5  誘われた女

 川沿いの桜は、フィルが行った時には八分まで咲き進んでいた。そう言えば、昨日今日と暖かく、むしろ初夏を思わせる陽気だ。ここの桜も明日には満開かな、と見あげる。


 さっさと朝食を済ませ、宿を出てきた。アースはフィルを見るともなく見ていたが、何も言わなかった。いつも何も言わないアースだ。出かけるフィルを見ていることも滅多にない。今までアースがフィルを気にかけたことなんかない。出かけるところを見ているだけでも珍しいと、少し調子が狂うフィルだ。アースの変化は昨夜の来訪者のせいかもしれないと、フィルが自分を納得させる。


 どこに行く、と訊かれなくてよかったと思う。もし訊かれたら、きっと答えに窮しただろう。悪いことをするわけでもないのに、どこか気拙さを感じるのはなぜだ?


 フィルの予測に反してキュアは来ていなかった。まぁ、まだ早い時間だ。昼にもなっていない。少し待っていれば来るかもしれない――フィルは桜の木のすぐ横の土手に寝転んだ。


 今日も高い空で小鳥が鳴いている。空はよく晴れて、昨日より青さが増している。日差しは降り注ぎ日焼けしそうだ。草と土の匂いがする。ずいぶん昔に嗅いだことのある匂いだ。


(嗅いだことがなきゃ、草だの土だの判らないよな)

自分で自分に苦笑する。


 近付く気配を感じて目をやると、そこにはキュアが立っていた。

「なに、一人でニヤニヤしてるの?」

随分面白くなさそうだ。


 上半身を起こすフィル、その隣に腰を降ろすキュア、昨日の能天気な感じがキュアから消えている、とフィルが思う。


「どうした? ご機嫌斜めみたいだな。まさか、俺が一人で笑ってたからって、そんなに怒ってるわけじゃないだろう?」

「あら、そうじゃないとどうして言い切れるの?」

「なんだよ……昨夜、何かやらかして、座長に怒られでもしたかい?」

つい笑ってしまうフィルにキュアが切ない目を向ける。その目に見る見る涙が溢れる。


「フィル、わたし、もうダメかもしれない」

「おい、どうしちゃったんだよ?」

フィルが慌てたのは、キュアの涙のせいなのか、その瞳にドキリとしたからなのか?


「昨日の公演に、ここの領主さまが来たの」

 やっぱりあの貴族は領主なのか、言葉にせずにフィルがそう思う。

「それでね、座長にわたしを譲れって言ったんだって」

「あ……」


「領主さまじゃ断れない。座長は明日、この街を出る前に、わたしを領主さまのところに連れて行くって約束しちゃった――どうしたらいいの?」

「いや……その……」


 領主の囲い者なら、そんじょそこらの金持ちのめかけになるよりよっぽどいい。貴族様の生活が待っている。キュアのことを考えても、これ以上いい話はないはずだ。座長が断るはずもない。


 でも、当の本人が泣くほど嫌がっている――


「領主さまって、どんな男なんだ?」

「え?」


 フィルの言葉にキュアが動揺する。

「宿屋の亭主が言うには慈悲深いかただって。泣いて嫌がるわたしを座長と一緒に宥めようとしてた。きっと幸せになれるって、そんなのわたしの幸せじゃないのに」

「うーーん……惚れた男と一緒になりたい、って言ってたよな。領主がそんな優しい男なら、一緒になったら惚れるかもしれないじゃないか」

「フィル……フィルはわたしが領主のものになったほうがいいと思っているの?」

「そうじゃない――キュアのためにはいいかなって……」


 そう、誰もが言うだろうことを言ったまでのフィルだ。自分の言葉がチクリと自分の心に突き刺さるのを感じていたフィルだ。


「本当にそう思ってるの? 無理よ、絶対無理!」

 だいたい、こんなに嫌がっているものを無理やり連れて行って領主はどうするつもりなんだろう? いや、判ってる。無理やり……そう無理やり。つらい記憶がフィルの脳裏に蘇る。同じ思いをキュアにさせていいのか?


