2 惚れた男
明日には満開になりそうな桜を眺めながら、
「上からもいいけど、やっぱり見あげるほうがいいかも」
とキュアが呟く。そんなモンかねぇ、とフィルも呟く。
「ここは広場だけあって日当たりがいいんだな、きっと明日には満開だ――さっき川沿いで見た桜は、まだ五分咲きって感じだった」
「へぇ……まあさ、桜も人間と同じってことだね。日当たりが良ければ肥える、悪けりゃ瘦せっぽちのまま」
「人間と同じ? 日当たりが良ければ人間は日焼けするだけだ」
不思議そうなフィルをキュアが笑う。
「フィル、思ったよりも勘が鈍いね。人間にとっての日当たりってのは、
馬鹿にされたフィルがフンと、
「なるほど、納得! おまえは貧乏で、だから瘦せっぽちだ」
と言えば、キュアがまた笑い飛ばす。
「そうそう、特に胸のあたりがね!」
「コイツ!
フィルもつい吹き出した。
「それにしてもさ、桜も人間と同じ、って言うより人間も桜と同じって言ったほうがよくないか?」
「その二つ、どう違うかわたしにはよく判んないや――ねぇねぇ、フィル、そんな事よりその川沿いの桜、見てみたいな。連れて行ってよ」
「いいけど――追手がまだその辺をウロウロしてるかもしれない。おまえ、屋根の上、歩けるか?」
「屋根伝いに行けるの? 街を一望できそうだね」
それじゃあ、ついて来い、慎重にな、踏み破るなよ、とフィルが歩き始める。大丈夫か気になって様子を見ると、ついてきているものの景色を気にして慎重とは到底言えそうもないキュアだ。
「おい、こら! キョロキョロしてると落っこちるぞ」
「だってこんな景色、もう見られない――心配してくれるなら、フィル、手を繋いでよ」
「はぁ?」
呆れてしまうが、ニコニコとキュアが差し出した手を見ると、チッと舌打ちをして、仕方ねぇな、と手を繋いだフィルだ。
「フィルはいつもこんな景色を見ているの?」
「どういう意味だよ、それ?」
「だってコソ泥なんでしょう? こうやって屋根を
「おまえも馬鹿だねぇ、他人のこと、言えないぞ。真昼間から商売する盗賊がどこにいる?」
「ここにいるじゃん」
「これはアクシデントだ――だいたいおまえ、なんで窓から飛び降りた? 逃げ出したのは判ってるからな。逃げただなんて言うなよ」
「うーーん、難しいこと言うねぇ。それに判ってるなら訊かないでよ」
「なんで逃げたのか訊いてるんだよ」
「あぁ……座長のヤツ、わたしを売ろうとしたんだ。誰があんなヒヒ
「気に入らない客だったか」
「気に入るも入らないも――わたし、自分を売る気はないんだ」
チラリとフィルはキュアを見る。
「旅の一座にいるのなら、今までだって何度も客を取っただろう? 今更なんじゃないのか?」
するとキュアがクスリと笑う。
「お
「そりゃあ、珍しい――キュア、年は幾つだ?」
どうせ嘘っぱちだと思うフィル、クスクス笑いながら話を合わせる。旅の一座なんて、若くて見栄えが良ければ、客を取るのが常道だ。早ければ十を過ぎれば、遅くても十五になれば声が掛かる。よっぽど見た目が悪ければ、客が付かないこともあるだろうが、キュアはむしろ
「十七さ。フィルは? 大して違わなさそうだよね――十八になると、いくら生娘でも値が落ちる。だから座長は早くわたしを売りたいのさ。何人も客を取るより、そのほうが楽だぞ、ってね」
「それって……」
思わずフィルの言葉が詰まる。一晩限りではなくて、身柄を売る、つまり手放すという事か。囲い者になれってことか――急に気持ち悪さが込み上がる。さっき食べたソーセージのせいか? 違うと判っていても、そう思いたいフィルだ。
「一座を離れて、買い取った男の世話になれって?」
「そう、そのほうがおまえのためだって座長が言う。惚れた男と一緒になりたいなんて夢みたいなことを言うなって笑われる」
惚れた男ねぇ、苦笑いしながらフィルが立ち止まる。
「よし! ここから降りよう。昇るより楽だ、自分で降りろよ」
「えぇ?」
