盗まれた女
寄賀あける
⋆ プロローグ ⋆
動かないはずだ。誰がしっかり捕まえて、抱き上げた。こいつ! やめろ、放せ! 母ちゃん! どんなに叫ぼうとしても声が出ない。
抱き上げた男が母ちゃんの手に
男の声が耳元で聞こえる。いい子だから
「やめろ!」
やっと吐き出された叫び声、ガバッと起こされた上体、べっとりと身体に貼り付く気持ちの悪い汗――またあの夢だ。俺を
のどが渇いた。たしかテーブルに水差しが置いてあったはず――ベッドから降りようと部屋を見ると、向こうのベッドサイドに腰かける人影があった。
「
「あぁ、悪い夢を見た。睡眠の邪魔になったんだったら済まない」
街は春祭りで人が集まっている、相部屋しかない。それが嫌ならほかの宿を探すんだな、どこも空いてやしないけどよ――野宿よりはましだと相部屋で手を打った。相部屋と言っても知らない相手じゃない。
窓から差し込む月明かりを頼りに、テーブルの上の水差の水をコップに
「汗を拭いてから寝たほうがいいぞ」
「あぁ。着替えてから寝直すよ」
声をかけてきた男はもっと何か言いたそうだったが、そのまま自分のベッドに横になった。
相部屋の男アートロスとはある街でひょんなことから知り合って、それから何となく同じ道行きで旅をしている。なんとなく、と言うのは間違っているか。アートロスが気になって、
フィリアに言わせると、アートロスは不思議な男だった。彫像のように美しく整った顔、
普段は濃紺のマントのフードを被り、髪も顔も隠すようにしているが、商売の時はマントを裏返してこれ見よがしに美しさをひけらかす。無理もないか、アートロスの商売は吟遊詩人だ。人目を引くのも商売の内。
濃紺のマントの裏側は燃えるような赤、まるで朝焼けの空のよう。そしてその時、アートロスの金髪は昇る太陽のように輝きを増す。だけどそれだけじゃない。それだけなら、ただの美しい吟遊詩人と言うだけだ。
ひょっとしたら、とフィリアが思う。コイツ、魔法使いなんじゃないのか?
出会ったその日、
自分の道は自分で決めろと言い、ついていくフィリアを無視しているようで拒絶もしない。そんなアートロスは、行く先々で不思議な出来事に遭遇し、それをやはり不思議な力で解決している。きっとあれは魔法だ。
(ヤツの魔法は他人の夢を覗き見できるのだろうか?)
コップの水をごくごくと飲み干しながら、フィリアがアートロスを盗み見る。
(もし、そうだとしたら……)
もしそうだとしたら、なんだって言うんだ? 飲み干したコップをテーブルに戻す。
(そうだとしたって、どうしようもないじゃないか)
着替えもせずにベッドに潜り込むと、頭まで毛布を被ってフィリアは目を閉じた。
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