「それに、わたしの気持ちを訊くどころか、わたしと話したこともないのに、権力でわたしを買う、そんな男に惚れるはずない、惚れるなんて無理よ」


 泣きじゃくるキュアがフィルを責める。泣かせたいわけじゃないんだ、泣かせたくなんかないんだ――だったら、やっぱりこうするしかない。

「キュア、おまえ、座長に借金があるんだろう?」


 キュアがぴたりと泣き止んだ。そして睨みつけるようにフィルを見る。

「返せない借金の代わりに人生を棒に振れって? 貧乏人に幸せになる権利はないって言うのね?」

「そんなこと言ってない! いくらあるんだ? 言ってみろよ。俺が何とかしてやる」

「えっ?」

「耳を揃えて返せば、座長もおまえに無理強むりじいできない。それで一座を抜けて逃げろ」


 こっそり渡すつもりだったが、手にした金を使うかキュアが迷っているうちに手遅れになりかねない。不本意だが、こうなったら仕方ない。出所と目的が明確なら、キュアが迷うこともない。それとも盗んだ金だと言って拒絶するか? それなら、背に腹は代えられないと説得するしかない。


「一座を抜ける? でも、どこに逃げればいいの?」

「ここの領主の手の届かないところ――なんだったら俺が連れて行ってやる」


 キュアがマジマジとフィルを見詰める。驚いて涙も止まってしまったようだ。見詰められるフィルは居心地が悪くて、つい目を逸らしてしまう。


「本気で言ってるの? なんでわたしなんかのために?」

「さぁな、乗り掛かった舟ってやつだ。こんなふうに泣かれてみろ、どうにかしなくちゃって思うだろうが」

「フィル……」


 不意に胸元に飛び込んできたキュアを、慌ててフィルが抱きとめる。甘い匂いがフィルの鼻をくすぐってフィルをドキリとさせる。おかしいな、女の匂いを嗅ぐのも初めてじゃない。なのに、キュアの匂いに俺は今、ドキドキしている――


「本当に? 頼っていいの?」

「俺でよければ頼れ――それで、借金はいくらなんだ?」

「あ……」


 キュアがフィルから体を離した。急に寂しくなった胸元に戸惑うフィルをキュアが見あげる。


「判んない――座長、わたしが聞いても、いつも気にするなって。はっきり金額を言わないのよ」

「うーーん、それじゃあ、どれだけ用意すればいいか判らないな――そうだ、領主はおまえをいくらで買った?」

「あぁ、それはね。タダみたい」

「タダ?」

つい素っ頓狂な声を上げたフィルだ。


「そう、献上しろって話なの――これからも領地内で興行できることを保証するって条件で」


 それはタダとは言わない。拒めば領地内に立ち入れなくなるって話だ。脅迫じゃないか――こりゃあ、座長も本心じゃ、断りたがっているかもしれない。


 でも困った。そうだとしたら、座長はなんとしてでもキュアを領主のもとに連れて行きたいはずだ。一座の命運がかかっている。簡単にキュアを辞めさせたりしない。


「キュア、こうなったら借金なんか踏み倒せ」

「えぇ?」

「いいか、キュア。借金を返したところで、座長はキュアを領主に渡す。返さなくても領主に渡す。だったら借金なんか気にしないで逃げちゃえ」

「でも、そんな……」


「だいたい、気にするな、って座長は言ってるんだろう? 返さなくっていいってことだ。キュアの気が済まないのも判る。でもさキュア、おまえ、幸せになりたいんだよな? 惚れた男と一緒になりたいんだろう? だったら逃げるしかないんだよ」


 フィルを見上げるキュアの目は不安でいっぱいだ。

「一緒に逃げてくれるの?」

「あぁ、領主の手の届かないところに連れて行ってやる。今夜の公演が終わったらまたここに来い。一座の移動は明日なんだろ? その前にこの街を出よう」


キュアを安心させようと、フィルが微笑む。まだ迷いが消えないキュアは泣いているような笑みをフィルに返した。

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