Ⅴ 第二開拓地
◇
「おはよう。よく眠れて…はいないみたいだな。」
開口一番に、ユージンが半ば呆れたような口調で言った。
あの後、ユーリに縋りついたまま眠ってしまったリルリをどう頑張っても引きはがせなかったので、ユーリはまた眠れない夜を過ごした。当の本人であるリルリがすっきりつやつやとした顔をしているのが、ユーリはどうしても納得いかない。
早朝のまだ人がまばらなギルドにて火竜討伐のクエストを受注し、一行は街の北側出口、ユーリとリルリが入ってきた門と真逆の門へと向かう。
北側の門はユージン達の宿のすぐ傍、農地の中にあった。街はまだまだ人気がなかったのに対して、農地の人々はすでに目覚めて作業に取り掛かっている。
「さて、この門の向こうは、すぐに魔獣の生息域だ。私とキョウカとしては、もうすでに最低限の目的を果たせているので、君達がここで解散したいというのならそれもかまわない。もちろん、我々としては戦力が増える方が心強い、というのが正直なところだが。」
ユージンの言葉に嘘がないことは、目を見ればわかった。その後ろに立つキョウカも、ユーリの隣に立っているリルリも、ユーリの顔を見つめている。そっと手首に触れてきたリルリと一度だけ目を合わせると、リルリは静かに頷いた。
「とりあえず、一緒に行こう。お手並み、拝見させてもらうよ。」
ユーリが告げると、ユージンはわずかに表情を崩した。それは、どうやらユージンなりの笑顔らしく、彼がユーリの前で初めて見せた笑顔だった。後ろに立っているキョウカも、表情には出さなくとも安堵しているようだった。
「では、行こうか。火竜の巣まで、早ければ二日もかかるまい。できれば、今日中にオウルベアの生息域は抜けておきたいところだが。」
ある程度の土地勘があるユージンが先導し、そのすぐ後ろにキョウカ、少し距離を空けてユーリとリルリが続く。
集団行動は苦手なはずなのに、ユーリは少しだけ高揚している自分に気が付いていた。昨日知り合ったばかりの人間と行動を共にするなんて、ましてや命を預け合う関係になるなんて、今までのユーリなら考えもしなかっただろう。
ここがユーリにとって異世界で、こうしてパーティーを組むのが本物のRPGみたいだと感じているから、なのかもしれない。ユーリは自らの高揚をそんな風に分析していて、リルリだけがその横顔をいつまでも見ていた。
背後に街の門が見えなくなったと同時に、街道脇に大きな岩が鎮座していた。人を襲う魔獣の生息域に入った合図だ。
「来るぞ。数は、三、いや、四匹。」
ユージンが小さくつぶやくのと同時に、キョウカが走り出す。
その反応速度はすさまじく、ユーリですら目で追うのがやっとだった。履いているのが昨日と同じハイヒールということに、ユーリは更に驚かされる。
そして、一団から少し距離をとったキョウカをめがけて、四つの影が一斉に襲い掛かる。それはキョウカの影を見て、思わず飛び掛かったように見えた。ひらひらと翻るキョウカの衣服に、狩猟本能を刺激されたのかもしれない。
ユーリの隣で、リルリが息を呑む。しかし、ユージンは全く動じることなく、メイスを胸の前で構えて静観しているように見えた。その視線の先では、キョウカが鮮やかな側転で敵の一撃を躱している。
太刀に手をかけたままのユーリは、敵を目視で確認する。
見た目は、ほぼ熊だ。その太い腕と鋭い爪につかまれば致命傷は避けられないだろう。ただ、首から上は熊のそれではなく、どう見てもフクロウだった。フクロウはその大きな目と発達した耳で、索敵に長けている。なるほど、それで
四匹のオウルベアの猛攻を、キョウカは紙一重で躱し続ける。その合間を縫うようにハイヒールで穿つような蹴りが加えられるが、どれも決定打にはならない。
「ユージン。俺も加勢すべきか?」
ユーリは黙したままのユージンに尋ねる。ユーリの参戦によって、キョウカとユージン間の連携に齟齬が生じる可能性への配慮だ。
「可能であれば、二匹ほど黙らせてもらいたい。お手並み拝見、といこうか。」
不敵な笑みを浮かべるユージンに対して、ユーリも笑みを返す。
オウルベアは、前に戦った狼のように連携をするタイプではないらしく、個々が思い思いに攻撃を繰り出している。その対象は自らよりもはるかに小柄なキョウカなので、流れに乗り遅れた一匹が必然的に集団からはみ出す形になる。
