盗まれた女

寄賀あける

⋆  プロローグ  ⋆

 えた匂いがしそうな部屋の、そのまた奥の部屋の中からギシギシとベッドがきしむ音がする。聞こえるのはそれだけじゃない。荒い息遣い、女の切ないあえぎ声――早くどこかに行かなきゃ、そう思うのに足が動かない。母ちゃんが客の相手をしてる。ここにいて見つかりでもしたら客に張り飛ばされる。そう思うのに身体が動かない。


 動かないはずだ。誰がしっかり捕まえて、抱き上げた。こいつ! やめろ、放せ! 母ちゃん! どんなに叫ぼうとしても声が出ない。


 抱き上げた男が母ちゃんの手にかねを握らせる。まだ子どもなんだから、手加減しておくれよ。男にそう言うと母ちゃんは、背中を見せてどこかへ消えた――母ちゃん? 母ちゃん!


 男の声が耳元で聞こえる。いい子だから温和おとなしくしてな。痛い思いをしたくなければ暴れるな――いやだ! 何をする気だ? やめろ! あぁ、なのに声が出ない。


「やめろ!」


 やっと吐き出された叫び声、ガバッと起こされた上体、べっとりと身体に貼り付く気持ちの悪い汗――またあの夢だ。俺をとらえたまま、決して放そうとしない悪夢。死ぬまでコイツに悩まされ続けるんだろうか?


 のどが渇いた。たしかテーブルに水差しが置いてあったはず――ベッドから降りようと部屋を見ると、向こうのベッドサイドに腰かける人影があった。


うなされていたぞ」

「あぁ、悪い夢を見た。睡眠の邪魔になったんだったら済まない」


 街は春祭りで人が集まっている、相部屋しかない。それが嫌ならほかの宿を探すんだな、どこも空いてやしないけどよ――野宿よりはましだと相部屋で手を打った。相部屋と言っても知らない相手じゃない。


 窓から差し込む月明かりを頼りに、テーブルの上の水差の水をコップにそそぐ。


「汗を拭いてから寝たほうがいいぞ」

「あぁ。着替えてから寝直すよ」

声をかけてきた男はもっと何か言いたそうだったが、そのまま自分のベッドに横になった。


 相部屋の男アートロスとはある街でひょんなことから知り合って、それから何となく同じ道行きで旅をしている。なんとなく、と言うのは間違っているか。アートロスが気になって、うなされていた男フィリアが勝手についてきているのだから。


 フィリアに言わせると、アートロスは不思議な男だった。彫像のように美しく整った顔、きらめく黄金の髪はサラサラと滑らかに腰まで届く。


 普段は濃紺のマントのフードを被り、髪も顔も隠すようにしているが、商売の時はマントを裏返してに美しさをひけらかす。無理もないか、アートロスの商売は吟遊詩人だ。人目を引くのも商売の内。


 濃紺のマントの裏側は燃えるような赤、まるで朝焼けの空のよう。そしてその時、アートロスの金髪は昇る太陽のように輝きを増す。だけどそれだけじゃない。それだけなら、美しい吟遊詩人と言うだけだ。


 ひょっとしたら、とフィリアが思う。コイツ、魔法使いなんじゃないのか?


 出会ったその日、ふところでダガーを握りしめたフィリアの喉元に目にもとまらぬ速さで剣を突きつけ、あっという間に剣を消した。そして――


 自分の道は自分で決めろと言い、ついていくフィリアを無視しているようで拒絶もしない。そんなアートロスは、行く先々で不思議な出来事に遭遇し、それをやはり不思議な力で解決している。きっとあれは魔法だ。


(ヤツの魔法は他人の夢を覗き見できるのだろうか?)

 コップの水をごくごくと飲み干しながら、フィリアがアートロスを盗み見る。


(もし、そうだとしたら……)

 もしそうだとしたら、なんだって言うんだ? 飲み干したコップをテーブルに戻す。


(そうだとしたって、どうしようもないじゃないか)

着替えもせずにベッドに潜り込むと、頭まで毛布を被ってフィリアは目を閉じた。

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