

夜の終わりと朝の始まりの間、昨日の終わりと今日の始まりがわずかに交差する奇跡みたいな時間に、強く思う。

こんな美しい世界を見ようともせずに、自ら死を選んだ若かりし自分のことを思い出して、少しだけ笑ってしまう。

でも、それは決して嘲笑なんかではない。

あの頃の弱かった自分と、今こうして朝と夜の間に立っている自分、その間に確かに存在する連続性について。

思い返して笑ってしまうのは、それがとてもあたたかい思い出だから。

それは誰に話しても信じてもらえない、異世界に転生した時の記憶。



目を覚ました時、自分が一年近く昏睡状態にあったことを告げられた。

しかし、その間は眠っていたのではなく、異世界に転生していたのだった。

剣と魔法、それに異能。

ここではない世界に暮らす人達と交流し、かけがえのない仲間と出会い、伝説の火竜と戦った。

そして、心から愛した人に出会った。

愛する悦びを、愛される悦びを知ることができた。


もちろん、そんなことを言っても誰も信じてくれない。

脳の検査とカウンセリングの時間が少し増えただけ。

だから、異世界で過ごしたあの日々のことは心の奥にしまっておくことに決めた。

あの世界で見た空の青さ。

仲間と交わした会話。

梟と熊を足したような魔獣の爪の鋭さ。

火竜の吐く炎の熱さ。

そして、心から愛する人に抱き締められた時の気持ち。

夢でもないし、妄想でもない。

たとえ証拠がなくても、証明なんてできなくても、自分自身が覚えているのだから、それだけでよかった。



心臓の鼓動を落ち着ける為に、深呼吸をする。

昔のことを思い出して心臓が暴れ出すのは、不安や焦燥のせいではない。異世界での日々が、文字通り胸躍るような冒険だったからだ。

あの世界でのことを絶対に忘れたくないから、その記憶を少しでも鮮やかなまま留めておきたいから、こうして毎日のように思い返す。


世界が離れても、絶対にお互いのことを忘れない。

それがあの人と交わした約束だから。



目の前で、どんどん夜が明けていく。

西の空に追いやられた闇が、その藍を薄くしていく。

夜明けは、世界の終わりに似ている。

夜が終わり、朝が始まる。一つの世界が終わらなければ、次の世界は訪れない。

何かが終われば、何かを終わらせれば、また新しい何かが始まるし、始めなければならない。


自らの命を終わらせようとして、あの異世界にたどり着いた。

その異世界で自らの責務を果たして、この世界に戻ってきた。

今になって思えば、異世界に転生したことも、こうしてこの世界に戻ってきているのも、全てあらかじめ決まっていたことのような気がした。

そして、その経験を経た今なら、自ら死を選んでまで逃げ出したかった世界も、弱い自分を変えてくれた異世界も、その異世界から帰ってきた後のこの世界だって、ひっくるめて愛せるような気がしていた。



あの世界で言われた言葉を思い出す。


『人間は、いつだって今の自分が置かれている世界しか見えていない。でも、本当はそんなことないんだよ。転生なんてしなくても、少しでも視野を広げるだけで、世界は無限に広がる。君達が自分らしく生きられる世界が、きっとあるはずなんだ。』


今の自分を、人生を、世界を変えるのに、自殺する必要も、異世界に転生する必要もない。

きっと、ほんの少しだけ視点を変えるだけでいいのだ。

視点を変えれば、視界が変わる。視界が変われば、世界も変わる。

嫌なことからは、逃げてもいい。

逃げた先でも、必ず新しい何かが待っているから。

大切なのは、自分が心から大切にしたいと思える世界を見つけること。

そして、そこで自分に恥じないように生きること。


私は、それを異世界での冒険を通じて知った。

大切な人の為なら恐怖にだって立ち向かえることを知った。

誰かに認めてもらうことの喜びを知った。

こんな自分でも、誰かの為に頑張れることを知った。

そして、こんな自分のことを仲間だと呼んでくれる人達に出会えた。

弱い自分のことが大嫌いだったけれど、そんな自分を仲間だと言ってくれた人達のおかげで、少しだけ自分のことが好きになれたような気がした。

自らの否定は、自分を仲間と呼んでくれた人達の否定にも繋がる。

そう考えると、仲間に恥じない自分であろうと思った。そうしているうちに、いつのまにか今の場所に、この美しい世界に、たどり着いていたのだった。



手足はすっかり冷え切っていたけれど、まだ室内には戻らない。

あの山の間から朝陽が差す瞬間が見たい。

新しい一日の、新しい世界の、はじまりを。


朝日を待ちながら、今日一日のスケジュールを思い浮かべる。

今日も朝から会議で、その後は雑誌のインタビュー。家に帰ったら、今日の分の動画配信もしなければならない。

忙しくも充実したこの毎日は、間違いなく自らの手でつかみ取ったもの。


異世界から帰ってきてからは、必死に勉強した。

名門とされる大学に入学し、人脈を広げた。

自殺未遂の経験と異世界転生で得た気付きを文字に残す為に始めたブログが有名になり、その派生で悩み相談に応じる動画配信も始めて、今ではたくさんの人に認知してもらえるようになった。

それは富や名声の為ではなかったけれど、いつの間にかテレビ出演のオファーが来たり、都内の高層マンションに住めるくらいになっていた。自ら命を断とうとしたあの頃の自分が今の自分を見たら、驚くだけでは済まないだろう。



とうとう、山間から太陽が顔を出す。

わずかに残った藍色の空が駆逐され、世界は新しい一日に染め上げられる。

それは少し悲しい気もしたけれど、とてもきれいな光景だった。


今となっては名前を思い出すことできない、あの異世界の仲間達を思い出す。

異世界で経験したことは確かに覚えているはずなのに、その世界で知り合った人の名前や顔を思い出すことはできなかった。まるで、誰かが意図的に記憶を改竄したみたいに。

そのことに寂しさや罪悪感を覚えることもあったけれど、あの日々から六年が経った今となっては、もう仕方がないことだと割り切っていた。


大切なのは顔や名前などの記号ではなく、その世界でその人達と心を通わせたことの記憶だけだ。

名前も顔も思い出せなくても、重ねた体のあたたかさを、触れた唇の感触を、通わせ合った心を、覚えていればいい。


冷え切った体を引きずるようにして、室内に戻る。

最後に一滴だけ流れた涙は、朝陽を直視し過ぎて目が乾いたからだと、自分に言い聞かせる。

ガラス戸を閉めるのと、ベッドサイドのスマートフォンからアラーム音が轟くのがほとんど同時だった。

このアラームを止めるところから、私の一日は始まる。一度始まってしまえば、もう異世界のことを思い出す暇すらない忙しい一日が。

それでも、私は躊躇うことなくアラームを止める。

自分がやるべきことをやる為に。

今日も一日、自分の世界で生きていく為に。


枕元に置いてある香水の瓶を手に取り、手首と首筋に吹き付ける。

それは、初夏の草原を思わせる、爽やかな香り。

初めてできた同性の友達につけてもらった、恋のおまじない。

今は名前も思い出せない、あの愛らしい友達に心の中で呼びかける。



約束したもんね。私達、世界が離れてもずっと友達だもんね。




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