下を覗いたキュアがフィルに、怖いと目で訴える。仕方ねぇなぁ、と舌打ちして
「しっかり捉まってろよ」
嬉しそうな顔のキュアを担ぎ上げたフィルだった。
その畔に背ばかりは広場の桜と変わらないものの、幹も枝も細く、しかも一本きりで寂し気な桜があった。
道から低木に隔てられた土手を降り、桜の下に立つ。川ギリギリの桜は、大雨でも降れば流されそうな位置だけど、ここまで育ったという事はこの川は温和しい川なのだろうとフィルは思った。
「同じ桜でも随分違うねぇ」
梢を見上げるキュアが笑う。
「なんだか寂しそうで親近感を持っちゃうよ」
「そうか? よく見ると蕾がたくさんついている。満開になればそれなりに華やかになると思うよ――キュアは寂しいんだ?」
うん? とフィルを見てからキュアが
「アンタ、母ちゃんは?」
座りなよ、とフィルの手を引いてからキュアが尋ねる。
「わたしの母ちゃんはね、半年前に死んだんだ――」
訊いておきながら、フィルが答える前に話し始めたキュアだ。
「昔は売れっ子の歌姫。人気者だったそうだよ。でも病気になっちゃって……それでも座長は母ちゃんとわたしを追い出しはしなかった。本当はどこかに留まって静養したほうがいいのは判っていたさ。一座と一緒の旅は、病気の母ちゃんにはキツかっただろうね。でもね、そこまでの余裕は一座にはないし、それまで稼がしてくれたことへの温情だって、座長は追い出しもしないで面倒見てくれた。でもそれが精いっぱいのはず。薬代も出してくれたから、ひょっとしたら座長は借金してるかも――いつか返せるようになったら返そうと思ってる」
黙ってフィルもキュアの隣に腰を降ろす。その薬代の返済に、キュアは売られるってことか――
「座長が言うのも判るんだ……旅から旅で落ち着かない生活。それに、一座にいるのなら、やっぱり客を取らなきゃならなくなる。他の座員が『なぜ特別扱いする』って騒いでる。一回済ませば楽になるぞって言ってくるヤツもいる。何だったら教えてやろうか、ってね」
でもね、とキュアがフィルを見る。
「キュアには好きな人と一緒になって幸せになって欲しい、って小さい頃から母ちゃん、わたしにそう言ってたんだ。一緒にはなれなかったけれど、キュアは大好きだった
溜息を吐いたフィルがキュアから目を逸らす。
「そうだな、一座にはその一座のルールがある。客を取るのも一座の仕事、だとしたら、いつまでもイヤイヤはしていられない――どうしても嫌なら、一座をやめたらどうだ? だけど、きっと自分じゃ稼げない。結局、自分を売るしかなくなる。座長の言う通りにするのが一番かもな」
「他人事だと思って簡単に言ってくれる」
「俺が、初めて客の相手をしたのは五つだった」
えっ? 驚いたキュアがフィルを見る。
「俺の母親は商売女だったからね。当然って言えば当然だ。客が付かなきゃその日の飯はない、いつも腹をすかして、惨めで……でもさ、どんなに痛くても嫌でも、母ちゃんが言った通り、目を閉じて我慢してればそのうち終わる――中には菓子なんかくれる客もいて、その菓子と渡された金を持って帰ると母ちゃんが大喜びしてね。二人で菓子を分け合って食べた。我慢してよかった、って思えたのはそんな時だけだったな」
遠慮がちにキュアがフィルに問う。
「コソ泥じゃなかったの?」
「うん? コソ泥さ。でも、子どものころは違ったってだけ――母ちゃんが俺を造り酒屋の旦那に売り飛ばしたのは俺が七つの時だった。毎日のように玩具にされたけど、それまでの生活よりはマシだったかもな。食べる物も着る物も上等、相手をするのは旦那だけでいい。読み書きも教えてくれたし、なにしろ毎晩風呂に
「わたしに金持ちの誰かの世話になれって言うの? それでフィルは幸せだったの?」
フィルがキュアを盗み見る。涙をためた真っ直ぐな瞳にたじろぐフィルだ。
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