「まず、一匹!」
異能で強化された右足で踏み込んだユーリは、一足で集団からあぶれたオウルベアの懐へと入り込む。依然として三体の猛攻を躱し続けるキョウカがそれに気づいた時には、すでにユーリの太刀がオウルベアの巨体を両断していた。残りの三匹が突然の闖入者に驚いている間に、ユーリは右足で上空へと跳躍する。そのまま右足で空を蹴り、急降下。重力を伴った右足の踵をオウルベアの頭に打ち付けた。靴の底を通して、頭蓋骨が砕ける感触が伝わってくる。
残りは二匹。
戦闘のリズムが崩れたキョウカが、意図的に距離をとる。これくらいなら、俺一人でもやれる、そう思って右足に力を込めたユーリを引き留めたのは、リルリの声だった。
「ユーリ、ストップ!」
その声の直後、ユーリの顔の横を一閃の炎が掠めていく。
リルリの短剣の先から迸った炎はオウルベアの足に直撃し、一匹が膝をつく。その隙を見逃さないキョウカがもう一匹の足を思いきり踏みつけた。けたたましい叫び声をあげて、もう一匹もうずくまる。
「いいタイミングだ、キョウカ。」
ずっと沈黙していたユージンが、メイスを頭上に掲げた。その刹那、上空から飛来した巨大な炎の塊がうずくまる二匹のオウルベアに直撃した。爆炎が晴れた後、そこには骨すら残っていなかった。
「ふう。ユーリ、あなたやるじゃない。」
乱れた髪を整えながら、キョウカが言う。その仕草も、意識しなければ見とれてしまいそうなほど美しい。
「キョウカも、すごいな。こんなに華麗なタンク職、どのゲームでも見たことないよ。」
太刀を一振りして付着した血を払いながら、ユーリもキョウカを称賛する。
「ユーリは異能による右足の超強化と、太刀による剣術か。右足で踏み切ることによって斬撃の威力も上げている訳だな。リルリの魔法は、私よりも使い勝手が良さそうだ。短剣を媒介にすることによって、その精度と威力を上げている、といったところか。」
ユージンが確認の為にあえて言葉にして解説する。たった一度の戦闘でそこまで見抜くのは、並の洞察力では不可能だろう。
「おおむね正解。でも、わたしの本領はこっち。」
リルリが、おもむろにキョウカの手を取る。
キョウカのその手には、一筋の切り傷が走っていた。傷は深くないとはいえ、痛みを感じないほど浅くもない。リルリが傷口に手をかざすと、緑色の光がキョウカの傷口を包んだ。
「回復、魔法?」
キョウカが恐る恐る尋ねる。その表情から、傷口の痛みが消えていることが分かった。
「一応、そう。自然治癒力を高めつつ、痛みを緩和するだけで、厳密には傷を治すわけじゃないんだけどね。だから、しばらくは激しく動かしちゃだめだよ。」
リルリはいつも身に着けている腰のポーチから傷薬を取り出し、キョウカの傷口に塗布する。手際よく包帯を巻いてから、これでよし、とキョウカに微笑みかけた。
「ちなみに、キョウカの異能は敵の攻撃を引き付けるところにあって、その攻撃を避けることができているのは、転生者特有の身体能力の向上によるところが大きい。違うか?」
リルリの回復魔法に驚いている二人に、ユーリが尋ねる。このままだと、キョウカとユージンの能力について解説が得られないと思ったからだ。
「あたり。惹きつけている相手の視線も感じ取れるから、大概の攻撃は避けれると思う。防御力が強化されているわけではないから、避けられなかった場合のことは考えたくないわね。」
キョウカが肩を竦める。その様子だと、今まで避けられなかったことはないのだろう。
「ユージンは、メイスを媒介にした魔法攻撃。詠唱の時間がかかるのと、座標を固定した攻撃しかできないものの、その火力は絶大、ってとこか。」
「流石、としか言いようがないな。全ておっしゃる通りだ。私とキョウカの基本戦術は、キョウカに惹きつけてもらっている間に詠唱を行い、キョウカが指定座標までおびき寄せて魔法で一掃、というものだ。どうだろう、我々と組むメリットは、感じてもらえたかな?」
尋ねるユージンの口端には、少しだけ笑みが滲んでいた。
尋ねなくてもわかることを、あえて尋ねている。ただ、それはこれから先の互いの関係においてはとても重要なことでもあった。
