3  夢みる女

 幸せだったかと訊かれ、そうだとは答えられないフィルだ。嫌でたまらなくて、造り酒屋から逃げ出した。


「俺が幸せってモンを知ったのは十一の時だ。運がよかったんだと思う」

「何があったの?」

「九つで造り酒屋を逃げ出して――」

なんだ、やっぱり嫌だったんじゃん、と横でキュアが笑う。


「あぁ、嫌だったさ。でも、逃げ出したっておんなじ、いいや、より厳しい毎日だ。で生きていくしかない。よく生き延びられたと思うよ。それから二年間、毎日腹を減らして、盗んだり、客や寝床を探したり――うまく盗めりゃいいけれど、ガキのことだ、結構捕まった。すると殴る蹴るで、このまま死んじまうのかな、って何度も思った。十一の時、八百屋でリンゴを盗んだ。で、やっぱり捕まって……あん時も散々殴られた。ところが翌日、その八百屋とばったり出くわしてね、昨日はすまなかったって、謝ってくれたんだ」


「へぇ……それってフィルにとって大事な思い出みたいだね。顔つきが優しくなったよ」

 そうか? とフィルが微笑む。


「でさ、その八百屋は俺を雇ってくれたんだ。住むところまでくれた。真面目に働けば、いつかおまえも自分の店が持てるぞ、だから頑張れって」

「あれ? なのに今はコソ泥?」


「うん……造り酒屋の旦那が懸賞をかけ、役人にも手を回して俺を探し回った。見つかりそうになった俺を親方は――八百屋の親方は国境を越えろ、って逃がしてくれたんだ」

「そっかぁ、八百屋になりたかった?」


「その時は本気で八百屋になるつもりだったけどね。でも、まともな暮らしが立つ職を持てりゃあよかったんだと思うよ」

「ってことはフィルの生まれたのはこの国じゃないんだ?」

「あぁ、ずっと西にある国だ」


「この国はどうだった?」

「いい所だ、って言いたいところだけど、どうだろうね。どこも一緒かな。国境を超えても今度は盗賊に捕まって有り金取り上げられるし、無理やり頭目の愛人にされるし――で、そこは五年で逃げ出した。それから二年か……ま、盗みの仕方を仕込んでくれたおかげで、自分を売らなくてよくなった。その点はいい事になるのかな」


「へぇ……それじゃ、今は幸せ? あぁ、違うみたいね、顔が曇った」

 食べるのに困ることはない……自分の好きなように生きている。追手を警戒して旅の空だが、それはそれで悪いモンでもない。だったら幸せなんじゃないのか? だけどそう感じない。忘れた頃に繰り返される悪夢が、今も俺を苦しめる――


 黙り込んでしまったフィルの顔をキュアが覗き込む。

「ねぇ、誰かを好きになった事、恋をした事ってある?」

面倒そうにフィルが答える。


「あるわけないだろう、今、何を聞いてたんだよ?」

「商売以外でそういうことしたことないんだ?」

「そんな勿体ないことしない、やるんだったら代金を貰う」

「うはっ、結構ね――自分からそういうことしたい、って思った事もないの?」


「おまえ、手入らずだって割にはキワどいことを平気で訊くね。性欲があるのか訊いてるのか?」

「その手前でいいよ。自分から、コイツ好きだな、コイツとキスしたいな、って思ったこともないのかな、って思って」

「キスねぇ……キュアはそんな相手がいるんだ?」


 いないよ、と言ってキュアが立ち上がる。

「でもさ、憧れてるの。大好きな人とのキス……見つめ合って、『好きだよ』ってお互いに囁いて、優しく抱き締め合って、そしてそっとキスするの。早くそんな人を見つけるんだ――さてと、そろそろ帰る、公演に間に合わなくなるから。そうだ、見に来てよ」


