我は風邪の子
思えば今日の橘花は朝から少し様子がおかしかった。
いや、おかしいといえば普段からおかしな奴ではあるのだが、決してそういう話ではなく、どことなくぼんやりとしていた。
登校中には電柱にぶつかり、学校に着いたら教室を通りすぎ、教室では俺のことを「天花寺」と呼び間違え。
どうしたのかと内心不安に思いつつも三限目まで過ごしたところで、「ちょっとお風呂食べてくるね」と謎の言葉を残して教室を出ていき、そのまま戻って来なかった。
そうして、ちょうど昼休憩も半ばに差し掛かった時だ。橘花の行方を気にしつつも、食事を済ませて咲花と雑談に興じていた俺のところへ養護教諭がやって来たのは。
「「早退?」」
「うん。君ら二人に伝えてくれってさ」
養護教諭の相花雅先生はそう言うと、参った様子で頬を掻いた。
「保健室に来た時点でかなりの高熱だったんだよ。すぐに誰かしら迎えに来てもらった方がいいって言ったんだけど、一人で帰るの一点張りでね」
「あー……」
「まあ、そう言うだろうなあ」
橘花は一人暮らし。加えて親が離婚していて、一応は父親に親権があるものの、両親ともに疎遠だ。自然、橘花が頼れる人間というのはごく限られてくる。
「私の方でも彼女のお家の事情は把握してるから、取りあえず自宅までは送り届けたけど」
「雅先生って車持ってたっけ?」
「いや、学校の借りた。持ってるわけないでしょそんな高いもん。養護教諭よ?」
「だから何なの?」
そこは別にイコールで成り立たないだろう。この人にお金がないのは主に酒と煙草のせいだろう。どうしようもないなこの人。
そんなのはさて置くとして、今は橘花だ。橘花が早退したと俺たちに伝言を残した理由。それは至ってシンプルだ。あれこれと熟考する必要もない。
示し合わせたように、全く同じタイミングで立ち上がる。それを見た相花先生はぎょっとしていた。
「どうする?」
「とりあえず買い出し。適当に薬局とか寄って行くか」
「了解。荷物取ってくる」
「先降りてる。校門で待ってるわ」
「はいよ」
駆けていく咲花の背中へ、「廊下を走んな」と投げ掛けつつ俺も荷物をまとめる。前の席、つまりは橘花の席に置いたままのリュックを持つ──軽い、余りにも軽すぎる。こいつ学校に何しに来たんだ。財布とスマホくらいしか入ってないんじゃないか。
「君ら本当に仲良いねえ」
苦い笑みを浮かべつつ、相花先生はそうこぼした。
教職である手前、学校をサボろうとするのは見過ごし難いが、橘花の現状を考えると仕方ないところもある、といった思考だろうか。そもそもこの人も、俺らがこういう行動に出るとわかっていて話しているだろう。
「別に仲良いわけではないですけど、今日のところは見逃してもらえると」
「はいはい、上手いこと誤魔化しとくよ」
「早く行ってあげな」と手を振る先生に頭を下げ、俺も教室を後にした。
× × ×
朝起きたときから、なんか身体が重いなあとは感じていた。でもまさか、熱があるとは思わなかった。
激しい頭痛と嘔気を必死に堪え、花霞に何かを言ってから教室を出たのはぼんやり記憶しているけれど、その後のことははっきりと覚えていない。本当に色んなことが曖昧になっている。
次に私の意識が浮上した時、私は自室のベッドに横たわっていた。知らない天井だとほんの一瞬思ってしまったのは、花霞の家に入り浸り過ぎている故だろう。
重い身体を無理やり起こすと、倦怠感と発汗に伴う不快感が一気に押し寄せてきた。パジャマも汗まみれだし、とにかくシャワーを浴びたい。あとよく分かんないけどおでこが痛い。
「あ、起きた」
耳に馴染みのある声がして、そちらを見やれば胡座をかいてスマホを眺めている咲花の姿。テーブルにはスナック菓子の袋があって、どうやら咲花が食べていたらしい。
次いで部屋のドアが開かれて、ビニール袋を持った花霞が入ってくる。「起きたのか」と何でもないように言って、テーブルを挟んで咲花の向かいに座った。
