1 逃げた女
桜の木に囲まれた広場は大勢が詰めかけて、賑やかに笑い声が響いていた。出店も多く、客を呼ぶ声も騒がしい。食べ物、飲み物、これからの季節に使う装飾品、春らしく切り花を入れた籠を天秤で担いで売り歩く姿も見えた。
桜は八分咲き、所によっては満開で、ちらほら舞う
(人の出は予測以上。出店の数は思ったより多い程度。でも、売られているものは安価な物ばかり――
宿に着いた時、祭りと聞いて好都合だと思ったが期待外れだったようだ。お客には富裕層しか選ばない。一通り街を見て周ったが、贅沢な装いの者はいなかった。かと言って、取り立てて
「この街は裕福なのかい?」
串に刺したソーセージを焼き売りしている屋台で訊いてみる。
「そうさねぇ。領主さまが無体な税の取り立てをなさらない。食べるに困る者には何かしらの施しさえしてくださる――裕福とは言えないものの、いい所だと思うよ」
ソーセージを寄こしながら売り子が答える。
「おニイさん、旅の人かい?」
「あぁ、祭りだなんて知らずに来た――随分な人出でびっくりしてる」
代金を渡し、返す手でソーセージを受け取った男が答える。すると売り子が笑いながら、
「祭りに合わせたんだか知らないが、曲芸の一座も来ている。そっちの客も集まったんだろう。最近、ここら一帯で人気の一座だそうだよ」
と教えてくれた。俺も見に行きたいがソーセージ売りに忙しいからなぁ、売り子の愚痴を後ろに聞いて、男はその場を離れた。
(なるほど。確かに裕福とは言えないらしい。つなぎがたっぷり入ってら)
ソーセージを
(金持ちが泊まるような宿じゃない――でも、今日はいる)
宿を見上げると、ちらほらと他の窓とは違う、上等な布が掛けられた窓がある。外から見られるのを嫌がってか、宿の粗末なカーテンでは不満なのか、客が自らかけた布だろう。
(つまり、その窓の部屋にいるのは上客)
狙うなら、客が曲芸を見に行って留守の時だ。でもなぜだろう、あまり気が進まない。こんな田舎の宿、忍び込むのは他愛もないのに――
嫌な予感がする。嫌な予感はたいてい当たるもんだ……この街では
なんだろう? と見あげると乱暴に窓が開けられた。
「危ないよっ! どいて!」
えっ? と思う間もなく、窓から飛び降りてくる……女?
ふわり、と何かが広がった。待て! 男の怒鳴り声が追いかけてくる。その先に見えるのは薄青い春の空、いくつか桜の
考えもなしに男の腕が伸ばされて、落ちてくる女を受け止め――受け止めきれずに
「ぅおう! って、ててて……」
思い切り尻もちを
「どいてって言ったのに! ちょっとあんた、頭、大丈夫? あ、そうじゃない、ぶつけてない?」
言いながら、さっさと女が立ち上がる。ふわりと広がったのは、どうやら女の髪のようだ。薄い色のブロンドが光を透かしてしまいそうだ。
頭は大丈夫かと聞かれた男がつい吹き出した。すると、
「ちょっと! 笑ってないで早く起きて――逃げるよ!」
女が手を引いてくる。
「逃げる?」
訳も判らず立ち上がると、
「こっち!」
掴んだ手を離さずに走り出す女、えっ? と引きずられるまま男が振り返れば、女が逃げ出してきた宿の出入り口から飛び出してきた追手が見える。
「早く! 早く!」
どうして俺も? と思いながら、
「おまえの足じゃ逃げ切れないぞ?」
面白いことになりそうだ、男が女の手を引いて走り出した。
「俺に任せろ。追手を
通りを走り抜け、追手との距離が変わらないまま、不意に男が角を曲がる。
「な! 行き止まりじゃないの!」
「おぅ! 屋根に上るぞ!」
「えぇ?」
「急げ、ヤツがそこから顔を出す前に上り切って屋根に隠れるぞ」
「上るって、ここを?」
建物の際に押しやられながら女が上を見る。三階建ての窓には手すりがあるけれど、他は
「めんどくせぇ! 捉まれ!」
戸惑う女の腰より下を男が担ぎ上げる。慌てて女が男の頭に抱き着くと、男はスルスルと、窓の手すりや庇を辿って上っていく。あっと言う間に屋根に辿り着けば、『伏せてろ!』と女を転がし、自分も
「な、なんでいない!?」
路地ではやっと姿を現した追手が、獲物を探してきょろきょろと見渡している。
「チッ! 一つ先の路地か?」
舌打ちをすると追手は路地を出て行った。
しばらく待って男が屋根に座る。
「もう大丈夫だ、戻ってきそうもない」
男に
「アンタ、
「うん、そんなとこだな。でも、女を盗んだのは初めてだ」
クスリと笑う。
「アンタだったら、盗まなくったって不自由しそうにないけど? それにしても、なんで袋小路なんかに逃げ込むのよ?」
チラリと男が女を見る。
「建物は三階建て、その高さより袋小路の奥行きは距離が短い。そんな場合、慌ててるヤツは袋小路を閉鎖された空間と受け止める。ここにはいないと思い込む。道が続いていれば、道の上にある空間に目を向ける確率が高くなる。だからわざわざここに逃げ込んだ、って、おぃ!」
「うん?」
男の理屈っぽい話にはさっさと飽きた女、
「訊くから説明したのに、聞いちゃいないし」
男の苦笑にクスリと笑い、
「だって、ほら、桜が綺麗だよ」
と、屋根の下に広がる風景に気を取られている。
つられて通りの向こうを見れば、一段低くなった広場は桜の花で満たされ、薄紅色の海のようだ。
「わたし、キュア。旅の一座の踊り子で歌姫。あんたは?」
「俺はコソ泥なんだろう?」
「名前もコソ泥なの? 親に文句言ってやりなさいよ」
「名前か……名前はフィル」
「うん?」
男の答えにキュアが急に男に視線を戻す。
「それ、嘘でしょう? 一瞬迷ったよね。わたしに名前を知られると拙い? お尋ね者とか?」
「へぇ、割と鋭いんだな。二階から飛び降りるなんて考えなしかと思ったら――自分の名前が嫌いなんだよ。フィルって言うのも嘘ってわけじゃない」
「そんなに変な名前なの?」
「ン……本当はフィリア。でもさ、フィルってみんな呼ぶから、な? 嘘ってわけじゃないだろう?」
フィルの顔を見詰めてキュアが目をパチパチさせた。
「って、フィリア? 女の名前じゃないの。アンタ、女だった? ううん、騙されない、わたしを持ち上げた身体は男だった」
「だから嫌なんだって言ってる。たいていみんなそんな反応だ。だからフィルでいいんだ」
「なるほどね、判ったフィル、よろしくね」
何がよろしくなんだろう? そう思ったがフィルは何も訊かなかった。キュアの視線は桜の広場に戻り、嬉しそうに桜を眺めている。とっくにフィルから興味が離れてしまったようだ――
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