「見に来てって、公演を?」

「そう、曲芸一座さ。見て損はないよ」

「下手くそな歌を聞かせられるんじゃないのかい?」

「なにそれ! そう思うなら来て確かめたら? うっとり聞き惚れちゃうよ!」

ぷりぷり怒るキュアにフィルが苦笑する。自分で自慢するなら大したことはないだろうと思うフィルだ。


 帰るなら向こうだぞ、腰を降ろしたままフィルが道を指す。

「判ってる、さっき通ったばっかりじゃん」

フィルを小馬鹿にしてキュアが土手を昇る。

「じゃあね――見に来てよね」

と、来た道を帰っていく。


 さぁて、どうしたものかな……土手にゴロリと横になり空を見上げると、空の高いところで盛んにさえずる小鳥が見えた。


(そう言えば、どうして俺まで逃げなきゃなんなかったんだ?)

思い出して苦笑する。

(踊り子で歌姫か。どうせ暇だし、一度ぐらい見に行くかな――)


 この街では商売しない、いつの間にかそう決めているフィルだ。それにしても……

(この時間から準備するってことは、公演は夕刻から――アースは客を呼べるだろうか?)


 旅の道連れを思い出す。ずば抜けて美しい容姿と不思議な魅力の歌声――道端での商売は、そこを通る人がいて初めて客を呼べる。人気の一座に人出が集まれば、通りを行き交う人波は減るだろう。今度ばかりはアースも商売あがったりか。


 日はそろそろ傾き始めている。アースが商売を始める頃合いだ。


 よいしょっと立ち上がり、服に着いた草の切れ端を払う。アースはどこで商売をする気だろう? やっぱりあの桜の広場だろうか――そんなことを考えながら街の中心部に戻っていくフィルだった。


 旅の一座は桜の広場の一番奥にテントを設え、客の入りを待っていた。


 既に人が並び、ぞろぞろとテントに吸い込まれていく。テントの前には一人しか入れそうもない小屋が建てられ、その窓口でチケットを買うようだ。今日の分のチケットは売り切れと張り紙がしてあった。


「なんだ、曲芸を見たがるなんて珍しいな」

 後ろからフィルに声をかけてきたのはアースだった。


「別に――見たいわけじゃない」

「そうか? 売り切れと読んでガッカリしたように見えたぞ?」

普段は無表情のアースが、うすら笑いしているのがなんとも小憎たらしい。


「いやいや、随分と盛況なんだな、ってね――アース、あんたの商売は上がったりなんじゃないのか?」

「そうだな、そうかもしれない――おまえの方はおあつらえ向きなのではないか? なぜこんなところにいる?」

「なんだか気が進まない。こんなときは温和おとなしくしていたほうが身のためだ――それよりおまえは? いつもだったら商売を始める時間だろう?」


「わたしか? うん、少し迷っている――さっき、このテントの裏手で嫌な話を聞いた」

「嫌な話?」

「そうだ、だからここで待っている」

「待っているって何を?」


それにはアース、答える気はないようだ。思いついたように背負っていたサックを降ろし、中から竪琴を取り出した。


 凝った装飾の値打ち物の竪琴――売ればかなりのが付くとフィルは見ている。その竪琴をポロンとアースが爪弾いた。


 悠久の時を語る川の流れ

 永遠の果てに行くは風の旅路

 人生をに問えば響く哄笑

 愚かさを嘆く暇などありはしない

 まばたきのあいまに消えゆく運命さだめ――


 いつもは裏返すマントもそのまま、アースがいきなり歌い始める。テントに入ろうとしていた人々がアースに注目し、列が止まってしまった。テントから慌てて走ってくる男がいる。座長だろうか? 邪魔をするなとアースを追い立てに来たのかもしれない。


 ところがその男、アースとフィルの横を走り抜け、すぐそこに停められた馬車に駆け寄った。

「お待ちしておりました――」


 随分と立派な馬車だ。乗っているのは上流貴族だろう。開けられた戸から降りてきたのは思った通り、王族と言われても信じてしまいそうな出立いでたちのまだ若い男だ。


「こちらでございます」

 座長らしき男が貴族の男を案内する。フィルとアースの前を通り過ぎるとき、男がアースの竪琴に目を止めたのをフィルは見逃さなかった――

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