霎月

きさら──ねこのひ

「にゃあ」

 闇に紛れた黒猫が、金の瞳を僕に向けた。この人気のない近所の公園。うまく絵が描けないとき、心がつかれているとき、かならずここへ来る。小学校で購入した愛用の絵の具セットを肩にかけ、二月の夜風に身をゆだねた。


 いつかの僕は絵を描くのが好きだった。

 小学生、図工の授業で触れた水彩画。その魅力に幼いこころはねらりと溶かされる。家でも飽きずに絵の具を広げて、最初は色だった、赤、青、黄。それぞれをすこしずつ混ぜて新しいものを創る。純粋な好奇心だったのだと思う。

 しだいに色は絵になった。自分の頭の中の生物。思いつきの発明品。今日の気分。僕のこころ。そう、自分のこころにしたがって筆を伸ばすのが好きで好きでたまらなかった。家族や友だちといるよりもずっと楽しかった。

 中学生、美術部に入って毎日絵を描いた。活動日以外も美術室を開けてもらって、本当に毎日。放課後の、吹奏楽部の自主練の不協和音が気にいっていて。西日の差しこむ部屋に、水が跳ねるのが気にいっていて。だけど一番のお気にいりは、僕が創りあげた空想の世界だ。こころのおもむくままに探検して絵にしていた。

 高校生、大学生。本格的に美術を学びはじめ、論理的に絵を描くようになった。よく見て考えて。自分の世界にいるだけじゃだめだと、こころのままではだめだと知った。

 でも。学生を卒業して大人になって、ふたたび自分の好きなように描いてよしとなると、どうすればいいかわからなかった。小さいころと同じように、こころに浮かんだものを描く? 学んだ技術や論理にしたがって、巧妙な絵を描く? 思いついたものを描く? 目の前にあるものを描く?


 ブランコに座って軽く地面をける。ふわ、ふわ、ふわ。さびた音と一緒に体が前へ後ろへ、なんとここちよいんだろう。と、先ほどの猫が僕の真ん前に腰をおろす。

「にゃあ」

 俺を描け、猫はそう言った。いや、言ってはいないのだが、たしかにそう聞こえたのだ。僕は表情を変えることなく、いたってしぜんに絵の具を用意する。おもむろにしっぽを持ちあげ、地面に置き。それを静かにくりかえす黒い物体。依然その金の瞳はこちらに向いている。

 しばしのとき、僕はそれを描きあげた。中心に印象的な金色がふたつならび、じっとこっちを見ている。平坦な黒のなかに一匹の黒猫。黒と黒、なにがなんだかわからないから、猫の周りは白くぼかしてあった。でも、どちらも黒でも色がちがう。猫の黒のほうが明るくはつらつとしているのだ。いっぽうで闇は黒い。まるで僕のこころ……。

 気づくと猫はいなかった。


 翌日の夜も公園へ向かった。ブランコに揺られていると、またそいつがやってくる。

「にゃあ」

 今日は背中。猫はそっぽを向いて尾を振る。僕は見たまんまを写して、でもそれではまた黒が重なってしまうから白を残して、でもそれではおもしろくないから、すこしばかりの緑を入れて。


 次の夜もその次の夜も、僕が公園へ行くとその猫はしっぽを振った。砂場、すべり台の下、ベンチの手すり、ブランコの柵の上。その日その日でいろいろなところにいる猫を僕は追った。僕のこころとは相反するカラフルなよそおいの遊具を、無理やり絵に組みこみながら。来る日も来る日も絵を描いた。そして、描きおわると決まって、猫はいなくなっていた。

 ある日、僕はすぐに猫を見つけられなかった。遊具の下や茂みの中、木の根もとなんかぐるりと回って探すけど、やはりいない。

「にゃあ」

 聞きなれた鳴き声に顔を上げると、そいつはめずらしく高いところにいた。冬眠中の藤棚にのぼっていたらしい。僕は立ったまま筆をしめらせて色を混ぜあわせる。

 描いているうち、なんだかものたりなくなったので、僕は首をかしげながら猫を見た。猫もまた僕を見る。と思うと、ふい、金色を頭上へずらした。つられて僕も──

 星、そこには星があった。


 その日から猫は現れなくなった。藤棚へ視線を戻すともうどこかへ行っていて、そいつらしいなと思ったり。いつもとちがったのは、まだ絵が完成していなかったこと。でもふしぎと、迷いなく色は広がった。たった二、三週間前の自分からは信じられない素直さだった。まるで、ただ色を創るが大好きだったころのような……。

 いま見返してみると、あのとき描いたたくさんの猫の絵はおかしなところがいっぱいだ。一枚目はまだわかるが、日が経つにつれて猫の輪郭はふやけ、同時に闇は鮮やかに彩られていった。赤、青、黄。ときどき桃色。平衡感覚はまるでないし、最後のものに関しては空が銀河のようにうずまいている。平凡な住宅街で、そこまでたいそうな数の星など見えないはずなのに。

 だけど、僕のこころにはいつもあの猫の瞳があるのだ。そうしてそれと一緒にゆっくり眺める地球は、ほかのだれもが見るよりもずっと色にあふれていて、愛おしいのだ。

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霎月 @Syogetsu_10918

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