21:壊れたソリと吹雪

 灰色の雲が、青空を隠してしまったの空からは、大粒の雪が降っていた。

 しんしんと降り続ける雪の中、久々に会ったヴィオラの表情は、すっかり憔悴しきっていた。


 舞踏会の夜から。ずっと自分の屋敷に引きこもっていたヴィオラは、ことを聞きつけた父であるサドルノフ公爵の電報により、レースのセレモニーに参加し、デニスの婚約を受けなければ家との縁を切ると言われてしまったらしい。


 これまでの粗相に関してもきつくお灸を据えられたようだった。


 幼い頃から家のために自分を犠牲にし、好きな男には結婚直前に婚約破棄されてしまった上に、今度は耳を塞ぎたくなるような皮肉を引っ掛けてきた男と結婚しなければならないヴィオラの状況を考えれば、同情すべき部分はいくつかあるように感じた。


 あまりのヴィオラの変貌具合に、フローラでさえも「気分がすぐれない時は、すぐにおっしゃってくださいね」と声をかけるほどである。


 セレモニーでは、当日のレースのコースを一周し、ゴールに戻ってきたタイミングで、エミリオンとデニスの勝負がスタートするという流れだそうだ。

 途中、大きな森がありカーブの多い道があるので、初心者である私が怪我などがないように慎重にリハーサルをすることになったらしい。


 ヴィオラは、幼い頃から何度も犬ぞりに乗ったことがあるらしく、慣れた様子で毛皮の中に入っていた。


「よろしくお願いします」


 声をかけてみたが、ヴィオラは一言も言葉を発することなく、前をじっと見つめていた。

 散々喚いてきたと思いきや、今度は無視ですか。と皮肉を投げかけたい気分になったが、すっかり痩せこけた彼女の顔を見て、私は口をつぐんだ。


「では、出発しますよ。雪が強くなる前に早く一周して終わらせますね」


 当日もそりを操縦してくれるらしいジルバと名乗る衛兵が、人当たりのいい笑みを浮かべて犬に指示を出す。


 背丈の大きな犬たちは、灰色と白の入り混じった毛皮を風になびかせ、黄金色の瞳をキラキラと輝かせながら、私たちの乗っているそりを動かし始めた。


 そりは想像していたよりも、早いスピードで雪の中を滑っていく。


 生まれて初めての経験に私は、高揚した気分を抑えられずに辺りをキョロキョロと見回した。

 思っていたよりも風が強く、雪が顔に当たっていく感覚は新鮮で面白かった。


「寒いので、あまり動かないで下さります?」


 初めてヴィオラが声をかけてきたので、私は「わかりました」と返事をして大人しくすることにした。


 犬ぞりレースのコースは、城から少し離れたルムと呼ばれる森林地帯で形成されている。

 急カーブ地点には、崖もちらほらあるようで、下手に身を乗り出したりしないようにと注意を受けた。


 私たちが乗っているそりを追いかけるように、二台の犬ぞりに乗った護衛たちが乗っており、万が一何があってもいいようにと厳戒態勢で望んでいる。

 しばらくそりは順調に走り、無言のヴィオラと共に毛皮の中で大人しく外の様子を見ていた時のことだった。


 立て続けにパーン、パーンと音がなった。


 その音が銃声だと分かったのは、振り返った時に背後に走っている衛兵たちが血を流しながらそりから落ちていく様子が見えたからだった。


「一体何があったというのよ!」


 ヴィオラの悲鳴に「賊です!そりのスピードを早めます!お二方おつかまりください!」とジルバが大きな声を張り上げて、犬たちにより早く走るように指示を出した。


 そりはぐんぐんとスピードを上げて、背後から追いかけようとしてくる男たちから距離を離していく。


 背後から銃声が聞こえる度に、ヴィオラが「きゃあ!」と悲鳴をあげた。


 何が起きているのか処理ができずに、すっかり仲違いしていることも忘れてヴィオラと手を取りあい、そりから飛び出さないように神経を集中させているしかなかった。


 背後から賊が見えなくなった時だった。

 ジルバは「もう少し先へ進みます。そこで中継地点がありますので」と一段とそりのスピードを上げた。


 しかし、それがいけなかった。

 目の前に二人の男が一本のロープを伸ばしていたことを、焦っていた三人は誰も気が付かなかった。

 勢いを増している犬たちの足を引っ掛けたのだ。


「キャウンッ!」


 犬の鳴き声と共に、犬たちとそりが横転する。

 一瞬の出来事だったので、私はヴィオラの手を必死に掴みながらそりから落ちるまいとしがみついていた。


 ガシャンと大きな音がして、犬とそりが離れていく。