コンビニにでも行っていたのだろうか、袋からペットボトルを一本取り出して咲花へと手渡す。ラベルを見るに炭酸水だ。
私には「水分摂っとけ」とスポーツドリンク。素直に受け取っておく。
そうして最後におにぎりと緑茶をテーブルに並べ、「いただきます」と行儀よく手を合わせ食べ始める。
ここに至ってようやく思考が追い付いてきて、疑問を口にすることが出来た。
「……今、何時?」
「二時くらい。夜中の」
「風邪引いてる時って深夜に目覚めがちだよな」
「わかるー」
気の抜けた会話をする二人に、追加の疑問を投げ掛ける。
「二人はなにしてんの……?」
「何って」
「言われてもなあ」と、本当に心から不思議そうな顔をする咲花と、「ちりめん山椒って最強だよな」とおにぎりを頬張る花霞。話聞いてないなこの男。
「花霞それ一口くれよ」
「お前の一口はでかいから嫌だ」
「さっきポッキー一本やったじゃん」
「なんでポッキー一本とおにぎりの一口が釣り合うと思ってるんだよ」
「花霞ポッキー好きだろ」
「主食と菓子には越えられない壁があるだろ」
「頭痛くなるから中身のない話しないでくれる?」
痛くなるというか既に頭は痛いんだけども、深夜に男二人の空っぽの会話を聞いているともっと変になりそうだ。
「じゃあ黙って寝てろよ病人」
「もっと優しく言え、馬鹿」
「俺に優しさを求めのが間違いだろ」
「とか言ってるけどさ。今日の花霞は室温気にしたり冷えピタ代えたり、けっこう甲斐甲斐しいよな」
「……知らね」
「橘花、玄関でうつ伏せでぶっ倒れててさ。それ見てめちゃくちゃ焦ってたのも珍しかったなー」
「お前もう本当に喋んな」
物理的に咲花の口を塞ごうと掴みかかる花霞。埃が立つし頭痛いから暴れないでほしい。そうか、倒れてぶつけたからおでこ痛いんだ。納得。
それよりも、わかってはいたけれどやっぱり二人が看病してくれていたらしい。学校とか抜けて来たんだろうなあと思うと、ほんの少しくらいは申し訳なさもある。
咲花は普段から面倒見がいいし、花霞が口ではあれこれ言うけど、本当に薄情ではないことは私も知っている。素直じゃない男なのだ。
というかこの人たち、どうやってここまで来たんだろう。うちのマンションオートロックなんだけど。
そんな疑問を察してか、いつの間にか一悶着を終えた二人は、各々お菓子をつまんだりお茶を飲んだりしながら話し出した。
「いやあ、ここに来るまでは調子良かったんだけどな。そもそもオートロックで入れねえって問題に直面したんだよ」
「まあ居合わせた管理人さんに入れてもらった訳だが」
「入れてくれたの? セキュリティガバガバ過ぎない?」
「いや実際はめちゃくちゃ揉めた。具体的にはエントランスで三十分くらい」
「危うく通報されるところだったなあ」
そりゃそうだ。
「どうやって説得したの?」
「説得っていうか、たまたま通りかかった他の住人が加勢してくれた。俺らが一緒にいたところを見てたらしい」
「たぶん大学生くらいの、仲良さそうなカップルだったな。橘花のこと知ってる風だったけど知り合いか?」
「あ、喜寿屋さんだ。あの人たち兄妹だよ」
「「マジで!?」」
大音声と共にこちらへばっと顔を向ける二人。頭痛に響くからやめてほしい。
まあ厳密にいえば従兄妹だけど、それは誤差の範囲だろう。それに黙っていた方が面白そうだ。
「めちゃくちゃ腕組んでたぞあの二人」
「付き合ってるらしいよ。家族に内緒で」
「時代だなあ」としみじみ呟く男二人に、私は「なにそれ」と呆れ顔を返す。
──そんなふうにしばらく談笑に興じていたところ、私はとあることに気づいてしまった。
先ほど咲花は、私が玄関で倒れていたと話した。ベッドまで運んでくれたのも二人だろう。本当にありがたい話だ。
そして気になってしまったのはその先。
「ねえ二人とも」
「ん?」
「何?」
「私着替えてるんだけど、これも二人がやったの?」
「「…………………………」」
目を逸らして黙り込む男たち。一瞬死んでしまったのかと思うほどの静寂。生命の息吹すら感じられなくなるような重い沈黙に、私は苦笑いを返した。