「俺なら、キョウカが作ってくれた隙があれば確実に敵を仕留められるし、足止めするにしても近接が二人居た方が楽だろう。それに、リルリが居ればキョウカも安心して攻撃を受けられるんじゃないか?」
ユーリが言う。既に相手の実力を認めているリルリは、得意げな顔でキョウカを見つめていた。ふんすっ、と荒くなった鼻息まで聞こえてきそうだ。
「いくら回復してもらえるとしても、攻撃は受けたくないわよ。」
わざとらしく溜息をつくキョウカ。しかし、そこにはすでに敵意がない。
「では、改めて、よろしく頼む。ユーリ、リルリ。」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
ユーリとリルリの声は、自然と重なっていた。
◇
いったい、何匹のオウルベアを倒したのだろう。
四十?五十?そろそろ数えるのを諦めようかというタイミングで、例の大岩が現れた。
率先して攻撃を行うユーリと、常に敵に狙われ続けていたキョウカが、同時に大きな溜息をつく。運動量が多い二人の体には、さすがに疲労が蓄積していた。
「今日は、ここまでにしよう。ユーリとキョウカのおかげで、思っていたよりも進捗が良い。多少休んでも遅れは出ないだろう。ちょうど、近くに小屋もあるはずだ。」
ユージンの先導に従って街道を外れていくと、確かに小屋があった。
多少古びてはいるが、使用に問題はなさそうだ。小屋の中には人数分のベッドがあり、清潔なシーツまでかけてある。
「第二開拓地の開拓組用に作られた小屋だから、比較的手入れがされているようだな。」
小屋の中を一通り確認したユージンが言う。
「開拓組?こんな僻地まで、開拓に訪れる人が居るの?」
「ええ。イシュの街は工業が発展しているけれど、その一方で土地は痩せているから、常に食糧不足なの。それを補うために、街から離れた肥沃な土地を開墾する政策が採られている。その開拓の妨げになっているのが、今回の火竜よ。」
リルリの疑問に答えたのはキョウカだった。二人の間にあった険悪な雰囲気は、今やすっかりなくなっている。
「なるほどな。それが今回の火竜討伐のきっかけか。」
「そういうことだ。今年は雨が少なかったから、食糧不足は例年にも増して深刻になるだろう。急がなければ、多くの民が飢えることになる。」
ユージンの声には焦りが滲んでいて、ユーリは再び火竜討伐への意志を固くする。知ってしまったからには、もう後戻りはできない。
「深刻な話もいいけど、まずは食事にしない?」
「さんせーい。わたし、もうおなかぺこぺこだよ。」
「食事は、私が用意しよう。パーティー結成を祝して、イシュ流のもてなしをさせてもらうよ。」
建設的な提案をするキョウカと、場の空気を柔らかくするリルリ、そして最終決定を下すのは常に冷静沈着なユージン。なるほど、本当に良いパーティーかもしれない。ユーリは輪の外から冷静に分析する。
「ユーリは薪を集めてくる!はい、ダッシュ!」
「ついでに川の水を汲んできてくれないか。南東の方角に川があるはずだ。」
「どうせなら、食後のデザートになる木の実も欲しいわね。」
自分の役割が雑用係に定まりそうなことに一抹の不安を覚えながらも、ユーリは全員の要望を叶えるべく走り回るしかなかった。
◇
ユージンの作る食事は、とてもおいしかった。レキの村とはまた違う、肉が中心の精がつく感じの料理。肉に独特の歯ごたえと、少し癖があるのだけが気になる。
「これは、何の肉なんだ?」
「今日さんざん狩った、オウルベアだ。ユーリが斬ってくれたおかげで、調理の手間が省けたよ。」
説明するユージンは得意げだったが、それを聞いた途端にユーリとリルリの手は止まる。振り下ろされる強靭な腕と鋭い爪、獲物を求めてぎらつくあの瞳を、どうしても思い出してしまう。
「…だからキョウカはあんまり食べてなかったのね。」
ユーリが拾ってきた果物をかじりながら、キョウカがにっこりと笑う。
ユーリが転生してくる前に居た世界なら、そのままテレビCMに出れそうなほど絵になっていた。
「キョウカは、転生者なんだよな。転生する前の世界のことを覚えているか?」
全員の食事の手が止まっていることを確認してから、ユーリはキョウカに尋ねた。