 ジルバが乗っている席と、私たちが乗っているそり本体の連結部分が横転した衝撃で壊れたと気がついたのは、そりが崖から落ちていく時だった。


「妃殿下!公爵令嬢様!」


 ジルバの声が聞こえた後、再び銃声がなった。

 彼が撃たれたと分かったが、私たちにできることはない。

 ただ落ちていくそりに必死にしがみつくしかなかった。


 ***


 大木に激しくぶつかって、そりは止まった。


 お互いに顔を見合わせて、無言で怪我がないか確認しあった。

 衝撃は全てそりが引き受けてくれたようで、奇跡的にも私たちは無傷だった。


 雪が強く降り始めてきたおかげか、敵から私たちのことは見えないようで「探せ!」という声が上の方から聞こえた。



「立てますか?」


 震える手を必死に隠して、私はヴィオラに尋ねた。


「え、ええ……」


 彼女の手も震えていたが、お互い馬鹿にしあったりはしなかった。


「一旦、この場から離れましょう」


 私の提案に、ヴィオラは首を激しく横に振った。


「いいえ。だめよ。これから雪が強くなる。そりを逆さにして、その中に隠れるの」


 ヴィオラはしばらく遠くの茂みに向かって走った後、ゆっくりと足跡を辿って後ろ向きへこちらへ戻ってきた。

 逃げた形跡を見せているのだろう。


 私にはできないことだと感心したが、今までの彼女のこともあるのでいまいち作戦が信用できず、「でも……」と答えた。


 崖の上からパーンと真っ赤な煙が上がっており「救難信号が出た。これで、他の衛兵たちがくる。敵も私たちを追うことはできないはずだわ」と言い張るヴィオラの言葉は、あまりにも真剣だった。


 彼女の言う通り、風が強くなり始め、雪が斜めに降り出した。

 近い場所では、右斜めに雪が降っているのに対して、少し離れた場所では雪が左斜め下に降っている。

 まるで世界を覆い隠すかのような降り方をすると思った。


「分かった。言うことを聞くわ」


 重たいそりを二人がかりでなんとか逆さまにして、毛皮と毛皮の間に挟まり、息をひそめた。

 しばらくすると、誰かの足音がして、低い男の声が聞こえた。


「おい、ここにそりがあるぞ」


「足跡がある。逃げたな」


「この雪だぜ。まだ近くにいるはずだ」


「だめだ。ジャック。吹雪になるぞ。視界が見えずらくなってきやがった。早く退散しよう。応援も呼ばれたから、ここにいたら確実に捕まる」


「だが、あの方に確実に殺せと言われているんだぞ。しくじったと分かったら、どうなるか」


「ここで死んだら、全てがおじゃんだ。俺たちの命を優先しよう」


 ヒソヒソと頭上で会話が聞こえ、心臓が破裂しそうなほど高鳴り、見つかったらどうしようと恐怖に襲われる。


「分かったよ」


 しばらく無言だったジャックと言われた男が、諦めたように言い放ち、足音は遠くに去っていった。


 私とヴィオラはしばらく黙っていた。


 静まり返った森の中で「なんだったの……」とヴィオラが小さく呟く。


「私にもわからない」


「でしょうね。あなたに期待なんかしていないわ」


 皮肉を言い始めたので、私は少しだけいつもの調子に戻ったヴィオラに対してホッとした気持ちを持った反面、彼女の強い言葉はただの強がりなのではないかと思った。


「助けを呼びに行こうかしら」


 私がそりから少し顔を出そうとすると、ヴィオラが「あなた何を考えているの。まだあいつらがいたらどうするのよ」と私の毛皮のコートを引っ張った。


「でも、吹雪になるから去らないとって」


「だったらなおさらよ。どこにいるかわからない敵の姿を探しながら、あなた無事に帰れる自信があって?」


「いいえ。ないわ」


「あなたの祖国に、吹雪が降ったことは?」


「ないわ」


 私の言葉にヴィオラは、これみよがしに大きなため息をついた。


「だったら大人しくしていることね。吹雪の時は、前は見えないし、歩いて数歩で今までいた場所が分からなくなるのよ。ここに来て日の浅いあなたが外へ出たら確実に迷うわね。絶対に助けを待つべきよ!」


「……心配してくれているの?」


「な、な訳ないでしょう!あなたが死んだら、初めに私が犯人として疑われる。自分の人生をこれ以上だめにしたくないだけよ」


「そう」


「何か言いた気ね」


「いいえ。何も言うことはないわ、今はね」


 ヴィオラが口を開きかけた時、まるで獰猛な動物が唸り声をあげるように、隙間から強い風と雪が吹き込んできた。

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