親愛なる莉里へ
硝水
第1話
いつからだっけ。と、思っている。ガスコンロの下の、換気扇に一番近い床に広げっぱなしになった油画セット。破れてベタベタするチューブと最近買ったらしいハリのあるチューブが乱雑に混ざっていて、使い込んだパレットナイフ、ほとんど残っていないオイル、コーティングの剥げかかったパレット、その下に敷かれた二ヶ月前の地域紙。そして、自慢していた飴色の小さなイーゼルに、かかったままのF六号。バーミリオンが嫌いだから、下塗りで絶対にそれを使うと話していたのを覚えている。キャンバスの中の猫は朱色をしていて、だからこれは描きかけ。
そんな『誰かの痕跡』を眺めながら食事をするのがすっかり習慣になっていた。パレットは綺麗に拭き取ってあるから、絵を描いている最中に飛び出して行ったわけではないらしい。油絵具は固まると厄介だ。絵の猫は絶妙にひょうきんな顔をしていて、これをこのまま整えるわけじゃないんだろうけど、と横に置かれた写真を見ながら思う。適当に盛られたネイビーの瞳がつうと玄関の方を見る。ガチャガチャきこえる。
「ただいま」
「おかえり」
後ろ手に扉を閉めた格好で固まったままの彼は、目をすがめて私の方を見ている。
「誰?」
「……誰なんだろうか」
あれ?私って誰なんだろうか。そもそもここって私の家じゃなかったのか。かじっていたトーストをそっと皿に戻して、何も食べてませんでしたよ、という顔をつくる。もう遅いて。
「そういうめんどくさいの勘弁してほしいんだけど」
「ここはあなたの家ですか」
「逆に誰の家なんだよこの状況で」
「ずっと私の家だと思ってたので……」
「ずっとってどのくらい?」
「二ヶ月ほど」
「俺はここに六年住んでる」
「この絵は?」
「描きかけのまま家空けてただけ」
「そうじゃなく」
「なに?」
「あなたは、『バーミリオンが嫌いだから、下塗りに使う』?」
「なんで知ってんの?」
背負っていた大きな鞄を三和土に下ろして、靴を脱いだ彼はぺたぺたと近づいてくる。なぜわざわざ白いTシャツを着ているのかわからない、すごく微妙な茶色とかで汚れていた。
「わかりません、ただそう聞いたので」
「誰に」
「それは、たぶん、あれ、誰でしたっけ」
彼は瞬間苦虫を噛み潰したような顔になって、玄関に置きっぱなしだった荷物を引きずって戻ってきた。
「消えたい?」
「なぜ」
「いや、何でもない」
縛っていた肩紐を解いて中身をするすると取り出す。それはイーゼルにかかっているのと同じF六号で、Fと六に何か意味があったんだっけ、と記憶を探る。Fは人物画に適した縦横比で展開されているサイズだ。Pが風景画で、Mが海、なんてことを、やっぱり誰かから教わったような気がする。
「海の絵って風景画じゃないのかな」
「水平線と地平線は、やっぱり違うでしょ、描くものが」
裏返しになったままのF六号は、縁から朱色が覗いている。
「なんで急に泣くの」
「な、え、この絵は、私、見たことあります、たぶん」
「そう」
「それで、この人は先輩の好きだった人だって……先輩って誰でしたっけ」
「祐巳かな」
「ああそうだ、で」
彼はF六号をひっくり返す。朱色の私が笑っている。
「お前が描けって言われた」
「それが」
「そう、あいつの呪い」
イーゼルにかけてあった猫のキャンバスを取り外し、代わりに私をはめ込む。
「描くんですか」
「お前じゃない」
「でも」
「莉里はどっか外国に行った。お前は莉里に似てる別人で、」
「それでも『祐巳先輩は、あなたの目で見た莉里を見たかった』」
私は莉里じゃない。でも莉里になるためにここにいる。
「描いてくれますか」
私を『莉里』にしてくれますか。
「消えたい?」
「はい」
彼は破れたチューブを引っ掴み、バーミリオンを絞り出す。
親愛なる莉里へ 硝水 @yata3desu
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