「いいえ。ほとんど何も。なんとなく覚えているのは、この世界よりも文明が進んだところで生きていたことと、その世界で自分が死んでしまったらしいこと、くらいかしら。もっとも、その両方についても具体的な記憶はなくて、そんな気がする、程度のものよ。」
「私が知る限り、転生者は元の世界のことをほとんど覚えていない。普通の人間が前世の記憶を持っていないのと同じなのだろう。共通しているのは、ここではない世界について、知識としての記憶が残っていること。個人の体験や思い出など、いわゆるエピソード記憶が欠落していること。そして、それが不確かであったとしても、死の記憶を有していること、だ。」
ユージンが、キョウカをフォローするように補足する。
「その言い方だと、ユージンは俺とキョウカ以外にも多くの転生者と関わってきたんだな。」
「ああ。イシュは大きな街ということもあって、転生者の数は多い。具体的には、そうだな、昨日ギルドの中にいた冒険者の半分くらいがそれだと思ってもらっていい。もっとも、ユーリやキョウカほどの強力な
説明をしながら、ユージンは金属製の容器から飴色の液体をグラスに注ぎ、舐めるように味わっている。どうやらアルコールらしいそれを、リルリが物欲しそうな目で見ていた。
「レキの村にも、時々転生者が来てたよ。ユーリの前の人は、ユーリが来る半年くらい前だったかな。異能を持たない人はそのまま農業に従事して、異能を持った人はすぐにイシュに流れて行っちゃう。レキじゃ異能を生かせる環境がないから、仕方ないんだけどね。…あら!これおいしいね!」
ユージンに酒を分けてもらったリルリは、発言によって乾いた唇を潤すように飴色の液体を舐める。頼むから、飲み過ぎるのだけはやめてほしいと、ユーリは切実に祈っていた。
「その転生者が、どこから来るのか、なんでこの世界に転生してくるのか、肝心なことはわからないのよね?少なくとも、私は何も覚えていないのだけど。」
暖炉に追加の薪をくべながら、キョウカが尋ねる。その目線は、同じ転生者であるユーリへと向けられていた。
「俺も、何も覚えていない。たしか、レキの村の外れに倒れているのを、リルリが拾ってくれた、だっけか?」
血に染まった両手のことを話さないことに若干の後ろめたさを抱えながら、ユーリはリルリに話題を振る。
うん、そうだよぉ、と返事をするリルリは、すでに語尾が甘い。その据わりかけている目に向かって批判的な視線を送ると、リルリはすぐに目を逸らした。
「キョウカも、似たようなものだ。イシュの門外で倒れているところを、私が保護した。」
その節はどうも、とキョウカがおどける。舞い踊る暖炉の火が、その美しい横顔をはかなげに照らしていた。わずかに口角を上げてから、ユージンは言葉を続ける。
「私が出会った中には、自分が転生前の記憶や、転生してきたことの理由について、覚えている者は居なかった。ただ、一人だけ、気になることを言っていた奴が居た。」
「気になること?」
暖炉脇の壁にもたれかかっていたキョウカが、わずかに身を乗り出す。どうやら、キョウカですら聞いたことのない話らしい。
「ああ。ただ一言、『呼ばれたのかもしれない』、と。」
呼ばれた…、ユーリは小さくつぶやく。
この世界に存在する何者かに、呼び寄せられた。それはユーリがこれまで考えたことすらない可能性だった。
「その人、今どうしてるの?詳しい話を聞けたら、ユーリも何か思い出すかも、」
「死んだよ。我々がこれから討伐しようとしている火竜にやられて。そのパーティーが、最初の犠牲者だった。」
ユージンの言葉に、小屋の中は静まり返る。パチパチと薪が爆ぜる音が、やけにうるさい。
「…仮に、そいつの言っていたことが正しかったとして、誰に呼ばれたって言うんだ?それも、何の為に?」
思わず口から漏れた疑問の行く先を求めて、ユーリは縋るようにユージンを見る。
「私にも、わからない。ただ、その男は誰よりも早く火竜討伐に志願し、相当な意欲を燃やしていたようだ。もしかしたら、使命感みたいなものに駆られていたのかもしれないな。今となっては、真相を知りようもないが。」
「その辺にしておきましょう。」
口を開いたのはキョウカだった。
「私もユーリも何も覚えていない以上、呼ばれた可能性や、その理由を考えることに意味はないと思う。むしろ、思い込みや先入観は咄嗟の判断を鈍らせるかもしれない。その一瞬の迷いは、私やユーリのような近接組にとって命取りになりかねないわ。」
