第3話 虹

 その日から僕と彼女の物語は始まったと言っても過言ではない。


 もしかしたら彼女にとってはもっと前から始まっていたのかもしれない。


 しかし、僕が意識し始めたのは紛れもなくその日からだった。


 核心を突かれた恐怖と自分の築き上げた地位が崩れ落ちる恐怖が重なり、僕は彼女をあらゆる手を使って近くに置いておきたいと思った。


 僕たちは席が隣同士という事もあって授業中はおろか、休み時間の間でさえも目が合い、互いに微笑み合い、そして自身の管理下に置いておくことが出来た。


 さらに授業中は先生の隙を突いて短い会話を何度も交わしていた。


 ひそひそとまるで吐息のようなか細い声と、少しの背徳感は僕たちに妙な結託感を与えた。



 

 「ねぇ、なにやってんの?」


 彼女は机に体を預け、前かがみの姿勢で隣の僕に顔を向ける。


 今は授業中。されど自習という名の自由時間。


 教室が微弱な喧騒に包まれ、謎の高揚感が席巻している。


 周りを見わたしても誰一人まじめに勉強している様子はなく、机に突っ伏して寝ているものや読書をしているもの、さらには彼女のようにひそひそと誰かと話しているものまでいる。


 大きな声で騒がなければ問題ないというのは最早暗黙の了解であった。


 「別に、読書でもしようかなと思ってたとこ」


 現に僕の右手は今、机の中の本をつかんでいた。


 「へぇ、そうなんだ。意外と真面目なんだね」


 彼女は嘲笑を浮かべ、僕にまるで何かを期待するかのように挑戦の色を織り交ぜた声音で返事をした。


 ・・・・・・・・相変わらずというかなんというか。


 この数日間で僕は何も知らなかった彼女についていくつかのことを知った。


 眉目秀麗、成績優秀であり、だがそれをひけらかすことも、また気持ちの悪いくらいに謙遜することもない。


 おだてられれば、冗談を織り交ぜするりとかわす姿に僕はあっぱれとしか言いようがなかった。


 そんな要領の良い、賢い生き方をする彼女に僕は少しジェラシーを感じていた。


 その姿は僕が反吐が出るほどの気持ちの悪い笑顔と、自分の頭がおかしくなるほどの嘘で塗り固めた今できる最大の究極形をはるかに凌駕していたからだ。


 彼女の存在は僕の存在をあざ笑っているかのように不愉快で、爽やかにやり遂げる彼女の姿は僕にとって脅威でもあった。


 そのくせ彼女は僕に何かと挑戦的な目を向け、僕を煽り、まるで僕の真意を探るかのように、僕の中に土足で堂々と侵入しようとしてくる。


 ・・・・落ち着け。乗せられてはいけない。


 「誰にも言わないでくれよ。実は本っていうのはな」


 僕は唇に人差し指を当て、右手に握っていた本を手放し、もう1つの本を出した。


 「・・・・・・・・へぇ、それって流行りの」


 「そうそう。今話題の漫画だ。すっげぇ面白いんだぜ」


 「知ってるわよ。だって私も・・・・・・・・好きだもん」


 「・・・・そ、そうなんだ」


 「でもさぁ、うちの学校漫画禁止だよ?」


 「分かってるさ。だからこっそり君にだけ見せてるんだ」


 僕ははにかみ笑顔を見せつつ、ささっと机の中に本を戻した。


 僕の心にまたしてもコールタールのような気分の悪いものがだらだらと流れ込んできたが、気づかないふりをした。


 もう、僕の心は犯されている。


 0と1はどこまでも異なるものだが、100も200も僕の心にとっては大した差はなかった。


 僕の心は虹になれなかった黒だ。


 混ざりあってはいけない、踏み込んではいけないところまで染まりきってしまった。


 喜怒哀楽もその場の空気に任せ、誰にも嫌われないように、間違わないようにと精一杯のようだ。


 自分の心なのに、まるで誰かのもののようで最早自分自身に畏怖すらも感じる時さえある。


 「ふぅん。・・・・ちなみにね、私はその漫画だとトナカイの子が好きなの。あんたは?」


 「俺?そうだなぁ・・・・・・・・やっぱりあの黒刀の剣士かな。目とか鋭くてかっこいいし、それに割と物語の序盤に出てくるんだけど、そのくせすっげぇ強かったのが印象に残ってんのかな。剣もどうしてか真っ黒でさ、しかも一味の剣士にとっての分岐点になるような感じでさ。いやぁかっこいいよな。・・・・って語りすぎたな」


 僕は畳みかけた。彼女はまたしても僕を試していた。


 何かを探るように・・・・おそらく僕が本当にこの漫画が好きかどうかだろうか。


 彼女は僕の嘘に、拒食で塗り固められた僕のこの姿に薄々感づいているのかもしれない。


 まぁ、だからこそ僕は彼女のそばを離れないんだけど。


 僕の熱弁を彼女は淡々と聞き、リアクションこそなかったものの一言一句逃さないよう聞いていたように見えた。


 その姿は、その目はまるでカンニングを逃さないように監視する先生のようで、どこか少し怖かった。


 「・・・・終わり?」


 は?・・・・何言ってんだこいつ。


 彼女は机に肘をつき、気怠そうに話し終わった僕に告げた。


 その瞬間僕の頭はフリーズし、熾火のようにちらついていた怒りが一瞬、炎を上げた。


 落ち着け。自己暗示だ。落ち着くんだ。平静を。心を静寂に。


 「いやぁ、ごめんごめん。ついつい熱が入っ」


 「嘘だよね?」


 彼女は僕の声なんてまるで耳に入っていないと言わんばかりに僕を遮り、普段の彼女からは想像もつかないほどの表情のない顔で突っぱねるように告げた。


 予想もしていなかった言葉に僕は一瞬たじろいだが、すぐさま持ち直す。


 「嘘?俺、嘘なんてついたことないんだけど。あっでも先生に『宿題家に忘れました』っていう時はほとんど嘘なんだけど」


 渇いた笑いをわざと少し大きな声で出す。


 僕の思惑通りに事は進み、周りの視線が僕たちに集まった。


 「あぁ、すいません」


 へへっと照れ笑いを浮かべ、そっと机に伏せた。


 しかし、彼女の口はそんなことお構いなしに開きっぱなしだった。


 「私、嘘って嫌いなの。優しい嘘とかいうのはもっと嫌い。嘘をついたのは相手のためにとか言う人いるけどそれって・・・・はぁもういいや」


 彼女も同様、机に突っ伏し、華奢な背中から骨が突起していた。


 その背中にはどこか哀愁のようなものを感じ、僕の頬は悔しさで紅潮した。


 毎度感じる敗北感と、自身の矮小さに辟易する。


 そんな僕に毎度構ってくる彼女にはうんざりするのと同時に、根拠のない何かを期待をしていた。


 「本当に好きな人にとって嘘はただの毒なんだよ」


 



 あぁ僕はとことんクズだ。

 

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