「……あの」
「予め言っておくけど、俺たちは何も見ていない」
「そうだな」
じゃあ私の目を見て言えばいいだろうに。目を逸らすってことは後ろめたいことがある証拠なんだと思うけども。
じっと見つめる私に、二人は依然として顔を向けない。突然重くなった空気に耐えきれなくなったらしい花霞は、ばつが悪そうに溜め息を吐いてから言った。
「着替えさせたのは天花寺だよ」
「え、天花寺も来てたの?」
「いろいろと考えた末の苦肉の策だけどな」
「ちなみに他の候補は誰かいたの?」
「うちの母さんか、咲花の妹」
「でも花霞のお母さんは仕事中だし、菫もまだ授業中だったしな」
「いや、天花寺も学校でしょ」
「そうなんだけど、たまたま自習の時間だったらしくてさ。割りとすぐ来てくれたんだよ」
確かにその条件なら天花寺をチョイスしたのは頷ける。非常に合理的な判断だ。
「で、天花寺から伝言なんだけど」
「うん?」
「『貸しだからね菜々美』だそうです」
「…………ああ」
なるほど、私の許可なく天花寺に対して借りを作ってしまったことを後ろめたく思っていたのか。それならばさっきの意味不明な沈黙にも納得出来る。
そっか、天花寺に借りが出来てしまったのか、それは嫌だなあ。どうやって返せばいいのか検討もつかない。
「それだったら二人に裸見られた方がマシだった可能性あるなあ……」
溢した呟きに咲花は「嫁入り前なんだからよくないだろ」と至極まともなリアクション。対して花霞は「見たくもねえよ」とげんなりしつつぼやく。本当に失礼だなこいつ、私意外と着痩せするんだぞ。
いつもみたいに食ってかかろうとしたけど、私の身体にそんな元気はなかったらしい。力が抜けてベッドにぱたりと倒れ込む。
「大丈夫か?」
「……眠くなってきた、かも」
眠気を意識した途端、倦怠感も相まって瞼がずしりと重くなってくる。
「じゃあ寝とけ病人」
「言い方……」
いつの間にかテーブルの上を片付けていた花霞は、さっきと似たようなことを投げやりに言い放って部屋を出た。なんなのあいつ。
「俺らリビングにいるから、なんかあったら遠慮なく呼んでくれな」
「二人とも一緒に寝てくれないんだ」
「風邪うつされたくないから──ていうか、なんで急にそんな子どもみたいなこと言うの?」
去り際に頭をぽんと撫で、「花霞にもそれくらい甘えりゃいいのに」と呆れたように言って、咲花も部屋を出ていった。
二人がいなくなった途端、私の部屋は色彩が抜け落ちたように殺風景に見える。身体が弱っているからだろう、いつになくセンチメンタルだ。
私らしくないよなあ、と心底思う。
咲花には甘えたらいいと言われたけれど、私からすれば二人の厚意には十分甘えているつもりだった。
雅ちゃん経由で伝言を残したのも、二人なら来てくれるだろうと考えてのこと。まあ、天花寺まで呼んだのは予想外だったけど。
そもそも、私が特別甘えなくても、花霞も咲花も私には甘いと思う。私が何かしたいと言えば付き合ってくれるし、財布がないからと言えば奢ってくれる。我が儘言っても割合聞いてくれるし、好き勝手やっても強くは咎めない。
あれ、冷静になると傍若無人が過ぎる気がする。私二人に嫌われてないよね?大丈夫かな、不安になってきたな。なんか泣きそう。
まずい、本当に思考がどんどん悪い方向に傾いている。風邪怖すぎる。治ってほしい、疾く治れ。
そうしてあれこれ考えすぎてわけがわからなくなった結果、咲花と花霞と何故かついでに天花寺にも『みんな愛してるぜ』とメッセージを一斉送信してから私は布団へ潜り込んだ。
翌日。目が覚めてからスマホをみると、『ついに頭おかしくなった?』『遺言?』『風邪引いてる時って弱るよねえ』と、各々からありがたいお返事が来ていて、その厚い友情に心から涙する私だった。
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