ちがう?と言外に問いかけてくるキョウカの視線に、ユーリは頷く。
「呼ばれたとか、理由とか、そんなの関係ない。私は、私の意志で火竜を討伐する。ユージンには悪いけど、それは街の為でも、誰の為でもない。私が、私の為に、私の意志で戦うの。もちろん、パーティーを組んでいる以上みんなの事は守る。それでも、そこだけは譲れないわ。」
キョウカの発言で、小屋の中は静まり返る。
それでも、キョウカの瞳に映る意志は決してぶれない。自らの信念に沿ってまっすぐに立っているキョウカは、異能に関係なく美しかった。
「念の為に確認するが、今のキョウカの発言に異論がある者は?」
ユーリとリルリは、同時に首を横に振る。
わずかとはいえ興奮を隠せていないキョウカを諫めるように、ユージンがその手首を握っていた。握られているキョウカも、その手を振り払ったりはしない。
「キョウカは、元の世界に帰りたいんだな」
それは、ユーリの思考を介することなく口から漏れていた。
「当たり前じゃない。ここは、私の住む世界ではないのだから。」
一瞬の逡巡も見せずに断言するキョウカのまっすぐな視線から、ユーリは思わず目を逸らしていた。
◇
小屋の外で焚火が爆ぜる音を聞きながら、ユーリは流れ落ちる砂をじっと見つめていた。それはユージンに渡された砂時計で、全ての砂が下に落ちたら見張りを交代する約束になっている。
絶え間なく流れ落ちていく砂を見ていると、不思議と心が落ち着いた。
この世界に来てから時間を数値化ないし目視化する機会がなかったので、ユーリは久しぶりに時間というものに縛られる感覚を噛み締めていた。一定の間隔で動き続ける針や、こうして流れ落ちる砂を見続けていない限りは計ることができない曖昧なものに縛られていた転生前の自分が、なんだか滑稽に思えてくる。
焚火の音だけが闇へと響く、静かな夜だった。
周囲に獣の気配はなく、時折吹いてくる風が少し冷たい。気温が低い故に澄んでいるように感じられる空気の層の上に、レキの村と同じく満天の星空が広がっていた。
「いつも星ばっかり見て、よく飽きないね。」
声の方向に視線を向けると、リルリが小屋の扉を静かに閉めているところだった。
「眠れないのか?」
「うん。やっぱり、たったあれっぽっちのお酒じゃあ…」
咎めるような視線を送ると、冗談だってば、とリルリが笑う。ユーリの隣に腰かけたその横顔は焚火に照らされ、憂いにも見える陰影を揺らめかせた。
「ユーリ、今日はお疲れ様。」
「ああ、確かに疲れた。オウルベア、あんなに沢山いると思わなかった。」
「そうじゃなくて、」
リルリがじっとユーリの顔を見つめる。何か探るような、あるいは、心配するような。ユーリがその詮索するような視線に不快感を覚えなかったのは、相手がリルリだったからだ。
「どうだった?初めてのパーティー。」
リルリが、ふっと視線を緩ませる。きっと、ユーリの表情から正しく情報を読み取り、安堵したのだろう。隠し事はできないな、とユーリは観念する。
「正直、思っていたよりもずっと良かった。俺とリルリの二人だけだったら、あのオウルベアの生息域を無傷で抜けることはできなかったと思う。」
リルリが頷く。しかし、視線で続きを促すその表情には、意地の悪い含み笑いが滲んでいる。
「それに、みんなで話をするのは、思ったより楽しかった。集団行動は苦手だから避け続けてきたけど、こうしてパーティーを組まないとわからないこともあるんだな。」
それは、心の底からの言葉だった。常に冷静で頼りになるユージンと、凛とした中に時折覗かせる人間らしさが微笑ましいキョウカ。出会ってまだ二日しか経っていないのに、すでにユーリは二人のことを大切な仲間だと思っていた。リルリと同様、二人のことも守りたいと思っている今の心境が、その証であるように思えた。
「それは、ユーリにとってとても良い変化だと思う。わたしも、ユージンとキョウカのこと好きだし。」
「最初はあんなに嫌っていたのに?」
今度はユーリが意地悪く微笑む番だった。
「最初は、ね。でも、今日ずっと見てたら、色々分かったの。だから、もう大丈夫。」
そう言って笑うリルリの笑顔は、いつもとは少し違ったニュアンスを含んでいる気がした。華やか?恥じらい?どこかうっとりしているようにも見えるその感情の正体が、ユーリにはわからない。
「ユーリには、わかんないよね。鈍いから。」
ユーリは肩を竦めて、降参の意を示す。
リルリの言う通り、ユーリには説明されてもわからないことのような気がした。そして、無理して理解する必要もない気がした。
「ねぇ、ユーリはさっきの話、どう思う?」
不意に、リルリが真面目な声を出した。その表情からはさっきの甘やかさは消え去っていて、まっすぐな目でユーリを見つめている。
「転生者が、呼ばれたかもしれない、って話か。」
リルリが頷く。
「正直、誰かに、あるいは何かに呼ばれた可能性なんて、考えたこともなかった。そして、今だってその考え方にしっくり来ているわけでもない。…元に居た世界で流行っていたんだ。異世界に転生して、何かを成し遂げるという形式の物語。そんな物語みたいに、あっちの世界で死んだからこっちに転生、いや、移動してきた、くらいにしか思っていなかったから。」
「そういう類の物語は、どういう結末を迎えるの?」
「異世界で何かを成し遂げた主人公が、元の世界に帰還するのが多い、気がする。もしくは、異世界に馴染んでのんびり生きていくパターンも多いな。」
「何かを…成し遂げる…。」
リルリが深刻な顔のまま、目を伏せて黙考する。
「この世界で言うなら、火竜討伐がそれにあたるのかもな。転生者達は火竜を討伐する為にこの世界に呼ばれたってわけだ。火竜はRPGで言うなら、ラスボス、だろうな。ラスボスを倒したら、もうその異世界は終わり。ゲームクリアだ。」
「火竜を倒したら、ユーリやキョウカは元の世界に帰れるってこと?」
「よくあるゲームや、所謂『異世界転生モノ』で言えば、そういうことになるな。テンプレートと言って良いほどに、確立された筋書きではある。ただ、この世界はゲームじゃないし、そんな単純な物語でもない。実際にリルリやユージンみたいに人が生きていて、その命が火竜によって奪われている。」
リルリは目を伏せて黙ったままだ。どこか悲しげに見えるのは、ユーリの気のせいだろうか。
「キョウカも言ってただろ?呼ばれたとか、異世界とか、そんなの関係ない。俺も俺の意志で火竜を倒すよ。火竜によって奪われる命も、食糧不足に喘ぐイシュも、見過ごすことなんてできない。それが節理だからって、奪われる人達が居るのは納得できない。」
自らに言い聞かせるかのように、ユーリは言葉を紡ぐ。
「どっちにしたって、火竜は倒さなければならない。火竜を倒せなければ犠牲者は増える一方だし、大勢の人が飢える。仮に転生者達が本当に火竜討伐の為に呼ばれてきたのだとしても、そんな使命はほとんどおまけみたいなもので、必要だから火竜を倒すことには変わりない。元の世界に帰還するエンディングにするか、この世界に永住エンドにするかは、倒した後に考えるさ。」
リルリへと言葉を紡ぎながら、ユーリは自らの胸中が整理されていくのを感じていた。他者との対話がそのまま自己を見つめなおす機会になることを、ユーリはこの時初めて知った。
「ユーリは、やっぱり優しいね。でも、その優しさの為に自分を犠牲にするのは、やめてね。ユーリが傷つくことで、傷つく人だっているんだから。」
そして、リルリはいつだってお見通しなのだった。
ユーリが命に代えてもリルリのことを守ろうとしていること。
だからこそ不安を抑え込んでパーティーを組んだこと。
今となってはユージンもキョウカも守りたいと思っていること。
それらを守る為なら、自らの命なんて軽いと思っていること。
きっと、リルリは全部気付いている。だから、こんなにも優しくて、こんなにも悲しい顔をしているのかもしれない。
「優しさに殺されちゃったら、意味ないんだから」
突然強い風が吹いて、リルリの言葉がかき消される。ユーリに、その言葉は届かなかった。
「何か言ったか?」
「ううん。そろそろ寝るね。また明日。」
有無を言わせない口調で話を断ち切り、リルリが立ち上がる。砂時計の砂はとっくに全て落ちていたけれど、ユーリはしばらくそのまま動けずにいた。
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